メモ…「母校沿革史」検討の参考として     (その1)

◇ 高槻中学校・高槻高等学校「あゆみ」シンポジウム

メモ…「母校沿革史」検討の参考として        2009・01・11 橋本健午(槻友会13期)

 *目次にかえて*
  1.吉川昇の“若き”日々 (1) 東京高師時代
  2.吉川昇の“若き”日々 (2) 岡山師範/高知県立三中/府立第一高女/私立土佐中学
  3.吉川昇と眞田範衞、そして灘中学
  4.中学時代・高師時代の友、つながる縁で高槻へ
  5.旧制から新制へ 高槻中・高校の揺籃期 (1)
  6.旧制から新制へ 高槻中・高校の揺籃期 (2)
  7.初代…藤堂理事長と吉川校長
  8.母校の自己紹介、その“沿革”をたどる
  9.「沿革」には何を盛り込むべきか
  10. 編集「後記」が物語るところは
  11.「国運負荷の大任に堪ふべき…」の出典
  12. 参考資料…「青少年學徒ニ賜ハリタル勅語」「教育勅語失効に関する決議」
  13. 学校創立者と“ことば”の解釈
  14.“知徳体”/「教育理念」「教育目標」など
  15.「理念」など目標は高くてよいが…
  16. 時代は、21世紀
  17. 参考資料…「知・徳・体」について
  18.“建学の精神”とは/「真面目に 強く 上品に」
  19.「趣意書」は意思表明、立候補の弁に過ぎない
  20. 設立へ 寄せられた寄付の実態 (1)
  21. 設立へ 寄せられた寄付の実態 (2)
  22. 建学いや“見学”の精神、その懸隔について(早稲田大学の場合)

(文中、原則として敬称を略します。また、ルビは引用文を含め橋本が施しました)

1.吉川昇の“若き”日々 (1) 東京高師時代

 吉川昇が教職の道に進む動機は不明だが、東京高等師範学校(東京高師)での学生生活、その校長嘉納治五郎の影響、 そして長い教師生活でのスポーツや山登りの実践、のち灘中学初代校長となる眞田範衞(のりえ)との出会いがあった。 まず、吉川の略歴を紹介しよう。
 1886(明治19)年4月、和歌山県に生れた吉川は12歳のとき九度山高等小学校を2年で修了し、県立和歌山中学校に進む。 17歳で同中学を卒業するが神戸高等商業学校の受験に失敗。翌1904年、東京高師に入学。 直ちに庭球部へ入り、やがて選手として「重きをなし、各種マッチに出場」し、2年後には「庭球部主事。功牌・賞状を受け」るまでになった。
 1908年、東京高師本科英語部を卒業し、9月に岡山県師範学校教諭兼訓導及び舎監となった。 翌年、花房キクヱと結婚するが、7月下旬から6週間、現役兵として入隊もした。
 1916(大正5)年5月、30歳で岡山師範を退職、高知県立第三中学校教諭となり、3年ほどで退職し、京都府立京都第一高等女学校(府一)教諭となる。 在任中、高等科(文科・理科)を開設すべく奔走し、その努力を実らせ、さらに1925年秋、府一は第1回京都府下女子中等学校連合競技会で各種目に優秀な成績を上げた。 吉川はその後も運動部指導に熱を入れる。

 この間、高等学校英語科教員検定試験に合格している。この時代、皆このようにさらに上を目指し、努力をしていたのだろうか。 ≪下線、橋本による。以下同じ≫
 1926(大正15)年には公立高等女学校教授の辞令を受ける(40歳)。 一方、36歳ごろから始めた俳句は、3年後に「ホトトギス」5月号に初めて載り、以後も句作に励む(「黒馬」と号す)。 また、この年、府一生徒の第1回アルプス登山を企画し白馬に登るなど、毎年7月に常念岳、燕岳あるいは立山に挑戦していた。 槍ヶ岳に登ったのは43歳のときである。
 その1929(昭和4)年12月に府一を退職した吉川は、私立土佐中学校教諭兼教頭にもなり、翌年10月には県立高知第二高等女学校教諭を兼任。 しばらく高知に留まっていたが、1936(昭和11)年、土佐中学校を退職し、私立灘中学校教諭となる。すでに50歳となっていた。
 1941(昭和16)年3月灘中学校を退職し、4月私立高槻中学校の初代校長となる。1961年8月に退任するまで55年にわたる教師生活であった。 (以上、『黒馬 吉川昇先生』を参考に)

 吉川が学んだ東京高師は、1881(明治14)年7月に東京大学文学部(政治学科・理財学科・哲学科)を卒業した嘉納治五郎(講道館館長)が校長をしていた。  嘉納は卒業の翌年、23歳で講道館を創立したが、東京高師の校長になるまで、学習院で教師、教授補を経て27歳で教授兼教頭となり、文部省参事官に就いたのは32歳、その年に熊本第五高等中学校校長も兼任する。その後、役職はさらに増えた。たとえば、  1・25)任文部省参事官、叙高等官四等。大臣官房図書課長兼務に。6・19)第一高等中学校校長(兼務)に就任。9・13)高等師範学校長心得兼務に。9・20)高等師範学校校長に就任(三職兼任)  この1893(明治26)年、嘉納は34歳、吉川は7歳であり、もう一人眞田範衞は3歳あたりであったか(略歴は『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』日本図書センター1997・02より)。

 校長嘉納治五郎について、吉川は次のように記す(『黒馬 吉川昇先生』p200:昭和49年)。
 「高等師範学校の恩師たち」 直接教わらなかった先生方について。(執筆時、最晩年)
 嘉納治五郎校長、先生の庭球嫌いは徹底していた。コートの傍を通られる時、行きにはコートが左側にあるのでお顔を右に、帰りは左に向けられた。 本三《本科3年》の時、各部と座談会を始められた。 その時私が、「一つ注文があります。今、先生方はお好みのままに講義せられるので、ある時は詩にある時は劇にという風に偏っています。 これでは卒業後の必要からも心もとなく思いますので、英語部として総合的の案を建てていただきたい」と申しますと、 「それは注文というものでない、お願いというのだ」とまず一本のあと、「それは出来ないことでない。 しかしそのためには、一流の先生の下にその統制に服する二流以下の先生を集めねばならぬ。それでよければ考えてみてよい」とのこと。 それで私始め一同願い下げてしまった。 ・・・《同書p66にある随想「嘉納先生が」は、同じ内容にふれ、「若いときの美しい夢にすぎなかったであろう」(昭和23・8・28)と結んでいる》

2.吉川昇の“若き”日々 (2) 岡山師範/高知県立三中/府立第一高女/私立土佐中学

 前項に“嘉納先生の庭球嫌い”とあるが、「そもそも庭球の技たる、わが校によりて皇国に輸入せられ、またわが校によりて全国に伝播せしもの」と 『東京高等師範学校庭球沿革史』の冒頭に記されているという(『黒馬 吉川昇先生』p202)。 そして「明治三十六七年の交、高師・高商(いま一橋大学)の外、新たに慶応・早稲田の二校勃興して東都庭球界に四大雄鎮の目定まりて以来、 春秋の競技は龍驤虎嘯(りゅうしょうこしょう)もっとも激烈をきわめ、 わが校の選手の責任更に一層の重きを加うるあり」という時代に、吉川は入学し活躍したのだった。 「三十九年になると、尾崎・吉川組として常に大将ペアーの前衛に定着された模様である。 最後の四十年度には鶴見・吉川組は高師のナンバーワンであったばかりでなく、日本庭球界の輝かしい存在であったことは内外の記述に詳しい」。
 さらに「先生の好敵手で慶応のリーダーであった小泉信三氏の名もここに登場、吉川先生より古く、 三十六年から四十年に至る春秋のマッチでのその勇姿を伝えて」おり、 「テニスに始まった小泉・吉川の交遊は敬愛こもごも深く、ついに生涯を貫いたと聞く」と記すのは『黒馬 吉川昇先生』の編者村上優廣である。 村上は高槻の教師として、長く吉川のそばにいた。(以下、引用は同書より)

 岡山県師範学校に、22歳の初々しい英語教師として赴任した吉川は、授業もさることながら、やはりテニスのうまさで目立った。 教え子たちは回想する。「特に先生の前衛でのストップボレーの如きは正に妙技神に入るといったもの」であり(明45卒)、 「大股にふんばりラケットを大きく振り廻し熱球を飛ばして相手をへこませる」先生の指導で、 「庭球部は急速に面目を一新し、対校試合にも格段の強みと活気をもたらした」(明44卒)、という。
 教室ではどうだったか。「学者であって立派な教育家であった先生は両者を兼ね備えたもので数少ない存在であろう。 …高等教員の試験に合格されたことも学究の一端のあらわれであると思う」(大2卒)。 また、英語と学年主任の「先生の教育は情熱的であり、また実に厳しいものでした。 毎週教え子全部について、間違いなくディクテーション《添削》の時間を設け、各個別に克明に赤ペンで添削を入れられました。…」(大5卒)。 なお、吉川は教諭兼訓導及び舎監との記述もある。

 教え子の一人、東京高師の教授もした英文学・英語学の大家、大塚高信は次のように綴る。
 「師を偲ぶ」…吉川先生は明治四十一年東京高師の卒業であるから、私が岡山時代に先生から英語の手ほどきを受けたのは、 先生が三十才前後のお若いころであった。高師時代にテニスの選手であった先生は、生徒を相手にテニスの指導もされ、 当時浜寺で行なわれていた中等学校庭球選手権試合に選手を送るほどに岡山師範の庭球部を有名にされたのであった。 /教室における先生の英語の教授は厳格そのものであった。一言一句もゆるがせにしない教え方は、東京高師英語科の伝統的なもので、 お口の悪いのも同じ伝統かも知れぬ。教室で立往生して泣かされたものも少なくなかったはずだ。 /しかし先生が赴任されて数年たつと上級学校への進学者が急増したことは、先生のドリルのたまものだと私は思っている。
 /私は先生と同じ学問の道を進みながら、先生が高槻の学校に来られるまでは余り交渉がなかった。 /しかしこの間、先生は旧制の高等教員検定試験に合格されたほどの勉強家であった。 この検定試験に合格した人は、戦前なら、旧制高校や専門学校に勤めるか、戦後ならば、大学の教授となっているはずであるのに、 先生は敢てその方面には進出されなかった。 そして最後は高槻の学園の校長としてお勤めになっていたが、校長でありながら、英語に関する研究は絶えずなさっておられたようだ。 ときたま電車の中でお会いするようなことがあると、いつも話題になるのは、校長学とは凡そ縁のない英語の語法に関すること、 またときには、構造言語学に対するご批判などを聞かされて、びっくりするようなこともあった。 /先生は反骨の士、皮肉の大家であったように思う。高槻中学の校長になられて間もないころのことだが、 学校のカリキュラムが占領軍の指令によって新しく改められたとき、先生は敢然として旧制の優れた点は改めようとはされなかった。 「私立学校だから、自分の思う通りにやるんだ」といっておられた。
 /「英文学双書」という英米文学の作品に、わが国の当時の英文学者が注釈をつけたものが刊行されたとき、 先生は百冊あまりの注釈本を丹念に読んでおられたが、あるとき私に「○○という教授はどんな人だえ? こっちの解らんことは少しも注をしていない!」と言われ、 先生の慧眼に驚いた。ウインストン・チャーチルでも言いそうな評言である。 /「何を言いよる!」という、小首をかしげた先生のお声が聞えてくるようだ。……(大6卒)。《なお、“/”は改行を表す以下同じ》

 ついで、高知県に移る。作家の上林暁は高知県立第三中学校で教えを受けた一人である。
 「…先生は京都府立第一高等女学校へ転任した。その女学校には、のちに私の婚約者になった少女(田島しげ子)が在学していた。 …私たちは夫婦共に吉川先生の教えを受けたのだ。その後、先生は土佐中学の先生として、ふたたび高知県に来られた。 土佐中学は秀才を集めるので有名だ。吉川先生も優秀な先生と認められていたにちがいない」(大10卒)。

 この土佐中学を出た公文(とおる)(第7回生)は昭和26年、母校の教諭をしていて、 関西の学校視察を命じられ、恩師吉川を訪ねた。 吉川は「この学校は中、高一貫した学校であり、私立だから教育委員会の制約はないので、世間でどう言おうと、 大学の予備校としての教育をすればよいと思っている」 「理事長がよくわかった方で、金を出してくれた上で一切を任せてくれるのでやり易い。職員も優秀な人を集めている。 生徒は特別に優秀とは言えないが、これからだんだん楽しみになってくる」と話す。独特の数学教育を実践する公文も、その後、中高一貫校を設けている。

 また、第13回生の久保内良彦は長文の「吉川昇先生を偲んで―思い出すままに―」を寄せている。抜粋して掲げよう。
 …吉川先生の講義時間は、前述のように常に勉強して出席し、緊張して議義を聞かねばならなかったが、その反面先生はユーモアーを解し、 高尚なジョークを飛ばして生徒を笑わせ、適当に緊張を解かせる術を心得ておられ、その硬軟両面、緩急自在の教授法によって、 吾々に英語の基礎をたたき込み、英語に興味を持たせた。その点では、吉川先生は英語教育の極めて卓越した実務家であったと思う。 /私は或る機会から、このような学校に於ける吉川先生とは又別の面の吉川先生に接し、その為人に就いて識ることが出来た。 それは吾々のクラスが三年生から四年生に進学する春休みの時の事である。(中略) /その時、《吉川先生から》日頃学校ではお聞き出来ないような事を色々とお聞きすることが出来、(中略)今も記憶に残っている事のひとつは、 スポーツをやる場合早く上達しようと思えば、出来るだけ早く平均以上のレベルに到達することだと言われた事である。 吉川先生は仲々のスポーツマンで、特にテニスの名手であった。洗練されたスポーティな服装をされ、キビキビした動きでテニスをよく楽しまれていたが、 その御体験から、下手では人が相手に入れて呉れないし、又練習試合の場合、或るレベル以上にならないと、負けて一回で次の組に更替せねばならぬので、 仲々順番が廻ってこず上達しないが、レベル以上になると、勝ち残ることが出来るようになり、それだけ加速度的に練習が出来、 腕が上がるのだという御趣旨の御話であった。学問の場合でも或る程度同様のことがいえるよときびしい目で付け加えられた。(中略) /その頃の土佐中学は、豊かな基金の下に運営されており、先生方は極めて恵まれた給与条件であったと思われる。 したがって、教頭の職にある吉川先生などは後半生を豊かにノンビリとそれこそ優雅に楽しまれているものと考えられていたが、 その先生が御家庭に於いても研鑽を積まれている事を知って、それ迄の誤解を恥じるとともに、一層尊敬の念を高めた。 その他色々の御話をお聞きし、博覧強記で教育の実務者とのみ理解していた吉川先生が、高い識見とすぐれた人生観の持主でもあることを再認識した次第であった。(中略) /一年後、私が高知高校へ進学して間もなく、吉川先生は沖谷先生と御一緒に灘中学へ転任されて行った。 聞く処によれば、灘中学の教育方法は土佐中学と同様に、一学年で普通の高校の二学年の分迄、二学年で三年の分までやるやり方だとの事であるが、 このシステムが吉川先生御赴任前からあったものなのか、先生御赴任後に始まったものなのか寡聞にしてよく知らないが、 吉川先生が御赴任後御提唱されたのではなかろうかと想像している。……

 さて、1919(大正8)年、33歳から10年間勤めた京都府立京都第一高等女学校(府一)での吉川は、どうであったか。 《文中に出てくる“黒馬”は吉川の俳号で、ダークホースの意》
 「(喜寿を迎えられ、そのお祝いをと先生に意向をうかがうと、“2,3人でも心からそう思う人がいたら、その方々から祝ってもらおう”といわれ、 会を催すと)先生の教えをうけたクラスから、また運動部員として先生のご薫陶を受けた下級の方々から、 我も我もと誠に自然な純粋な形で集まったのが、当時三百六十五人の黒馬会員」だった。 第1回のときの言葉の一つ「三十三才〜四十三迄、先生として一番元気のよい時期に府一にいた。一生の内一番懐かしい時であった。 一番幸福な時であった。その頃のことが印象深くて、何かにつけて、皆さんと一緒にいたのが得《徳?》であったと思っている」 (大正9年本科/同12年国漢専攻科…以下“国”)。
 「英語の先生として府一にご着任になったのは大正八年。…先生は大石《和太郎》校長の知遇をえたことを深く感謝していらっしゃいました。 …このころから次々とお若い先生を招かれ、校内に新風が吹き通い、生気溌溂の気が漲りました」(大9本科/同12国)。 「大石先生!なんと偉大なる校長先生。校則もすっかり変って、何も彼も自由になった。 それと同時に、Y、K、Sと三人の進歩的な先生のがっちりとスクラムを組んだ教育。 そのスクラムのもと、楽しく嬉しく教育された私たち、ほんとうに幸せだった。その偉大な先生の死。お葬式の日、吉川先生のお嘆きは殊の外だった。 お柩にくっついて行きたいとおっしゃって、大粒の涙をハンカチでおさえ切れずにいらした吉川先生。忘れようとして忘れられないあの日」(大12本科/同14高等科)。

 ここに出てくるYは吉川、Sは眞田範衞である。こういう証言もある。 「眞田先生と吉川先生と加藤先生(K)とは、(のちに中井先生も)それぞれちがった風格の先生なのだけれど、何か共通したものをお持ちになっていて、 ――それはお三人が揃って大石先生党でいらしたことも?――美しいご友情で結ばれてお出でになったようである」(大15本科/昭和4国)。

 府一では、吉川とスポーツ“部活”関係の思い出話も多い。 大正14年の新学期、バスケット部・陸上部・バレー部が新設されたのは、秋の府下連合競技会に出るためであった。
 すでに運動部長だった吉川は「(バスケット部の猛練習、放課後、日曜は朝から夕方まで、夏休みも返上して) いつもその場においで下さって、 コートわきで激励して下さったり、ときにはメムバーに加わって汗だくでゲームをして下さったりした。 それが私たちにどんなに励みになったことでしょう。…」。 その間、チームの和が問題となると、吉川は“ほんとうの和”はどういうことかを諭し「チームは社会の縮図だともおっしゃいました。 お蔭で危機も乗り切ることができ、その大会に優勝をかちえたばかりか、同じ年の明治神宮競技会にも初の京都府代表として上京する喜びをにな」い、 「約十年ののち、府一バスケット部は日本一のチームとな」った (大15本科/昭4国)。

 テニス部は、その前からあった。 「放課後、一分を惜しんでコートへ。小使いのおまきさんの部屋に飛び込み、運動服に着替えて、ネットを張り、ラインを引いて、ラケットを張ります。 だれもが張り切っておりました。首を据えて、腰をちょっとうしろに出された吉川先生が、煙草をお口に銜えてラケットを持って出て来られます。 白い球が高く低く打ち交わされ、先生の凄いヴォレーに悩まされながら、こちらも負けずにスマッシュを打ち込みます。 …時には『バスケット部』ばかり可愛がってと僻んだこともありました。…」(昭2本科)。

 陸上部…「技術上のご指導を戴く事がなかったけれど、人知れぬ苦心を重ね、地味な練習を続ける私たちの労をよくご存知でいて下さった。 授業を終えるとすぐ開始、それから薄暮のころまでの厳しい練習のために疲労困憊している私が、英語の時間に、よく下調べのできないのがお判りになった時には、 手加減をして下さるのだった。わざとらしくないよう、極めて自然に……。そうして先生のご親身なおはからいをどんなに有難く思ったことだろう」(昭2本科)。

 バレー部。昭和2年6月ごろ、体操の時間。生徒はF先生から、とつぜんバレーのサーブを命じられた。そして何人かが選ばれ、バレー部が誕生した。 吉川もその場でサーブをさせた生徒Tについて「『えらい掘出しものを見付けたぞオ』と、例のお顔中がよろこびで一ぱいというあのお顔であった」(昭5本科/昭7高等科)。 /「吉川先生の名講義を受けることはできなかったが、毎日の放課後、夏休、冬休、春休と誠に年中通して先生のおそばにいたことになる。 白いスポーツズボンと運動靴、首に手拭をかけていらっしゃる先生の温顔は、昔の府一の運動場を背景に目の前にまざまざと浮ぶ。 先生のこわいお顔は思い出せない」(昭6本科)。

 さて、登山。30余名「京都の女学生として最初のアルプス踏破は大正15年の夏でした。 このことも吉川先生のひたむきな教育へのご熱情のあらわれの一つだと思います。 …草鞋にカンジキをはいて目眩むばかりの雪渓の難所を横切り、急坂を攀じ登って、海抜2933米の白馬岳頂上を征服した時の歓喜と感動とは、 今もなお、生き生きと思い出すことができます。当時の運動部長として、校史にないこの快挙を決行されるまでには、 何年間にもわたって、生徒の体力づくりのために、いろいろと計画実行されました。 比良・伊吹登山、適応遠足第一班、雲母坂を休息なしで四明岳まで往復等々。そして先生はご自身で下見聞のための白馬登山を二度もなさいましたとか。 何分にも京都では前例のない女学生の団体でアルプス踏破をするのですから、万一の場合を憂慮され、消極的だった当時の先生方を根気よく説得されて、 いよいよ第一回の白馬岳登山をする時の先生のご意中を、私ども生徒は知る由もなかったのです。 …先生は(府一在籍の)自分の娘も参加させるとおっしゃって、登山決行を待たれたそうです」(昭2本科)。娘・文は何も知らされていなかったという。

3.吉川昇と眞田範衞、そして灘中学

 吉川昇(明治19生)と眞田範衞(明治22生)は東京高師の出身だが、出会ったのは日本で最初の女学校、京都府立京都第一高等女学校(府一)であったようだ。 略歴を重ね合わせると、
 (Y)大正8・8・7高知県立第三中学校を退職、府一教諭となる /S)同9・4・7大石和太郎校長の再三の招きにより府一教頭となる/同5・18公立高等女学校教諭、高等官七等待遇 /S)31歳)同10・10・19府一教授/この年、穂高岳に登る/Y)同11年、府一に高等科(文科・理科)を開設すべく奔走、努力4月に実る /Y・Sら)同13・5月、府一仲間数人そろって京都市左京区に住宅を建てる/S)同15・3・31京都府立亀岡高等女学校長兼教諭となる /Y)同7月、府一生徒の第1回アルプス登山を企画、白馬に登る/S)同8・28校長会議の後、北海道へ登山/Y)昭和2・7月、常念岳、燕岳に登る /S)同8・31亀岡高女校長を退職(灘中の校長として、嘉納先生が「年をとって有名な人がいいか、若くて有能な人か」と財団に聞き白羽の矢が /S)38歳)同3・2・28灘中学校初代校長に就任/Y)同4・7月、槍ヶ岳に登る/同12月)府一を退職、私立土佐中学校教諭となる /Y)同5・10月、高知第二高等女学校教諭を兼任/Y)同11・3月50歳)土佐中学校を退職し、灘中学校教諭となる /Y) 同16・3月、灘中学校を退職/同4月55歳)、私立高槻中学校の初代校長となる /S)同21・3・15発疹チフスで死去(新生灘高の先生採用のため上京、その帰途、満員の貨物列車で感染し、薬もなく…(56歳) …。 (眞田の略歴は『初代校長 眞田範衞の生涯と遺稿』1997・10より)

 吉川と眞田は、府一時代に同じ土地に家を新築したり、山登りをしたりするが、眞田の長女谷本さちこは上記『眞田範衞の生涯と遺稿』を編集して、次のように記す。 「ここで英語の吉川先生とは生涯の親友となり、先生は高知の学校に転出されたが灘に行き度いとて、昭和十一年灘に来られた」(同書「1 京都府立京都第一高等女学校時代」)。
 同書グラビアの「南アルプス登山にて」という写真、男ばかり10人の中に2人が写っており、 本文「旧五年制灘中学校校長時代」の「4 南アルプス登山記」に“吉川君”と五度ある。

 吉川は灘中学の生徒たちにどう映っていたか。 「卒業三十周年同窓会回顧」と題して、短歌五首を読んだ中の三首「にこやかなお顔を拝し思い出すバカバカバカとしかられしこと」 「いつまでも慕わるる身の秘訣かも八十路をすぎてなお書を読むと」「早世のクラスメートの先生の長男のことふれず別れき」(昭和14年卒)。 長男建彦は富山高校3年在学中に病死する……。

俳人楠本憲吉は「なだ萬」の御曹司、昭和15年に灘中学を卒業している。
吉川昇先生は私にとって“生涯忘れ得ぬ師”である。/先生の謦咳に始めて接したのは、私が灘中(現灘高)の三年生のときのことであったと記憶する。 英語の教師として赴任されたのだが、当時の校長、真田範衛先生とは厚誼があったようで、公の場では、いつも校長の次に列せられていた。 教頭以上の格であった。/なかなかにきびしい先生であった。従来の英語の教え方とは全く次元を異にした教授法に驚かされた。 /…「違う、パチン!」/パチンは頭を叩く音である。これが次々と我々劣等生を見舞い、できない奴は一発ずつ喰うわけである。
/しかし、私は倖せにも、先生の魚崎《現神戸市東灘区》のお宅へ通い、個人指導を受けることができた。 /お宅を訪れると、奥の方から「楠本だろ!上れ!」と先生の声がかかる。そしてみっちり二時間、きびしいご指導を受けたものである。
/私が卒業して間もなく先生は灘中から高槻中学へ移られ、そこの校長になられた。
/昭和十八年十二月一日、いわゆる学徒出陣令が出て、私も軍隊にかり出された。入隊したのが、高槻工兵隊、中部第二十九部隊であった。 /入隊する前に、私は大和古寺巡礼を試みた。各寺々の記帳に名前を書いておいた。 /私の行ったすぐあとに偶然先生も巡拝されたとみえ、先生から私の留守宅あてに、美しいおはがきを頂いた。 入隊前に古寺を巡拝した行為を大いにほめて下さった文章がそこにしたためられていた。
/私たち初年兵の訓練は時々高槻中学の校庭で行なわれることがあった。 /一度だけ先生をお見かけした。先生も気づかれたが、何しろ軍律きびしきなかである。ひそかに目礼を交わすのみであった。 しかし、先生とすぐ近くの地で、“地獄の初年兵時代”を過ごせたことは何ものにもかえがたい救いであった。 そしてほどなく私は渡満した。……(以上、『黒馬 吉川昇先生』より)

4.中学時代・高師時代の友、つながる縁で高槻へ

 少し長くなるが、若き日の吉川に関する、すなわち東京高師から高槻中学への軌跡とその人となりを伝える友人四角誠一の文章を、抜粋して転載させていただく。

 「大正9年の秋、5年ぶりに京都で吉川さんと再び対面。それから一生切れ目ないおつきあいがつづく《テニスの選手。内地に遠征してきた全満鉄チームの一員》。 /三年後に私は大阪瓦斯会社に就職。《昭和十一年四月、吉川は灘中学校に。校長の》真田氏は東京高師で私の一年先輩、抜群の英才であられた。 /真田校長の最も苦心されたことは、「教育は人にあり、教育の主役はまず教師その人である」として、真田氏の信頼する立派な教師を集めることであったようだ。 そのことについては、吉川さんは創立当初から真田さんの帷幄に参画されていたが、昭和十一年に至って、遂に吉川さん自ら乗出し、 あえて七年後輩の真田灘中学校長のもとに赴任した次第である。
 /そして昭和十六年、高槻中学創立と共に校長に迎えられ、第二の灘中とも呼ばれる吉川流の理想の学園の建設に当る。 しかし、この高槻中学の二十年間は、大戦から敗戦日本の復興期、青少年育英事業の最も困難な社会環境であったから、 吉川さんは真に一世一代の心血を注ぐ努力であったと思う。それは教育者として誠に偉大な尊い人生であられた、と思う。 /昭和十一年吉川さんの在阪生活が復活してから、私との深交もまた復活。/そんな機会を通じて、吉川さんの紹介で、私には得難い仲間が出来た。 それは牲川(にえがわ)角之助氏と藤堂献三氏、特に牲川氏は吉川さんと同郷、和歌山中学時代からの親友で、 吉川さんが教育者の道を東京高師へ、牲川さんは一高、東大から弁護士になり、政友会の大立者前田米造氏に師事、後には京阪電鉄、 京阪神急行の専務取締役として財界にも活躍された芯の強い実力者であられた。
 /戦中から戦後にかけての厳しい世の中で、私の尊敬し兄事した吉川、牲川両先輩と、仕事をはなれ心を許しあった不断のお付合は、 公私に亙って私には最大の慰めや激励となり、また援護力ともなった。 /昭和十九年大阪ガスが最も懸念していた、京阪神急行電鉄会社の系列会社である浪速ガス会杜の吸収合併が難なくできたのは、 大阪ガス側の担当者であった私に対する牲川さんのご斡施によるものであった。/吉川さんは、真面目で潔癖な方であった。 それだけに人に対する好悪のはげしいところがあった。反対に、信ずる友に対しては、友情は誠に厚く、それは羨しい限りであった。 それに仲々の皮肉屋で時に寸鉄人を刺すような皮肉をとばすことがある、それはまた吉川さんの愛嬌の一つにもなった。
 /高槻高校退任後は、あえて一度も校門をくぐることがなかったようだ。学校を思う念慮は切なるものであったが、学佼の近所に住んでいる自分が、 度々学校を訪ねて後任者に何等かの影響を与えてはと、それをおそれたものと察せられた。なんと教育者に相応しい潔癖ではないか。
 /吉川さんは頭のよい人、そして学殖豊かな非常な勉強家であった。運動の一流選手には珍しいことである。 大正十四年、旧制の高等学校教員検定試験制度ができると、早速英語科を受験、一回でパスされた程だ。 晩年は、専門の英語のみに止まらず、独仏語を勉強、それらの名著を読破することが、老後の趣味となっていたようだ。
 /吉川さんの処世の姿勢は、志操堅固、物欲や地位等にきわめて恬淡であられた。由来教育界に多い事大主義が大嫌い。 むしろ反骨精神が旺盛であったから、私立土佐中学や灘中学がその性にあっていたのであろう。 そして高槻中学にも、この独立自尊の校風を打ち立てようとされていたように思われる。 だがそれだけに、戦後教育界をも押し流していった世情の濁流は、吉川教育に非常な苦労を強いたことと思われる。 /一代の名選手でも、社会に出るとスポーツを放擲するものが多い。況んや、往年、スポーツには無関心な教育者の多かった中にあって、 この吉川さんの一生を通じて失うことのなかったスポーツヘの情熱は、吉川さんを偉大なる教育者たらしめた一つの要素であったと思う。」 (「吉川さんとの交友」…『黒馬 吉川昇先生』より)

 これを、別の角度から見よう(「槻友会報」号外「沿革史委員会特集」昭和62年1月20日)。
 「村上優広先生との対談学校発足当時の話…「吉川校長の友人が集まり、吉川校長に舞台を与えよう、ということから始まったんですね。 /集まった人たちは、新京阪支配人の牲川さん、吉川校長の後輩で灘の校長だった真田さん、大地主で府会議長だった礒村さん、芥川町長の中井さん、 大阪医専理事長の藤堂さん、という方々でした。」
 前にもふれたが、村上優広は母校初期からの国語教諭で、吉川校長没後1年目に刊行された『黒馬 吉川昇先生』の編集人を務めている。

(その2)につづく


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