「きよう」
大学に限らず、年に一回「紀要」という冊子(出版物)を作る機関は多いようだが、年度が替わっても完成しないことはよくあることらしい。
だから、5月に刊行しても、その奥付等に「3月31日発行」としておけば、後になって“毎年きちんと発行されている”ということが分かる…。
ということを知ったのは、もうかなり前、ある社団法人の年次報告をもらったときだった。
さて、「紀要」は若手の研究発表の場であるともいわれる。だれでも研究の成果を発表したいのはやまやまであろう。
また、発行する側としては、できるだけ広くまた多くの研究者の“素晴らしい”論文を掲載したいという思いもあるだろう。
しかし、ある程度のボリューム(ページ数)も必要だろうから、玉石混交ということにもなりかねないようだ。
たとえば最近、耳にしたところによれば、その“研究者(A)”はここ数年、ある作家(故人)のことに興味を持ち、多くの著作物を読み、
地方で開かれたその作家にまつわるシンポジウムや記念展の仕事を手伝っていたそうだ。
ところで、個性は様々である。口の堅い人、頼まれた範囲の仕事だけをする人、分からないことは責任者に質問する人、
あるヒントから新しい発見をする人、好奇心が先に立ち逸脱する人、勝手な推理で強引に結論を出す人、自分の好みが先行する人などなど。
想像するに、ジグソーパズルのピースをうまく当てはめるだけならば“競争”しても“自己主張”しても、
答えは一つだけの「ゲーム」であるから、さして問題は起こらないであろう。
しかし、特定の個人に関するもの、私信(郵便物)、自筆の原稿などは、公になっていないだけに、慎重に対処する必要がある。
好奇心が先に立って、勝手な解釈による結論を出すなど、独断は許されない。
さて、先のAはその後、東京に残されている故人のさまざまな資料を整理する仕事を長期間手伝うなど、
ある時期まで意思の疎通もうまく行っていたそうだが、その仕事に専念するにしたがって、本領を発揮したそうだ。
たとえば、私信の発信者Bをまったくちがう人物Cと断定したり、Dが書いた生の原稿をEのものにちがいないと主張したりと“独断”して憚らないという。
このような「器用」な人物を「起用」するのは、よほど慎重に見極めなければならないであろうが、
「器用」な人物は仕事を頼む側からすれば“重宝”であるため、つい誉めそやす。
誉められた人が、謙虚で慎ましやかであれば、世の中は平穏であろう。
一方、自尊心が高く、だれにも負けない、などと常に“自分が一番”と思いたい人は、図に乗るのであろうか。
ともあれ、間違った解釈や都合のよい結論づけ、を勝手にやってしまうとなれば、後世にどれほどの混乱と誤解を生ずるか分からない。
ともあれ“器用”な人物ほど“起用”には注意が必要であろう。
世に多いのは、にわか専門家、自称“通”である。事情を知らない人は、つい信用してしまうから恐ろしい。
憧れの「○○さんを知っている」と友人にいわれたら、「悔しいor羨ましい」と思うのは人情である。
しかし、「何度も会っていて、親しい」のか、「たった一度、同じ会場にいただけ」なのか、見極める必要がある。
(以上、2011年2月22日までの執筆)