「梶山季之」 「死の予感」その1

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ライフワーク

「ライフワークをやろう、などと言ってはいけない。それは後で人が評価するものだ」
 と今東光氏は、弔辞の中で故人を叱った。
 ライフワークとは、その人の生涯の仕事、一生をかけてする仕事、というような意味だろうが、梶山自身それを知らなかったわけではない。 ではなぜ、ライフワークをやろう、などといったのだろうか。
 その言葉を口にし出したのは、四十六年の暮れごろ。ある文芸出版社の編集者に「そろそろ大河小説(ロマン)を書きたい」ともらした。
 また、翌四十七年一月号の『噂』に、
「半年以上、月刊誌の小説を休ませてもらうことにした。……材料をしこたま買い込んだのに、包丁をとらずに死ぬのでは、板前として死んでも死に切れまい。 なにか、そんな心境もある」とも書いている。
 それが編集者仲間に知れわたり、どんなものですかと問い合わせがあったり、ぜひわが社から出版をという気の早い申し入れも幾つかあった。
 休筆宣言により、四十七年一月から完全に一年間、月刊誌への小説掲載を休んでいる。 翌四十八年には執筆を再開し、以前ほどではないが、また小説を書きはじめ、週刊誌のほうもほとんど変わらず連載を続けていた。

 そのころはまだ、大河小説の構想はまとまってはいなかった。
 しかし、作家を志して以来ずっと考えていたことは、生まれ育った韓国・ソウル、引き揚げてきた父の故郷広島・地御前村と原爆、 そして母親が移民の子として生まれたハワイ、それぞれを舞台(テーマ)にした小説を書くことだった。 長年にわたって、しこたま買い込んだ材料とは、それらに関する書籍・雑誌等の資料のことである。
 だが、それぞれの関連や重複が気になって、なかなか筆を起こすまでには至らなかった。
 ところが、ある日、それらが血と平和の問題であり、太平洋を中心にして互いにつながっている、テーマは三つではなくて一つだ、 環太平洋小説を書けばよいのだと、ようやく決心がついたのだった。
 それが、幾つかの書き出しだけで終わってしまった『積乱雲』である。
 この壮大なタイトルが決まるまでも時間がかかった。 一つの海、一つの空、民族の血、民族の壁、などと、空とか海、雄大さを表わす言葉はないかと、諸橋轍次著の『大漢和辞典』とにらめっこすることもたびたびであった。
 また、英語訳でも通じる題名をとも考えており、パール・バック女史の『大地』は見事なタイトルだと呟いていたことを思い出す。

 なぜ、ライフワークという言葉にこだわっていたのか?
 梶山の心境を推し量ると……、やれエロ作家だ、ポルノ作家だといわれながらも、ずっと読者と編集者に奉仕し続けてきた。 しかし、それは本来の私の姿ではない。そういう仕事も、そろそろ勘弁してもらってもいいのではないか。 来日中のハワイ大学教授ジェームズ・荒木氏に心境を語ったのもこのころだ。 作家を目指して上京した初志は、そんなところにはなかったのだ、というところであろう。

 評論家の大森実氏によると、
「ライフ・ワークとは、読んで字の如く、筆者にとって、命をかけた仕事を意味するのであろうか?
 梶山君は、ドキュメント作家として世に出たが、何かのハズミで、ポルノ作家に仕立てあげられてしまった。 いつも、彼は口癖のように言い訳をしていた。
『ぼくは出版社を儲けさせているのだ。だいぶ儲けてもらったので、このへんでライフ・ワークにとりかからせて欲しい』」(「血を吐いたライフ・ワーカー」『追悼号』)
 といっていたという。

 二度目の喀血・入院をする前に、休筆したりして、徐々に仕事の量を減らしてきた。方向転換したいという気持ちを、編集者にも匂わせてきた。 しかし、彼らは個人的には理解を示すものの、商売ともなれば話は別だ。よそ(の雑誌)に書いて、ウチに載せないなんて困ります……と。
 その気持ちも分かる梶山にアセリが出てきた。いつまでも、こうしてはいられない。早く取りかからなくては、と。 自分の本当にやりたい仕事、生涯をかけてやる仕事に取りかからせてくれという悲鳴が、「ライフワークをやろう」という宣言になったのではないだろうか。
『積乱雲』というタイトルも決まり、当初は書き下ろしで新潮社から半年に一巻ずつ、十年かけて出版ということだったが……。

 実際に取りかかったのは、四十九年の夏からだった。
 その八月、取材と美季さんの語学の勉強もかねて、一家三人でハワイヘ行った。帰国後の八月末には、広島・地御前村へ取材にも行った。 十一月に再び広島へ、その足で京都の大文字屋旅館にこもり執筆を開始する。
「商業主義に左右されない形で、筆をとりたい……。原稿料をもらえば、私のサービス精神から、ついつい筆があらぬ方向に走ることになりかねない。 いろいろ考えた末、原稿料を一銭も貰えない、この『噂』の誌上に、連載という形で発表させて貰うことにした」と決意を語る(『噂』四十八年十二月号)。
 そして、「読者に迷惑をかけるかも知れないが、十年間、八千枚のもの」(同右)を書く意気込みであった。

 また、「私が、ポルノ小説で荒稼ぎをして、せっせと買い込んだ資料をフンダンに使い、そして一大ロマンを書き残しておきたいのだ。 ……マーガレツト・ミッチェルのように、一作のみで世界の人々に愛される作家もあるのだから――。多作ばかりが、決して能ではない」(『噂』四十九年二月号)とも心情を吐露した。

 だが、この全額自己資金で発行していた『噂』も、次の三月号で休刊となる。
「全三十二冊であった。このときの、梶山が背負った赤字は、概算五千五百余万円とのことであった。休刊に際しては、その挨拶に、パーティまでひらいた。 私もその席に招ばれて、一度喋ったが、迂闊にも、この度の噂の廃刊は、と云ったら、傍にいた梶山は『廃刊ではない、休刊だ!』と怒鳴るようにして、説明した」と、 田辺茂一氏は前出「つらぬかれた侠気と反骨精神」で報告している。

悔やまれる

 少し話を昔にもどそう。
 二十八年、文学への夢を捨てきれず上京した梶山は、夫人と喫茶店を経営、朝鮮や広島に材をとった“純文学的”な作品を書いていた。 やがて「新思潮」同人に加わり、文学一筋に生きる決意を固めるが、一方で『文藝春秋』のリライター生活を始め、週刊誌ブームのきっかけとなったルポライターとして活躍し、もてはやされていた。
 このころの梶山について、同じ広島出身で、梶山とは「男と女という生臭い仲を通りこした肉親のような間柄」だったという佐々木久子さん(雑誌『酒』編集長)は、次のように証言する。
「昭和三十三、四年ごろ、トップ屋というレッテルを貼られていた梶山さんは、夜な夜な酔い潰れていた。新宿のバーで明け方まで飲み明かすことが初中終だった。 『俺はもうダメだ。トップやなんてイヤだ!! 文学をやるんだ!!』と、酔狂して泣く梶山さんへ、『何いってるの、トップやだって立派なものよ、日本一のトップやじゃないの。しっかりしろ梶山!!』と、背中をどやしつけるのが私であったのだ。
 男として、門下生の前や編集者の前で泣くわけにはゆかなかった梶山さん。お客のいない新宿のバーで、男泣きして水割りを呷る彼の鬱々たる様をみて私も一緒に泣いていた。
『純文学を書きたい、作家になりたい』『芥川賞が欲しい!!』という梶山さんは、やがて自分の志向とは違う企業小説という分野で、あれよ、あれよ、という間に大流行作家にのし上がっていく……」(集英社文庫『苦い旋律』解説、五十七年八月刊)。
 そして、単発の小説を発表したり、「赤いダイヤ」など新聞小説の注文もこなし、三十七年二月には書き下ろしの『黒の試走車』がベストセラーとなり、 一躍人気作家となるのだが、やはり純文学への夢は捨ててはいなかった。

 ところが、そんな梶山の夢をくだく“事件”が起こった。
 第四十九回(三十八年上期)の直木賞候補となったが、瀬戸内晴美(寂聴)氏とともに“落選”したのである。 候補作品は『李朝残影』(短編集・文藝春秋刊/講談社文庫版)である。その時の受賞作は『女のいくさ』で、老学者が初めて書いた小説が受賞したと話題をまいたことを、当時大学一年だった私は新聞で知った。
 その老学者はある選考委員の役人時代の上司で、もう年で病弱だし、この一作だけだろうとの“情実”がらみの受賞だったらしい。 そして、二人の落選理由は、すでに活躍しているのだから、いまさら……、というようなことだった。
 まだ、私自身、梶山とは何の縁もないころの話である。

 直木賞は、新人を対象とする芥川賞と違って、さらに活躍を期待される中堅作家に与えられるものであったはずだが……。 賞に限らず、運不運は人生につきものであるが、当事者にしてみれば、また“真相”を知ればなおさら、そう簡単に割り切れるものではないだろう。

 ところで、山口瞳氏は梶山の死の直後、『男性自身』にこう書いている。
「……夫人に泣き言を言ったそうだ。かれが『李朝残影』で直木賞を貰っていたら、別の方向へ行っていたという意味のことを……。 私は彼のような男にも“文学の毒”があったかと思い、撫然たらざるを得ない。私は、誰が何と言おうとも梶山季之は『李朝残影』とは無関係なところにおいて立派な作家だったと信じて疑わない。……」(「ある町のホテルで」)
 直木賞にこだわっていたのは意外だ、そんな男ではないはずだというわけである。しかし、梶山はこれを契機として、大衆に奉仕する作家の道を歩む。 それは、何者かへの復讐ですらあったのかもしれない。

 ところで、山口氏自身は三十七年下期の直木賞を受賞しており、その受賞作『江分利満氏の優雅な生活』を梶山に送って日く、 「これからどうなる 山口瞳」と扉にサインした。その本は、いまも伊豆・二十七日庵の本棚に飾ってある。 その言葉には、受賞によって世界が変わる、人生が変わるという意味があったのではないだろうか……。
 死の直前、第十五次新思潮時代の友人、作家の阪田寛夫氏が『土の器』で芥川賞(四十九年下期)を受賞したと聞いて、 梶山は夫人とともにわがことのように喜び涙を流しながら、祝電を打った……。

そして最後の旅立ち

“ライフワーク”が気になり、年末から翌五十年はじめにかけて伊豆の遊虻庵にこもる。 また、そこから少し奥の川端康成が『伊豆の踊り子』を執筆したことで知られる福田屋にも宿をとり、書き出しに腐心するなど、まだスタート直前だった。
 一方、正月早々母親ノブヨさんを、生まれ故郷のハワイヘ送り出し、三月から四月にかけて、自らもハワイヘ取材旅行に出かけた。
 私は蔵知君と車で羽田まで見送りに行ったが、エスカレーターで上る後ろ姿が淋しげだったのを、今でもよく覚えている。

 ハワイでは、中学の先輩、音楽家のハリー・浦田氏と毎日のように顔を合わせていた。
 朝食にパパイヤを好んで食べた以外は、物をほとんど口にしなかったようで、夕食時に「俺は、納豆で、御飯がたべたい」「ようし食うぞ」と、 「自分に云い聞かせるように、大きな声を出し、アッと云う間に三杯を食べてしまった。と云うより、流し込んでしまった。その間五分!
 後で食道静脈瘤と知り、ふと思った。流しこむようにしないと食べられないのを私に悟られぬよう、から元気を出して、無理していたのではないかと」。
 そして、母親と一緒にサトウキビ畑をドライブした折にホレホレ節を口ずさんだり、美しく咲き乱れるブーゲンビリアの花畑で並んで写真を撮る、 そのときの嬉しそうな、照れくさそうな顔から、一か月後の死など予想もできないことだったが、これが最後の親孝行の旅となった。
 ホレホレ節とは明治時代、日本移民が耕地でサトウキビの収穫をするときなどに歌った歌の総称。 苦しい労働や望郷の念にかられた移民たちの気持ちを表わす替え歌は数限りなくあるようだ。浦田氏はその研究の第一人者である。

 五十年四月三十日、サイゴンが陥落してベトナム戦争が終結する一方、国内はゴールデンウイークに水を差すような大規模なストに見舞われる……。
 メーデーの日、季刊『噂』の構想について話したことはすでに述べたとおり。
 五月三日(休日)、雨の中久しぶりに家族で外食をする。家でテレビを見ていたい美季さんはいつもは外出を渋っていたのに、この日に限って行こうといい出した。
 四日、NHK「市民大学講座」の録画撮り。これが最後の仕事となったが、久しぶりに同職員の義弟、奈宮満さんに出会う。
 朝、いつものように、仕事カバンを持って出かける時、夫人の「伊豆? それとも」との問いに、「どこをさ迷うか、さすらいの旅に」と、おどけていい、 六日か七日には帰るということだった。
 取材を兼ねて、ホンコンにわたったのは子供の日。急に体調を崩して、現地の病院に入院したのが七日である。
 この間の行動は、あとで分かったことだが、マカオヘ行き、カジノを牛耳っている、英・仏・オランダ・中国等の血が混っている顔見知りのボスに会って取材することだった。 しかし、神出鬼没のボスにはなかなか会えず、ルーレットなどバクチをやりながら、過ごしていたようだ。

 梶山とバクチについて、黒岩重吾氏は次のように観察している。
「(梶山君の)エピソードの殆どは、梶山君のサービス精神から来ている。それが結局命取りになったのだが、梶山君が自分のために本気になったのは、ルーレットである。
 たとえば“ドボン”などの場合は、柴錬さんや私と一緒にやると気を遣うのか、おどけたような面が出てしまって、梶山君は本当に愉しんでいなかったような気がする。
 ところがルーレットの場合は、気兼ねする相手がいない。だから、執念じみた気迫でぶつかって行ったようだ。
 それこそ三日二晩、殆ど徹夜でただ一人、ルーレットに向かっている時の梶山君には、壮絶さと孤独感がにじみ出ていて、形相さえ違っていた時がある。
 だから梶山君が本当に愉しんだ博奕はルーレットだけだったような気がする。
 いや愉しむというより、サービス精神を捨てられたもの、といった方が良いかもしれない」(「残酷な運命」『別冊問題小説』五十年夏号)
 一方、ドボンについては、山下元利氏(当時、衆議院議員)も「よくドボンをやったけど、あんな負けっぷりのよい人はいなかった。 それだけ気を遣ってくれたんだ」と、十三回忌の席で語っている(六十二年五月、京王プラザホテル)。

 そろそろ原稿の締切だし、帰国するはずなのにと心配する自宅に、“倒れた”と第一報が入ったのは八日の正午、現地の民間人からだった。
 思いも寄らぬ事態である。九日正午には外務省からも連絡が入った。主治医とも相談しながら夫人と中学二年の美季さんが、羽田を飛び立ったのは午後四時。 以来、私たち助手が留守宅を預かっていた。
 その前後、首都圏は大規模なストで交通機関は止まり、日本から国際電話もなかなか通じない。そしてエリザベス女王の来日中でもあった。
 九日、病後間もない夫人と美季さんが現地へ飛ぶ。危篤との報もあったが、二人が着いた時、梶山の意識ははっきりしていて、「歯はどうだ」と美季さんに聞いた。 親不知など歯の集中治療をしていた彼女と、ゴールデンウィークをともに過ごすことができず、気になっていたのだろう。しかし、病状は悪化するばかり……。
 十一日は、五月晴れの日曜日だった。
 市ヶ谷の留守宅(季節社ビル)で前夜から待機していた私は、午前七時前、クイーン・メアリ・ホスピタルで付き添っていた夫人からの電話を受けた。
「一時間半前に……、死んだの……」
 心なしか、か細い声。そのほうが心配で、「大丈夫ですか」というのが、精一杯だった。 夫人自身その年一月、心臓発作で入院し、飛行機に乗るのもどうかといわれていたのだ。
 電話を受けた直後、私は冷静にならなければと思った。知らせる人は大勢いるが、突然のことでもあり、戸惑った。 現地の状況は? 遺体をどうするのか? などと考えたが、次の連絡を待たなければならない。
 時計は止まった。一瞬の静寂。しかし、それも永遠に続くものではない。何をすべきか……。とっさに、写真だと思った。 慌ただしく出かけていった夫人たちのために、仕事机をはじめ梶山の生前の雰囲気、においを残しておこうと思い、 原稿用紙が置かれたままの三階の書斎から二階の広い応接室、居間、ツツジが咲くベランダの小庭などを手当たり次第にカメラに収めた。 《http://www002.upp.so-net.ne.jp/kenha/kaji_s1.html
 寝不足の眼に朝日がまぶしい。静かだった。主のいなくなった広い家、何も知らず歩きまわるペルシャ猫のアロが羨ましい。 外では柴犬のチビもおとなしくしている。
 やはり、静寂は長く続かなかった。朝七時のテレビニュースで知ったという編集者や知人が続々と駆けつける。 半信半疑の表情、あまりにも突然のことで、みな言葉がない。

 早すぎた死である。死因は食道静脈瘤破裂および肝硬変。輸血を嫌って、はじめは暴れたり、管を抜こうとしたという。 夫人たちは間に合ったが、手遅れだった。
 この前後の状況は『別冊新評』追悼特集号の「ドキュメント梶山季之の死」で報告したとおりである。
 翌十二日朝、留守宅を親戚や編集者など大勢の方にお任せして、私も現地へ飛ぶ。 夫人にはその死を報じた新聞を、美季さんにはいつも読んでいたマンガ雑誌などを買っていった。
 十三日、現地で仮通夜。
 十四日、遺体とともに帰国。
 十五日、仏滅。夫人の記者会見。
 十六日、密葬、自宅で通夜。賑やかにドボンをする人もいる。

「私は、松永安左ヱ門さんのひそみに倣って、お通夜は盛大にして貰ってもよいが、葬式は出すなとワイフにいってある。 だから、お通夜に駆けつけてくれる先輩、知人の顔が、ひじょうによく判るのである。 真っ先にやってくるのは、文芸春秋の樋口進、講談社の榎本昌治の両氏であろう。 新潮社の麻生吉郎氏は、いま病気中であるが、全快していたら三番目に駆けつける筈である……」(『あたりちらす』)
 この項には、三十名近くの方の名があり、上記の三人は“文壇冠婚葬祭係”といわれた方々。 現実は、告別式はやらないでといった、故人の希望通りには行かなかつた。

 十七日、芝・増上寺会館での告別式。戒名は「文麗院梶葉浄心大居士」。 今東光氏につけていただいものだが、その意は、「文は流麗にして渋滞なかりし、時は五月、梶の葉の美しき季節に、清き心の持ち主の逝くを限りなく惜しむものなり」。
 会葬者は千余名。その長い葬列の端を指差しながら、「来た、来た」とある女性の方を指さしながら榎本氏はいった。 大きな告別式に必ずといっていいほど顔を出す年配の婦人で、喪服を着て葬儀関係者を装い、手伝うふりをしながら香典を横取りする“有名人”だそうで、「これで梶さんも一流だ」と同氏はつぶやく。
 あとで、自宅での通夜の写真を現像して見ると、喪服を着た彼女が棺を担いでいる人の中にもちゃんと写っていた。いずれも、被害が何もなくてよかったが。

 五月十五日、市ヶ谷の自宅で、柴田錬三郎氏(葬儀委員長)に付き添われて記者会見をした美那江夫人は、美季さんあての遺書(四十七年一月七日付)があったことを涙ながらに語った。 日付は、昭和四十七年一月七日である(大下英治「最後の無頼派 梶山季之」『小説宝石』六十二年六月号より)。

  美季に    父より
 人間は、いづれ死ぬのです。父の事故死を悲しんではなりません。それが、父の運命だったのですから。
 ママを大切にして、十八歳になるまでは、ママの云うことを素直に聞くのですよ。 それからあとは、自分で考え、自分で判断して、生涯、後悔しないと思ったら、そのように行動しなさい。
 パパは今、ポルノ作家と云われたまま、死にましたが、志はもっと高いところにあったのです。 たとえば『李朝残影』のような小説を、うんと書き残したかったのです。
 しかし、運命には逆らえませんでした。
 世間の人々は、ポルノ、ポルノと軽蔑しますが、そう云う人たちが、パパの小説を読んで呉れたからこそ、 パパは流行作家になったのだと云うことを、忘れないでいて下さい。
 パパが、ポルノを書いた頃には、日本では言論統制が厳しくて、性について書く勇気のある小説家はいませんでした。 だから、パパは抵抗を覚えて書いたのです。そして、その結果、性描写に対する言論の自由を、日本にもたらしたのです。 このことも、よく銘記しておきなさい。
 誰かが、茨の道を切り拓かねばならない。勇気のない人たちは、そのパパを楯として、あとから歩いて来たのですからね。 世の中とは、そんなものです。
 美季が大きくなる頃には、もう誰もポルノなんて騒がないでしょう。
 我が儘を云わずに、誇りを持って生きて下さい。父は、それだけを祈っています。

 死の三年前に書かれたものである、小学生のとき、学校でポルノ作家の娘、「ポルノちゃん」などといわれて、辛いこともあっただろう。 しかし、勇気を持ってポルノを書いた。悔いはない。そして、本当の志はもっと高いところにあったのだ。 他人は理解しなくても、わが娘には真意を伝えたい……と。

 あとで美季さんは、「パパにはあの生き方より、なかったのかもしれないね」と夫人にもらしたという。

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