「略年譜」「あとがき」

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「略年譜」

 最後に季節杜編の年譜(『積乱雲とともに』昭和五十六年五月刊所収)を元に、略歴や作家活動を見てみよう。

昭和五年(一九三〇)
 一月二日京城(現・韓国ソウル)に生まれ、当時の南大門小学校、京城中学校に学ぶ。 小学校の後輩に作家の五木寛之氏、中学の同窓に成田豊氏(電通社長)らがいた。

昭和二十年(十五歳)
 中学四年のとき終戦を迎える。八月十五日の記憶は、短編「性欲のある風景」に詳しく記す。 年末、父勇一氏(元朝鮮総督府の役人・土木技師)の故郷、広島県佐伯郡地御前村に引き揚げ、広島二中に転校。 食糧難の時代で、学校をサボり、畑仕事に精を出していた(「食欲のある風景」参照)。 なお、終戦といわず敗戦といい、八月十五日を忘れないために、かなりあとまで、その日に芋粥を食べていた。

昭和二十二年
 広島高等師範学校(現・広島大学)に入学。在学中に仲間と同人誌『天邪鬼』を作り文学活動を始め、その同人の紹介で小林美那江さんを知る。

昭和二十七年
 四月、“新聞記者をしながら小説を書く”といいう生活設計のもと、就職試験を受けたが、身体検査で両肺に空洞を発見され、 卒業と同時に自宅療養を余儀なくされた。落胆し、大いに荒れるが、この間、短編集『買っちくんねえ』(同窓の坂田稔氏と共著)を自費出版。

昭和二十八年(二十三歳)
 四月、文学への夢を捨て切れず、どうせ短い命なら、珠玉の一編を書き残して死のうとの決意で上京。 同六月あとを追ってきた美那江さんと結婚、“戦友”との二人三脚生活が始まる。 九月から翌年三月まで、横浜鶴見工高の国語教師を勤める。 その後、父の援助で、喫茶店「阿佐ヶ谷茶廊」を開き、同人雑誌懇話会を主宰し、文学青年の溜り場となる。 また『希望(エスポワール)』同人の求めにより、店に発行所を置く。一時期、新早稲田文学にも関係する。

昭和三十年
 評論家の村上兵衛氏を知り、その紹介で第十五次『新思潮』の同人となる。 秋、夫人の病気で店を一時閉鎖するが、このころ『新思潮』同人会をひんぱんに開き、小説「幻聴のある風景」「合はぬ貝」「性欲のある風景」などを発表する。

昭和三十一年
 この冬、酒場「ダベル」を開く。文士、画家の卵、学生等が出入りし盛況だったが、赤字続きでもあった(三十三年二月閉店)。 十二月「合はぬ貝」が『新潮』の同人雑誌推薦作品に選ばれ、掲載される。

昭和三十二年
『新思潮』の営業部門を担当する一方で、文学一筋に生きる決意を固める。

昭和三十三年
 一月、文藝春秋・田川博一編集長に売り込みの手紙を出し、ただちに返事をもらい、リライター生活に入る。 六月より『週刊明星』(当時は硬派の雑誌だった)のトップ記事を受け持ち、「またコワくなる警察官 デートも邪魔する警職法!」(十一月九日号)などのほか“美智子妃殿下”のスクープをし、 梶謙介の名で「小説皇太子の恋」(十一月十六日号)を執筆、以後スクープ記者の名を馳せた。 また、大宅壮一氏主宰のノンフィクション・クラブに加入したのもこのころ。
 この年から三十五年にかけて、小学館の学年誌およびその別冊付録に、梶謙介のペンネームで多くの少年冒険小説を書く。

昭和三十四年
 四月に創刊された『週刊文春』のトップ記事のアンカーマンを引き受ける。 トップ屋グループ“梶山部隊”の部隊長として活躍する一方、梶季彦の名で「ミッチィ騒動記」(『オール讀物』二月号)や無署名で『文藝春秋』等にルポルタージュを発表する。

昭和三十五年ごろ
 このころの週間スケジュール
 金−午後、企画会議  土−取材  日−自宅で取材者と打合せ
 月、火−取材  水−取材者が集まり、夜中から取材原稿を書く
 木−朝にかけて本原稿の仕上げ、午後ラジオドラマなど雑文をまとめて執筆

昭和三十六年
 三月トップ屋をやめ、本格的な作家活動に入る。 ラジオドラマ『愛の渦潮』の台本を書き、六月から三か月結核療養のため北里研究所付属病院へ。 入院中に「赤いダイヤ」を『スポーツニッポン』紙上に連載する一方、「黒の試走車」の書き下ろしに専念(書き直すこと、三回)。 十一月、長女美季さんが生まれる。

昭和三十七年(三十二歳)
 二月『黒の試走車』発刊、たちまちベストセラーに。と同時に“産業スパイ”が流行語となりその関連の講演依頼も多くなる。 この年より、仕事場として死ぬまで都市センターホテルの一室を借り切った。

昭和三十八年
 九月、短編集「李朝残影」が第四十九回直木賞候補となったが、落選。この事件は“戯作者”宣言に通じる、大きな転機をもたらした。 秋、大宅壮一氏と韓国訪問。
 このころの仕事ぶりについて、『オール讀物』(三十八年十一月号)の「梶山季之との一時間」(インタビュアー矢野八朗=村島健一氏)で、 “十四才でワイ本をモノしてより二十年 今や月産八百枚の人気作家を解剖すれば”と紹介し、『週刊文春』(三十九年四月二十日号)では「この人と一週間」で“原稿は一日四〇枚、 酒は一晩二〇杯、足で調ベホテルで書きまくる梶山季之氏”と特集。

昭和三十九年
 五月、文春講演・山陽地方へ。以後年に二、三回は同杜の講演で各地を回っている(いつからか、演題は「近ごろ思うこと」に)。 同月婦人公論の講演で東海地方に。十一月初めて文士劇(文春祭り)に出演。 毎年、担当の文嚢春秋・樋口進氏の“口車”に乗せられて、いつも余った役を当てられてとボヤいていたが……。 近くの帝国ホテルに宿を取り原稿執筆、そして楽屋入り。酒の力を借りての迷演技? は死の前年まで続き、 “女優”戸川昌子氏に「千秋楽まで台詞の入らないスター、梶山季之氏の姿を今年から舞台で見られないのがなんともさびしい」と嘆かせた(五十年十一月『文嚢春秋祭り』パンフレット)。

昭和四十年
 三月『李朝残影』の合作映画化のため、夫人と韓国訪問(五十一年、一周忌にテレビ東京で放映、日本での初公開となった)。 五月青山に引っ越し。八月から約二か月、アメリカ・中南米に取材旅行(出版社の依頼でも、海外はじめ取材旅費などほとんど自前で通す)。 十月より『宝石』に連載の「日本の内幕」シリーズを執筆。

昭和四十一年
 このころより“ (鉄道)弘済会作家”(現・キオスク)と呼ばれるようになる。五月『週刊新潮』に連載中の「女の警察」が摘発される。 一方で硬派のルポルタージュを執筆し、政財界の悪事を追及しているためとの噂もあり、以後、同じケースが何回か続く。 六月伊豆の山荘が完成。しかし、今と違ってすぐには電話が引けなかった。九月大宅考察団の一員として、文化大革命後の中国を視察。 『朝日新聞』は“あれはアヒル革命だ――中国視察の大宅氏ら憤然と帰国――”と報道(九月二十六日付)。

……私が助手となったのは、このあと…

昭和四十二年(三十七歳)
 一月、モンテカルロ・ラリー取材のためヨーロツパヘ。同月「大宅壮一マスコミ塾」開校、講師を務める。 六月、大宅氏を団長とする東南アジア考察旅行に参加。九月「生贄」のモデル問題で和解成立。この年の文春講演は五回。

昭和四十三年
 一月、台湾、二月バンコク、六月自費で韓国の作家二名を招待、「韓国作家を囲む集い」(東京プリンスホテル)を開く。 九月には太平洋大学(大森実学長)の講師でアメリカヘ。台風で帰国の船が遅れ、「小説・太平洋大学――密閉集団――」の連載第一回分の原稿をヘリコプターで吊り上げる。 前代未聞の珍事であった。十月韓国へ。
 仕事の量がだんだん増える。この年から翌年にかけて週刊誌の連載は「と金紳士」(『週刊文春』)など十一本がさみだれ式に進行。 並行して『小説新潮』等の中間小説誌に、毎月のように五、六十枚の小説を書いていた、まさに超人的であり、よくストーリーや人物を間違えないもの関心させられたが、 こんな殺人的スケジュールが、あと数年続く。

昭和四十四年
『夕刊フジ』創刊号(二月二十六日付)のインタビューのタイトルは「現代の怪人 梶山季之のスタミナ 飲んで遊んで書いて七五〇〇万円」。 三月再び太平洋大学で東南アジアヘ。四月「ああ、蒸発」が途中で蒸発(連載中止)。 十一月に季節杜を設立(社長は美那江夫人、タレントは梶山一人)。暮れに家族でハワイヘ。

昭和四十五年
 二月、言論圧迫問題で創価学会系雑誌に、他の作家と連名で執筆拒否宣言。 三月韓国、五月香港・マカオ行き。五月一日発表の文壇所得番付で一位となる。 『週刊読書人』は早速、“マジメ人間梶山季之―文壇所得番付トップの「実像と虚像」”と特集を組む(六月一日付)。 各地から借金・寄付の申込みが来た。納税額も大きいのだが、今と違って当時はそれが発表されないのが不満だった。
 この年『別冊小説現代』に三回にわたって連載の「見切り千両」が、小説現代読者賞を受ける。“読者賞”をことのほか喜ぶ。 九月市ヶ谷仲之町へ引っ越す。十月から翌月にかけてソ連・東欧へ旅行。十二月第一回年忘れ文化人歌謡大行進(徳間書店主催)に出場。 持ち歌は「カスバの女」、文士劇に劣らず、こちらも迷調子だった!

昭和四十六年(四十一歳)
 三月、財団法人大宅文庫(のち、大宅壮一文庫)の設立に協力。七月、帝国ホテルで「梶サンを囲む編集者の会」が開かれる。 律義にも、早速こんな礼状を出した。
「先日はご多忙中、雨の中にも拘らず本当に有難う存じました。/私は、実に倖せな男だと思います。 編集者あっての文士なのに、いつも困らせてばかりいて、申し訳ありません。つくづく反省し、自戒しております。 /二百七名の編集者の方々にこんなにも愛されて(ちよっと自惚れですが)いる私を、帝国ホテルの孔雀の間で見出したとき、 私は、みなさんに土下座したい気持でございました。/ありがとう。ありがとう。ほんとうに、ありがとうございました。 /(家内もよろしくと申しております) 『噂』発刊の日に 梶山季之」
 同月、梶山季之責任編集と銘打ち月刊『噂』を創刊。その数か月前マスコミに取り上げられ、「“マジメ月刊誌”出す性豪梶山季之氏」(『週刊サンケイ』三月二十二日号)、 「梶山季之センセイ“まじめ雑誌”創刊の真意」(『サンデー毎日』三月二十八日号)、さらに“<人>まじめな噂”(『朝日新聞』三月十二日付)と、 “意外だ”という趣旨の見出しが並ぶ。
 十一月、渋谷税務署で、一日税務署長を務める。同月季龍社(六月設立、社長に。噂の編集同人・三土会のメンバーが発起人名義に)より 「追悼文集・大宅壮一と私」(ノンフイクシヨン・クラブ編)を刊行、“毒舌家死して師弟愛残す”と『週刊サンケイ』に報じられる(十月四日号)。 そして噂発行所を設立。十二月、ライフワークに取りかかろうと休筆宣言するが、現実には月刊誌への執筆を減らすことしか許されなかった。

昭和四十七年
 一月・アメリカ取材旅行、三月、ポーランド作家を日本に招待。四月、突然喀血し、北里研究所付属病院へ入院。 五月に退院、伊豆の山荘で静養中に書斎を増築。九月、集英社より長編中心の自選作品集・全十六巻が、 十月、桃源社より傑作集成・全三十巻が相次いで刊行される。十一月、日本ペンクラブの国際会議開催方法に拒絶反応、同クラブを退会。
 同月・噂発行所より有吉佐和子・三浦朱門氏らと同人だった第十五次新思潮自選小説集『愛と死と青春と』を刊行。 暮れに、伊豆で百五十坪の畑を年決めで借り、引き揚げ以来の畑仕事に精を出す。ゴルフ場より農地を作れが持論。

昭和四十八年
 劇画時代を反映し原作が次々に漫画化され、単行本化も盛んとなる。三月『噂』支部が各地にでき、山口瞳氏と講演旅行に。 四月に第一回噂賞のパーティ(銀座第一ホテル)を開催。六月に第一回文壇野良犬会(今東光会長)を催す。 父勇一氏が十二月にガンで死去(七十三歳)。若くして弟さんを同じ病いで失っており、自らもガンになるのでは……と不安に。

昭和四十九年
 一月、自民党より、七月の参院選に出馬要請があったが辞退。二月、石油危機などを理由に『噂』を三月号で休刊とする(通巻三十二号)。 同月二回目の噂賞パーティ。四月、今会長の病気全快を祝って、二度目の文壇野良犬会。 六月から約二か月、テレビのクイズ番組にレギュラー出演、珍しいことだった。夏、家族でハワイヘ。 十月、再び家族でスイス・パリ・ニース・ペルピニアンヘ。 十一月、やっとライフワークのタイトルを「積乱雲」と決め、京都の旅館「大文字屋」で書き出し三十枚を仕上げる。

昭和五十年(四十五歳)
 一月、夫人が心筋梗塞で倒れ、北里研究所付属病院へ。幸い症状は軽かったが、一か月以上の入院に、相当のショックを受ける。 三月末、ハワイヘ取材旅行。そして………

 ここに、死んで百日目、五十年八月十八日現在のある状況を挙げておく。
 まず、その死を報じた新聞(五月十二日付)は、
「“猛烈作家”梶山季之氏急死/取材中の香港で倒れる」(毎日)など、十日に亡くなったフランス文学者渡辺一夫氏と並んだ訃報をはじめ、 朝日、読売、東京、日経、中国、サンケイ、中部読売、大阪、夕刊フジ、報知、スポニチ、デイリースポーツ、日刊スポーツ、新大阪等があり、 コラムではサンケイ新聞「サンケイ抄」(十三日付)と朝日新聞「天声人語」がある(十六日付)。特集を組んだのは東京新聞(十三日付)である。
 同じく週刊誌では、週刊新潮(五月二十二日号)、週刊明星(同二十五日号)、女性自身(同二十九日号)、週刊文春(同二十八日号))、週刊現代(同)、 週刊サンケイ(同)、週刊平凡(同)、週刊朝日(同三十日号)、週刊小説(同三十日および六月六日号)、週刊ポスト(五月三十日号)、 サンデー毎日(六月一日号)、ヤングレディ(同二日号)、週刊プレイボーイ(同三日号)、週刊女性(同三日号))、女性セブン(同四日号)、 週刊実話(同五日号)、平凡パンチ(同二十六日号)、週刊読書人(同)などが先輩作家の追悼文や交遊のあった著名人のコメント特集を載せ、 あるいはグラビア特集を組んだ。

「その後」については、週刊サンケイ、週刊実話、女性自身、女性セブン等が取り上げている 。夫人が取り上げられたのは、婦人倶楽部(七月号)、婦人公論(八月号)、ウーマン(同)などである。
 月刊誌の特集では、追悼特集号となった別冊新評(全ぺージ)、小説宝石(八月号)、別冊問題小説などで、署名記事を掲載したのは中央公論(柴田錬三郎)、 文藝春秋(村島健一)、現代(高橋呉郎)などである。

 テレビはフジ「三時のあなた」(六月三日)で、NHK教育「大衆文学を語る」は最後のテレビ出演でもあった(五月十二、十三日放映)。
 なお、国外ではハワイ・ウィークリー、週刊香港、台北新聞で報じられている。
 ところで、当時梶山家には三十種の週刊誌と、およそ六十種の月刊誌(PR誌なども含む)が毎回送られてきていた。 そのうちのいくつかは、購読料を払っていた。
 梶山の死と、ほとんど同時に送本中止と思われる週刊誌は十数誌あり、引き続き送られていたのは九誌(夫人に名義変更も含む)。 月刊誌は総合誌・小説誌を中心に十二誌が送り続けられ、その他PR誌関係も十数誌ある。
 かなりお付き合いのあった小説誌の打ち切りもあり、対応の違いは何によるのか不分明だが、中には特集を組んでも送ってこない月刊誌があった。

 ところで、先に見たように、内外のマスコミで数多く、かなり派手に取り上げられた梶山の死であったが、 その後も、原稿の依頼やコメントを求められたり、講演の申し込みがあった。何とも、断るのに戸惑った。
「もう、いないんです」というよりないのだが……。
 ともかく、これだけ報道されても、まだ知らなかったという人たちがいたということである。それも一人や二人ではなかった。
 このような現実を見るとき、関心がなければ“情報”とならないばかりか、権威による偏った報道や単純な誤報も受け取る人にとっては真実となる……。 ともすると、的確な判断力に欠けた現代こそますます危険な状況といえるかもしれない。


あとがき

 四十五年という生涯は、余りにも短かったと人はいうけれど、人の何倍も働き、生きてきたと思う。 ライフワークを完成させることもできなくて、とい声も聞いた。しかし、梶山は見るからに疲れ果てていた。
 また、異郷で生まれ、異郷で死ぬというのも、いかにも梶山らしい。 仕事も、煩わしい人間関係も、酒からも解放されて……、それでよかったのではないかとも思う。

 評価が定まらなかったのは、作品のジャンルや活動が多岐にわたり、人間梶山の優しさ、人を思いやることなどが、 “作家”としての枠を超えていたからではないだろうか。
 文筆による孤独な戦い、それらを通して梶山の考え方、生き方の根底にあったものは何だったのか、十分な検証ができたかどうか……。 ともあれ、作家梶山季之の見直しのきっかけとなれは幸いである。

 最後になりましたが、本書は多くの方の回想や証言によるところが大きく、 また資料提供やアドバイスをいただいた季節社はじめ皆様方に心からお礼申し上げます。

 一九九七年六月十五日                            橋本健午

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