「梶山季之」 「仕事を離れて」

インデックスへ    前のページへ    次のページへ


仕事を離れて

女はメン類!

 私が入ったころの梶山家には、フリーのライター荒川教之さんら先輩やその夫人たちが出入りするなど、意外とのんびりとした、家庭的な雰囲気が漂っていた。 しかし、梶山自身、流行作家として絶頂をきわめんとしており、私以後に出入りするのは若い人が多くなった。 家の手伝いというより、事務所としての体裁が必要となったからだ。
 それまでの書斎兼書庫が手狭になり、同じマンションのより広い三階の部屋を借りて移転した。 ここには書斎がなく、代わりにいくつか事務机が入った。 梶山が都市センターホテルの仕事場へ行き、お客もいない時など、若い人ばかりで賑やかになる日がある。
 美季さんの小さなころで、誕生会などにかこつけて、ピアノの若い女の先生やお手伝いさんはじめ、事務所の人たちが集まり、 彼女の祖父母や大阪のおばあちゃん(夫人の母親シズエさん)を含め楽しい一時を過ごすこともあった。
 また編集者、高校の教師やデパートの紳士服担当、家電メーカーの社員など、私の学生時代の友人も仕事がてら出入りしていた。 彼らには、梶山の週刊誌連載小説について毎号ハガキで意見を寄せてもらう“モニター”を依頼したこともある。

 事務所員として入ってきた若者はかなりいたが、有名人の側におれば自分も有名になると錯覚しているものが多く、 うるさい先輩(私のこと)に文句ばかりいわれて面白くないと、短期間で辞めていく。 なかには、尊敬するのは○○先生ですとヌケヌケというのもいたり、男尊女卑を是とする“薩摩隼人”は三日でおさらば、 地方出のわりには土地カンの鋭い青年は重宝したが、ホームシックですぐに帰省したり、韓国人の高校生を預かったりと、 女性を含め目まぐるしく入れ替わった。
 助手の仕事はどうあるべきか、とくにお手本もなく、私もはじめは手探りで、すべては創意工夫であった。 梶山を生かし、自分も生かす……のは並大抵のことではない、と悟るだけでも大収穫なのだが、現実は彼らの想像どおりには行かなかった。
 しかし、告別式に、そのうちの何人かが顔を出してくれたのは、何よりの供養だとうれしかった。 縁のあったものの面倒をとことん見る梶山の、その気持ちに応えてくれたかと思うと、私も少しは肩の荷が降りたというものである。

 自宅と下の階の事務所には内線電話があり、たいていの用事はこれですむ。 あるとき、男女数人ずつ上下階に分かれて、資料の整理をしていた。昼になったので、出前を取ることになったと、女性軍から連絡がきた。
「女はメン類よ!」

 そのころの野坂昭如氏だったかの名言?「オンナは女類」が頭にあった私は錯覚し、すぐにはその意味が分からなかった (ちなみに、かつて大宅壮一氏も男性・女性ではなく、男類・女類と分類されていたそうだ)。
 また、外部に電話をするとき、ある若い女性は緊張のあまり、“梶山事務所のものですが”というべきところを、つい「梶山のものですが、……」などと、 ドキッとするような表現をしてしまった。
 また別の若い女性は、私にもと気を利かして湯飲み茶碗を大小二つ買ってきたのはよいが、それが夫婦茶碗だったり、 あらぬ誤解を受けてはと思うのだが、どう注意してよいか戸惑ったこともある。

どちらさまですか

 当初、お手伝いさんは中年のおばさんが多かった。青山のマンションは狭かったが、人の出入りが激しく、夫人は家事までなかなか手が回らなかったようだ。
 ある主婦は目立たず黙々と働いていたが、毎日は来れなかったし、働く必要がなくなったのかやがて辞めてしまつた。 この人などはよくできた方で、真面目に働いていたが、一般に家政婦会から派遣される中年の女性には、したたか者が多かった。
 とくに、一日とか二日だけという短期の場合は、要注意である。初めての家でも手慣れた感じで、要領よくやるが、それだけに抜け目がない。

 付き合う時間の長い夫人は、相性の点や信用が置けるかどうか、とりわけ小さい美季さんの面倒をきちんと見てくれるかどうか、いつも心配のタネだった。
 あるおばさんに、私がちょっと注意したころ、すぐに夫人のところへ行って、「あの人は親類の方ですか」と聞いたという。 親類のいうことなら、仕方なく聞いてやろうというのであろうか。
 別の、新人のおばさんは梶山の顔を知らなかった。旅行から帰ってきたとき玄関で、「どちらさまですか」と聞かれて、返す言葉がなかったそうだ。

 掃除機を使っていて、ガラスをはめ込んだ置物を壊しても、そんなところに置いてあるのが悪いと開き直るのがいたり、 どこそこの家では、いっもちゃんとご馳走を食べさせてくれたなどと、当てつけがましくいうのもいた。
 時には母子(おやこ)連合軍もいたし、姉妹というのもあった。 連合軍の娘は、台所の通路などで自慢の長い髪が邪魔になるからと、バッサリ切ってやる気を見せたが、行き過ぎも多いので、仕方なく辞めてもらったようだ。
 知人の紹介や夫人の親戚の女性なども時々手伝いにきていたが、なかなかいい人が見つからず、女性週刊誌などで(人事募集はやらないのだが)、 それとなく書いてもらったりしたこともあった。

 さすがに、気が付いてみると、タンスの中の着物がなくなっていた、などということはなかったようだが、いろんな女性が出入りした。
 梶山家は上下、わけへだてなく、威張ったり、人をアゴで使ったりすることがないから、時にはどちらが主人か分からなくなることもあった。 私たちを含めて、自分の家に知らない人がいるというのでは、さぞかし梶山も気が休まらなかったのではないだろうか。
 それでも、私たちに気を遣ってくれたらしく、夫人に「チャンスがあれば、ちゃんとした料理店に連れていってやれ」などと、いっていたそうだ。

 市ヶ谷に移ってからは、若い女性を入れるようになった。住込み可となると、地方からの応募者が多くなる。 正月を利用して一家で北海道旅行をしたとき、高卒の十八歳を面接した。やがて上京してきたが、この夢多き乙女はロンドンに行きたいといい、 数か月後に本当にイギリスに渡ってしまった。
 若い女性の多くは、有名人に接したい、その生活を垣間見たいという単純な動機が強い。 まだ遊びたい年ごろで、どうしても仕事は二の次になってしまう。 その家の仕来りや長幼の序とか、お客さんの接し方などを理解し実践させるまでには時間がかかる。 もっとも、家族よりも私たち事務所のものが多いから、彼女らも気疲れしたことだろう。
 料理の味が濃すぎたり、調味料を間違えたり……。あるとき、彼女らがおそるおそる出したカレーライスを、『噂』編集部の亀山修君と食べさせられた。 一口ごとにじわりじわりと辛さが体中に染み渡る感じで、脂汗が出てきたものの、文句をいっては悪いと、黙々と食べたものである。

 ときには、まだ小さい美季さんと喧嘩して、郷里に帰ると泣きつかれたこともある。 彼女らが住込みから、アパートに移りたいといい出したら、ボーイフレンドができたのではないかとかんぐったり……、 立場上、私もかなり神経を使ったものだ。
 長続きし、彼女らも勤めた甲斐があったとなればよいのだが、東京へ出たいからとか、今の会社を辞めたいからなどと、主たる目的が別にあることが多い。 結果的に、梶山家は彼女らが一時的に避難するために、利用されたのではないかとさえ思ったものだ。

 しかし、悪い話ばかりではない。
 二年ほど勤めたある娘さんは田舎に帰ると、故郷の名物だと信楽焼の高さ一メートルもあるタヌキ(千畳敷)をお礼に送ってきたり、 また別の娘さんは、市ヶ谷の小さな庭の池では手に負えなくなったアヒルのキキを四国の田舎まで連れて帰ってもくれた。
 五十年春、蔵知浩君は時々出入りしていたお花の先生荻野英子さんと一緒になった。最初で最後の職場結婚である。

 お手伝いさんになる、雇うというのも、今は昔の語ではあるが、谷崎潤一郎の『台所太平記』ほどではないが、 恋もあれば、悩みもある梶山家の一断面であった。

連想ゲーム

 ある年の美季さんの誕生日に、お祝いとして私はスチール製ではない本物の竹馬(一組五百円)を買ってきた。 新宿のデパートでやっていた地方の物産展で見つけたのだ。
 女の子でもまだ小学三年生である。庭もあり遊び道具としてはちょうどいいと、それも二組買い求めてきた。 青竹で作られたその竹馬は、初めての美季さんにも好評で、遊びにきた友だち数人とケンカもせず代わり番こに乗っていた。
 他の若い人たちも思い思いのものを買ってきたり、作ったりしてプレゼントしていたが、いちばん喜ばれた私は内心得意になっていた。 なにげなしに、みんなに「いま、この竹馬は幾らぐらいすると思う?」と聞いてみた。
 ピントのずれた答えが多い中で、「キミの給料はこれこれだから、その中から出せる金額は……五百円」と、梶山にズバリ当てられてしまった。
 まぐれ当たりかもしれないが、その論理的なのには脱帽し、とうとう二組(千円!)買ってきたとはいえなくなってしまった。

 梶山はよく、先に伊豆に来ている家族を追って、最終の新幹線と熱海からのタクシーを乗り継いでやってきた。 そんな時、美季さんにおもちゃなどを買って来るのだが、いずれも数千円から一万円はするものばかりだったから、 私たちはアイデアで勝負するよりなかったのだ。
 国文科出身だが、足で書く作家、ルポルタージュを数多くこなしたからか、あるいは生来のものなのか、数字や計算に明るいのは事実だった。 「赤いダイヤ」はじめ企業小説にはかなり大きな額の数字が出てくるが、原稿用紙の端などで、きちんと計算をしており間違いはなかった。

 しかし、大いなる誤算もあった。
 中学一年の美季さんが、学校から帰ってきて、真面目な顔をしていう。
「三か月になるんだけど、下ろしたほうがいいかしら? それとも、このままのほうがいいかしら。ねぇ、パパ?」
 いきなり、そういわれた梶山は、「えっ!ちょっと、待て! 何だって?」と、あわてふためく。しばしの沈黙。
「やーい、引っかかった! 貯金の話だよ」

 そのころ、彼女は父親をどう見ていたか。
「父は、私によく、『親子は他人』という。夫婦が他人なのはわかるが、親子は、まさしく血を分けたのだから、他人とは、思えない。 なんでも、私が、お嫁にいくとき、さびしくなるから、今から心構えを、しておくとか……。
 私が父に、何か、お願いをしたとき、父は『親子は他人』といって、しらんぷりをする。私が、いうときもある。 たとえば、ゲームをしたとき、父が負けそうになると、父は、『おれは父親なんだぞ!』と、おどかす。 私は、このときとばかり、『親子は他人!』といってやるのだ」(「オー・マイ・パパ」『オール讀物』四十九年新春特大号)  その美季さんも大学卒業後、世界文化社に入杜、そこで数年間、編集者を務め、やがてフリーに。 その間六十三年、かつての同僚の従兄で、スキーのコーチをしてくれた阿部雄三さんと結婚したが、“さびしがる人”はすでにいなかった。 彼女は今は主にファッション関係のベテランとして雑誌の仕事を中心に国内外を飛び回っている。

ペット

 青山のマンションには、私の“先輩”としてペルシア猫のアロがいた。
 灰色の体毛に緑色の目をしたオスで、おとなしく、みんなに可愛がられていた。 マンションの部屋のなかを飛び回り、ピアノの防音のために柱や窓枠を覆った遮音材のフェルトにツメを引っかけてよじ登るなど、やんちゃぶりを発揮していた。 これは、(前出の)ピアノの岡山先生の設計によるものだが、もとよりアロの関知するところではなかった。
 梶山に抱かれて雑誌のグラビアに登場したり、伊豆にも連れて行かれた。 別荘のソファの背もたれの上で寝そべるのが、お気に入りか、そのスケッチが残っており、死後、絵の個展のときに作った絵ハガキの一枚にもなった。
 青山から市ヶ谷に移って間もなく、芝犬の赤ちゃん「チビ」が加わった。 先輩作家の近藤啓太郎氏からいただいたもので、鴨川のお宅まで車で迎えにいった。母親の名が知美(ちび)だったので、馴染みやすいだろうと同じ名がつけられた。 ただしオスである。

 しばらくして、美季さんが青山のピーコック・ストアからヒナどりを一羽買ってきた。 全体が黄色く、ニワトリにしては少し変だと思っていたところ、やがてクチバシが大きくなり、アヒルであることが分かった。
 庭に小さな池や芝生があるので、遊ぶには事欠かなかったが、なにしろキーキーとうるさい。だれいうともなく、キキという名がつけられた。 こればかりは抱き上げるわけにもいかないが、庭でひょこひょこ歩いているところなど愛敬があり、梶山一家とともに『小説宝石』(四十六年九月号)のグラビアに登場している。
 しかし、犬や猫とちがって、大きくなると遊び場や食べ物に不自由する。また、水場が狭いせいか、羽がすぐ汚れてしまう。 うるさくて近所迷惑だと、“双方”がもてあまし気味のとき・四国出身の若いお手伝いさんが故郷に帰るという。 広いたんぼがあるから貰っていくというので、キキは新天地をめざして連れられていった。
 やがて、広々とした水田の中で、一回り大きくなったキキの写真が送られてきて、みんなを安心させた。

 チビはすでに、外のガレージの側に大きな犬小屋を与えられていた。 『噂』発行所の人たちや多くの人が出入りするので、愛想がよかったが、“番犬”としては少し物足りなかった。 なにしろ血統書付きの由緒正しい芝犬であったが、ちやほやされるものだから、人間を疑うことを知らなかったようだ。
 それでも長生きして、梶山家のテーブルや家具、内装を引き受けていた三越本店の斉藤順三さんに引き取られ、市川に移り住んだ。 生まれ故郷の千葉に帰るのだからと、人間は勝手なことをいうが、送られて行く車の中では何とも悲しそうな顔をしていた。
 ところが、新しい主人のもとでは、チビの「頭の良さに感心させられ、留守番役も立派に務めてくれました。 大型犬に襲われても真っ向足を四つに、グッと構える立派なやつです。もちろん無駄吠えはしません」。 そして、問もなく十歳を迎えるという春に、安らかに逝ったと斉藤さんから報告されている(「チビの最期」『積乱雲とともに』)。
 ペルシア猫のアロも、その後数年は生きていたようだ。

ブルーフィルム

 市ヶ谷の家で。
 さまざまな友人や知人あるいはファンなどから珍奇なものが寄せられたが、このときは無修正のアメリカ版『プレイボーイ』誌と、 二本の八ミリ、いわゆるブルーフィルムが、帰国した人から届けられた。 たしか、若いころ渡米してそのまま居つき、ステーキハウスのチェーン化で大成功を収めたロッキー・青木氏からのものだった (彼がモデルと思われる小説「ラッキー・ボーイ」は『現代』四十四年一、二月号に掲載されている)。

 その日、梶山は午前中暇だったのか、これを見ようと、二階の和室に八ミリ映写機を持って来るようにと私に声をかけた。 部屋を閉めきり暗くして、ジー、カタカタ……と回し始めた。のっけから白人男女の絡みシーンがカラーで写し出される。 とはいっても、画面はスクリーンに大写しではなく、十インチほどの小さなもので、音声も何もない。
 二人だけで、映写機の小さな画面をジィーツと見ている、秘密の試写会である。梶山は慣れっこかもしれないが、初めての私には刺激的である。
 ジー、カタカタ……は続く。三分ぐらい経ったころだろうか、突然、ガラガラッと入り口の戸が開いた。 見ると、小学二年の美季さんである。私は慌てて、映写機のスイッチを切った。 薄暗いなか、「学校は?」ととっさにごまかすと、「風邪で休んだの」といい、「こんな暗いところで何してんの?」と無邪気に聞いてきた。

 八ミリはこれまでにも、彼女自身の踊りの発表会のもの、旅先や伊豆で撮ったものなど何本もあり、格別珍しいものではない。 しかし、父親とその助手が、二人だけで見ているというのは不思議に思ったことだろう。
 私以上に驚いたのが梶山だった。特別悪い? ことをしているわけでもないのに、かなりバツの悪そうな顔をして、黙って出て行った。 残念なことに、映写会はそのまま打ち切りとなり、私には欲求不満が残るのみであった。

 もう一つ、今度は私の失敗談である。
 四十六年十月から十一月にかけて、梶山がソ連および東欧に行くときのこと。 新しく八ミリを買って、傑作をモノして来ようと張り切っていうので、私が調達し、フィルムも用意して渡した。
 無事帰国して、白夜は素晴らしかったなどとの土産話はともかく、どんなシーン、町並みや人々の暮らしぶりが写っているかと、 みな映写会を楽しみにしていたのだが……。写し出された光景は薄ぼんやりとしたもので、いつまで経っても鮮明でカラフルな情景が出て来ない。
 おかしいなあ、秋だから光が弱いのかなあ、いや白夜だから、こんなものだよと、梶山は首を捻りながらも独り合点している。 ちょうど来ていたテレビ局の人が、どれどれと八ミリの機械を開けてみる。「おい、電池が入ってないぞ!」。
 カメラは動くものの、はじめから露出調整の電池がなかった。 “白夜”こそ、とんだ迷惑だったが、これでも助手が務まるのだから、優しい人なのである、梶山という人は!

 別の会合での話。
 やはり八ミリの映写会で、もちろん音声が出ない。 そこで男役は梶山がやり、女役は当時の女優、のちにテレビの司会者としても活躍する女性が、かけあい漫才よろしく絡みをやってのけ、 満座の人を喜ばした? という。
 今のようにビデオなどという便利なものもない、おおらかな時代のことである。

テレビの功罪

 テレビを見るのは好きだったようだ。深夜の名画劇場とか、六大学野球、日曜朝の囲碁などをよく見ていた。 伊豆での夜など夫人と、旧いフランスやアメリカ映画を見ながら、青春時代を懐かしみ、思い出話に花を咲かせていた。
 市ヶ谷の自宅では、昼過ぎの時代劇を見終わったときなど、「これにて、一件落着!」とおどけて三階の書斎に戻るのだった。 美季さんが大きくなるにつれて、チャンネルを占領することが多く、また、部屋数に応じてテレビも二台、三台と増えた。 しかし、お笑いショーや寄席番組は二人で仲よく見ながら、笑いころげていた。
 梶山自身の作品が電波に乗ったのはラジオのほうが早く、三十三年から三十九年にかけて、『蛸が茶碗を抱いていた』などの書下しのほか 『愛の渦潮』など十数本あった。テレビはそのあとで、『赤いダイヤ』など十四、五本を数える。 三十九年にはNTVの自作『のるかそるか』で、税務署に追われる流行作家として登場、ドラマ初出演となった。
 実際に、流行作家となってからは忙しく、テレビに出るのをあまり好まなかった。顔を覚えられると、悪いことができない、 などといっていたが、それは本心からではない。
 たった五分の出演でも、拘束時間の長いことや、せっかく出ても満足に意見を述べさせてくれないなど、苦痛だったり不満が残ったからだ。 しかし、断固拒否というわけではなかった。義理のある番組や納得のゆくものには出ている。

 四十四年七月二十一日、NHKテレビで中継されたアメリカの宇宙衡星アポロ11号の月面着陸の模様、大小さまざまなクレーターの不気味さ、 アームストロング船長ら二人の宇宙飛行士が月面でウサギ跳びをするところなど、伊豆の山荘でじっくりと見ていた。
 宇宙遊泳第一号はソ連のガガーリン少佐に譲ったものの、アメリカの威信をかけたこのショーは、宇宙時代の幕開けであり、 十分に見応えのあるものだった。
「宇宙に比べたら、地球上の人間なんて、ちっぽけなものなのに、つまらないことで、争いをするんだから」とは梶山のつぶやきである。

 この四月二十三日、ペルー日本大使公邸人質事件は特殊部隊による強行突入で、ゲリラは全員射殺され、 人質は救出されて(七十二人のうち一人死亡)、一応の決着を見た。この模様はテレビを通じて全世界に流された。
 それで思い起こすのは、規模も事情も違うが、四十七年二月二十八日、浅間山荘事件ではNHKはじめ民放各局が終日、 コマーシャル抜きで山荘の破壊作業、人質解放の一部始終を中継したことである。
 連合赤軍のリーダー永田洋子らはその前に逮捕されていたが、残党五人が軽井沢の河合楽器浅間山荘に、管理人の妻を人質に立てこもった。 十日目の二十八日午前十時、警察は工事用の大鉄球で壁を破り、放水とガス弾で山荘を攻撃するが、犯人側も猟銃、ピストル、手製爆弾などで激しく抵抗する。
 雪がパラつき、夕闇が迫り、気温も下がる……。警官が撃たれて死亡、人質の安否は?
 夕方六時ちかく、ようやく機動隊員が山荘に飛び込んで全員を逮捕した。 この間八時間、事件もきわめて異常であったが、視聴率は五〇・八%と、全国民の耳目を集めた。
 梶山も仕事にならず、テレビの前にクギづけで、私は「ただいま来客中」と電話のたびに答える。 現実には、来客はただ一人、前夜から泊まっていた、友人のテレビ西日本・兼川晋氏で、同氏はすぐそばのフジテレビにさえ行けなかった。 それぐらい、目が離せなかったのである。
 本件に関して今東光氏との対談「何が彼らを残忍な殺人に追いたてたか」で、梶山は彼らの心理・事件の分析をしている(『週刊小説』同年三月三十一日号)。

 時には、イキなこともする。
 自宅から歩いてものの一分もかからないフジテレビの、美術番組に出演したあと、会場に飾られた絵を買い、 番組のホストで新婚早々の関口宏さんにプレゼントしたのだった。 その画家とは一度しか会ったことがなく、また絵の値段は出演料の十倍以上もした。
 四十九年には初めてクイズ番組(日本テレビ「本ものは誰だ」)のレギュラー回答者をつとめ、同年夏にはTBSの家庭番組に一家で出演した。 立て続けの出演に、心境の変化?と、いぶかしく思ったものだが、死の前年のことである。

 そして、冒頭でふれたように、五十年五月四日、NHK教育の教養番組「大衆文学を語る」に出演して、小説を書く動機、これからの仕事について語った。 かつてNHKのブラックリストに載ってから、料理番組以外は出演依頼がなかったのだが……。

前のページへ    次のページへ


お問合せは・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp