「梶山季之」 「「エロ」と「ポルノ」」その1

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「エロ」と「ポルノ」

一日税務署長

 毎年多くの税金を納めている渋谷税務署から依頼を受け、梶山が“一日署長”を務めたのは四十六年十一月一日。
 税務署は毎年PRのつもりか、管内に住む有名人を招き、一日署長の辞令を発するようだ。うまい“懐柔策“ではある。 その役をおおせつかった人は、署員を前に一席ぶったあと、署内を巡回するのだった。
 梶山はそのあと、『週刊文春』(十一月十五日号)で「一日税務署長 梶サンの納税意欲増進プラン」と多額納税者の心境を踏まえた? 型破りな発言をしている。
 外国では納税額に応じ、席順をきめるパーティがあるそうで、
「日本でも採用すればいい。たとえば園遊会。納税額一位から十位までは天皇の言葉を賜わる。十一位から五十位までは握手だけ。 五十一位から百位までは、皇太子(現・天皇)と美智子サン(現・皇后)の黙礼とかね。そのあと? 浩宮(現・皇太子)だな」
「つまり、これで『ヨーシ、来年はガンバルぞ』と張り切る人も出てくるというわけ。勲章にしても、納税額いくら以上は勲何等ときめて、恩典をつける。 汽車のキップが待たずに買えるとか、駅長がむかえに出るとか……」

 作家の場合、原稿料や印税などその収入はガラス張りで、サラリーマン同様ほとんど税務署に把握されてしまう。
 一年後に梶山は、税金の使われ方について具体的な発言をしている。
「文士に限っていえば、現在の累進課税は、たしかに労働意欲を失わせている。 仮に、一枚一万円の原稿料を貰ったとしても、結果は一枚二千円にもならないのだ……と考えると、なんとなく誑かされているような気持になるからである。 何年も前から、私は、文士が払った税金の半分は、文化方面に対して還元してもらいたい……といい続けてきた。 早い語が、五木寛之、野坂昭如、それに私の三人が支払う税金は合計して一億五千万を上回っていると思う。 その半分があれば、日本ペンクラブや、文芸家協会は、赤字に悩む必要はないのである。 (中略)日本は一応、文化国家ということになっているが、現状を見ると、何が文化国家かといいたい」 (「税金について」『週刊・税のしるべ』四十七年十一月六日号)と噛みつく。

 そして、控除対象の必要経費(取材費)について、こう説明する。
「世間の人からみたら、私など、さぞかし贅沢三昧の男に見えるであろう。
 しかし、一流の料亭に出入りするのは、取材その他で人を招待するときに限られており、銀座のバーへ行くのは、座談会やパーティの帰りに、 編集者や仲間たちと交歓するためである。
 たしかに、女遊びは派手だが、ただ遊んでいるわけではない。ちゃーんと取材をしている。 でなかったら、あれだけの小説を量産できるわけがないのだ……。
 外国へ行くこと、毛色の変わった女を抱くことは、これまた取材であって税務署でも認めてくださっている」(『あたりちらす』)

 などとはいっているものの、年明けの申告の季節になると、取材費など必要経費の算定をめぐる税務署との攻防に、夫人ともども頭を悩ませていた。
 先の「税金について」では、前年の所得を勘案して、今年もこれぐらい稼ぐだろうからと、あらかじめ先取りする、 “予定納税”などという理不尽な制度にも注文をつけている。
「(予定納税の)期日までに納めなかったから……といって、延滞金利まで取るというのだから、踏んだり蹴ったりである。 (中略)予定納税した者に対して、大蔵省は銀行なみに預金者扱いをして、逆に金利を予定納税者に支払うのが当然だと思う」と。

 四十四年十一月に季節社を作ったのは、一種の節税対策だろうが、日ごろから梶山のマネジメントをしている夫人に給料を支払うことでもあった。
 しかし、いざ会社組織を作るといっても、当時、そういう組織を持っている作家は見当たらず、わずかに劇作家の花登筐氏のマネージャーに話を聞いただけだ。
 まして、業務の一つである、小説などを単行本として出すときの契約「出版権設定登録」のことには不慣れで、弁護士事務所、会計事務所などとも相談することが多く、 かえって煩雑となり各出版社を混乱させたようだ。 今でも、慣習として、出版社がその権利を保有しているように見えるが、本来は文化庁に登録されるべきものである。

 その季節社も平成元年十一月に創立二十周年を迎え、翌年五月には同ビルで梶葉忌(梶山の命日)と合わせパーティを催した。 作家の陳舜臣氏や伊賀弘三良氏はじめ編集者やゆかりの方々が招かれたが、翌日からビル全体が隣りのフジテレビに賃貸された (今年<97年>三月末、同テレビ局は港区台場に移転したため、また空き家に)。
 また『黒の試走車』出版のころから付き合いのあった元銀行マン中山信さんの紹介で、山田幹夫公認会計士事務所にお世話になっており、 いまでも同事務所の小林義明さんが出入りしている。おかげで社長である夫人は律義な人と、税務署に感謝されているという。

失いたくなかった“特権”

 ときどき、国会議員の選挙応援を頼まれた。どういう具合か今東光氏、柴田錬三郎氏らと行くことが多かった。 応援した侯補者がみんな当選した、というのが秘かな自慢だった。
 梶山自身、立候補をしたことはない。忙しくて時間がないし、照れ屋である。選挙カーに乗って、頭を下げる姿など想像もできない。 ところが、そんな人物に白羽の矢を立てる人がいた。四十九年一月早々、自民党の江崎真澄氏(当時、幹事長代行)が突然市ヶ谷の自宅にやって来て、 七月の参院選・全国区に出てほしいと要請したのである。
 すでに、その三年前の参院選で今東光・石原慎太郎(作家)・青島幸男(現・東京都知事)氏らタレント議員がぞくぞく当選していた。 知名人の登場は政治実績よりも、何か政界に新風を吹き込んでくれるのでは、という期待感が込められていた。
 かつて文学青年だった江崎氏とは、以前からの知り合いである。その氏から、「一切の面倒を見る。必ず当選させるから、何とか自民党から出てほしい」と真剣に口説かれたのだった。 当時の情勢は保革伯仲どころか、逆転のおそれすらあり、自民党も必死だった。
 梶山は日ごろから、議員バッジの特権を苦々しく思っていた。 国鉄のグリーン車には無料で乗れる、羽田空港(当時、海外旅行もここから)でいつも腹立たしいのは、一般乗客は長い列を作っているのに、 彼らは別の通関口を涼しい顔をして通っていく、不逮捕特権もあり、歳費という名目で多額の税金を使い、 秘書二人の手当て(今は三人目の、政策秘書というのもある)も貰える、等々数え上げたらキリがないと。
 税金といえば、作家の収入はガラス張りで、かつ毎年高額をとられる。 何年か前に訪問したソ連では作家への課税は十%以下と聞くと、いい国だと思ったり、韓国では無税と知ると、日本でのわが商売がバカらしくなったと嘆く。 かつて多額納税者は貴族院(参議院の前身)議員に列せられたことを考えれば、なおさらである。

 そんな梶山を担ぎ出そうという自民党の魂胆は、タレント侯補として有望である、野にあれば敵だが、味方に引き入れ口封じをすれば一石二鳥、 その正義感ぶりは強力な武器? になる、と計算したのではないか。 トップ屋時代に仕込んだ“ネタ”で小説を書き、政財界の暗部に鋭いメスを振るっていたからだ。
 心は揺れた。夫人や友人の弁護士の水谷昭氏とも相談した。私には「第一秘書になりたい顔をしているなあ」などと冗談をいっていたが、 一週間後に正式に断った。もし当選して六年間も拘束されれば、健康のこともあり、また長年の構想をまとめる時間がなくなるからだ。
 それ以上に、やはり野にあって、いいたいことは作品の中で訴えるほうがいいと、この多額納税者の“特権”を失いたくなかったのだろう。

駄酒落

 梶山の死の直後、山口瞳氏は次のように書いている。
「彼は、四、五年前から駄酒落を連発するようになった。馬鹿なことを言って女たちを笑わせ、それで憂さを散じていたようだ。 ポルノ小説を書き出したのもその頃である。私は駄酒落が大嫌いである。開き直って言うならば、それは作家にあるまじき行為である」 (「男性自身・遠くなってゆく」)

 話はそれるが、私は大学を出た年の十一月半ばに、梶山の助手となった。 ある出版社の中途採用試験に不合格となっていたが、それなら見所があるという、きわめてあいまいな理由から採用? された。 また、私が大陸生まれというのも、外地派作家である梶山には親近感があったようだが、これだけでは私は不安である。 諸々の仕事や事情がなかなか呑み込めないし、先輩たちには何かとイビられていたからだ。
 そんな不安を抱えながら、年が明けてすぐ、たしか二度目の伊豆行のときだった。
 毎冬、母上ノブヨさん手作りの、本場仕込みの朝鮮漬(キムチ)が食卓を賑わすのだが、そのときも山盛りになって出てきた。 梶山はそれを旨そうに頬ばりながら、韓国ではどの家でもトウガラシ、ニンニク、アミなど薬味をたっぷり利かした白菜を大きなカメに漬けて、 凍った地中に埋めておくんだよと説明してくれた。
 私はすかさず、「それで、韓国のことをコオリヤ(氷屋=KOREA)というんですね」と苦しい駄酒落を返すと、 「君、なかなかやるじゃないか」ということで、やっと“正式”に採用された思いがしたものである。

 駄酒落は酒場だけとは限らない。軽い艶笑エッセイに、“スエーデン(据膳)食わぬは……”などとタイトルをつける。 登場人物にも、「と金紳士」の中国人・陳勃達のように読みようによってはニヤリとさせられるものがある。
 その駄酒落についてだが、梶山が雑誌『酒』に小文「だじゃれ関脇」を書いたのは、四十二年一月号である。 また“ポルノ小説”を書き出したのは、四十二、三年ごろからである。つまり、死ぬ四、五年前ではない。

 さて、当の山口氏の場合はどうか。「遠くなってゆく」のしばらくあとで、こう書いている。
「私は酒落は好きだが、駄酒落は嫌いだ。そうして、私自身、駄酒落を言わないかというと、これが言うんですね」(「男性自身・これが嫌い」)
 私は生意気にも、夫人にいったことがある、「死んだら負け、ですね」と。

「大衆文学」とは

 ところで、梶山は三十六年に“トップ屋”を辞めて、作家活動を始める。その動機は……。
 静養のために入院という事情もあったが、評論家の青地晨氏は次のように証言する(「さわやかな師弟愛」『積乱雲とともに』)。
 初期のころの、ノンフィクション・ライターとしての力量を買っていたので、小説に手を出さねばよいと思っていた氏は、 そのようなことを梶山にいったところ、「ノンフィクションで政界、財界のスキャンダルを書いても、いま一歩というところで突っこめなくなる。 ここでAとBのあいだにカネの受け渡しがあったにきまってるが、証拠がないから、それ以上突っこめない。 フィクションなら誰も知らない密室内の状況が自由に書ける。小説を書こうと思ったのは、つくづくノンフィクションはモドカシイと思ったからですよ」と答えたという。

 また、梶山自身のこういう発言もある。
「僕はよく“エロ作家”などといわれているように、セックスや男女の世界を小説のテーマにしてきている。 なかでも同性愛、フェティシズム、マゾ、サドのような異常な世界を描く。しかしエロはサシミのツマで、いいたいことはほかにある。
 けっきょく、読者はカタイものを書くと退屈してしまうわけである。そういうお色気をちょっと入れて、 そういう方面で読者に“読ませる”ということは、僕が週刊誌の特集記事を書いていた時代に、なんとかして読者に読んでもらいたいと痛感してきたからだ」 (「エロはサシミのツマ」『二〇世紀』四十四年七月号)

 四十三〜五年ごろ、いちばん脂の乗り切っていたこの時期、梶山は「高額所得者番付」の作家部門で一位になるなど多忙を極めていた。 そのような状況下の梶山を、当時新聞などはどのように評価していたか。

『週刊読売』(四十四年十月三十一日号)には、巌谷大四氏、武蔵野次郎氏ら七人の文芸評論家による「戦後好色文学ベスト20」と題する四十ページにも及ぶ特集がある。
 冒頭で「現代性豪作家七人衆・作品とその"おもしろさ"の秘密」として、次の作家を年齢順に紹介する。
 北原武夫 女体へのひたむきな耽溺 川上宗薫 “失神小説”の第一人者だが…… 田中小実昌 底辺にうごめく者の悲哀  泉大八 “労働者文学”出の痴漢小説 梶山季之 カラッとしたナンセンス・エロ 戸川昌子 倒錯した性を描く代表選手  宇能鴻一郎 重苦しさのなかに感銘 と。
 なぜこの七人なのか? “ベスト20”を選ぶのに、「潤一郎の『鍵』や康成の『眠れる美女』と、いま売り出しの読み物雑誌にずらりと並ぶセックス小説を、 一緒に論ずることは出来ない。ごく簡単にいえば、前者は文学とよばれ、後者には“エロもの”のキャッチフレーズがつく」から、同列には扱えないのだという。

 この分け方は、文学を純文学と大衆文学に分けるのと同類であろう。 文学といえば何となく高尚に見え、なかでも難解あるいは私小説的な“純文学”は上等であり、政治や企業もの、平易な内容の大衆文学は劣るものとすれば、 ブランド志向の強い日本人の好みに合い、分かりやすいからだろう。

 続いて個人分析では、「梶山季之は、七作家の中から飛び出しても、現代第一流の流行作家であり、事件小説、産業スパイ小説、推理小説、風俗小説、 ゆくところ可ならざるなき作家である。もちろん、七作家の筆頭でもあるが、彼のこの種の小説が、再三、ご難にあったことは、彼の小説が格別ワイセツだからではない。 目につきやすいからだどいうことにしておこう。梶山のセックス小説は、じめじめとしてはいない」と、「すってんころりん」(『小説宝石』四十四年十月号)の一部を紹介したあと、 「エロチック・ナンセンスという形の小説で、大いに笑わせるが、その笑いの中に、人生というものは、むしろこういうものだと思わせる力を持った小説である。
 ……梶山のエロ・グロは、どんなにエゲツナイことを書いても、明るく、朗らかな一点を失わない。読者にはそこが魅力なのであろう」と、結んでいる。

 その翌年春には、もう少し、冷めたというか辛辣なものもある。
「いま大衆文学雑誌は、作家不足に悩んでいるそうだ」で始まる『朝日新聞』で、同社調査研究室副主査の百目鬼恭三郎氏は 「“新風”を待つ大衆文学界 方向を見失い低迷 社会の複雑化に立ち遅れる」との意見を開陳している(四十五年三月二日付・火曜第二部トップ記事「意見と背景」)。
 “作家不足”というのは、新しい小説を書く人がいないということらしく、「いま大衆文学雑誌はさながらエロの花ざかりである。 が、実のところ、このエロ・ブームも昨年の夏ごろを境に下り坂にかかりはじめているのだ。 大衆の趣向に敏感な川上宗薫氏や梶山季之氏たちが、これに気づかないはずはない。 この人たちの小説には、いまはサディズムやマゾヒズムなどグロの要素が、エロに変わって現れるようになってきた」と、同氏は断定する(傍点引用者)。
 なぜかといえば、かつて、純文学では食えない時代の作家たち、たとえば松本清張、柴田錬三郎、水上勉氏らは、新しい大衆文学の型を作ったが、 今は雑文を書くなどして純文学で食べていけるので、(大衆文学へ)転向する作家はいないからだという。

 続いて、同氏は自論(?)を展開する。
「社会の複雑化に立ち遅れ」た原因は、「今日の複雑でとらえようのない社会を、この大衆文学の型で割り切ることはもはや不可能になったといっていいだろう。 だから、おなじ社会悪の現象をとらえるのでも、梶山氏や佐賀潜氏の小説は、松本清張氏とちがって、どこか投げヤリで自信がなさそうに見える」。 そして、「松本氏のように、社会悪をはっきり割切ってつかまえられない」以上は、「大衆文学の新しい型は生まれない、ということになってしまうようだ」 と“自信がなさそうに”結論づけている。

 さて、この「意見」の下段は、データに基づく“背景”の解説となっており、タイトルは「いまや“露出狂時代” 三誌にみる登場作家の傾向 時代小説も人気下向く」とある。
 “三誌”とは『小説新潮』『オール讀物』『小説現代』の代表的な大衆文学雑誌をさし、四十四年一年間に作家がどれだけ登場(執筆)したかを調べたもので、 掲載小説総数は約五六〇編、いちばん多いのは野坂昭如氏二十一回、川上宗薫氏二十回、梶山と池波正太郎氏が十七回、松本清張氏が十五回となっている。 また、「九回以上登場する作家はわずか十五人で、登場作家総数の一三%にもみたない少数派であるけれど、その掲載作品数は一六三編。 つまり、全体の二九%を占めている」と説明する。
 しかし、売れっ子の状況を知るには、他に週刊誌、新聞の連載なども調べなければならないが、データは四十三年のしかないそうだ。 その年、梶山は「月刊誌に四十一回登場したほか、週刊誌の連載を八本書いた」と最初に取り上げ、以下、野坂氏月刊二十七、週刊二、宇能鴻一郎氏は月刊二十一に、 週刊一、戸川昌子氏は同じく二十一回と三回、川上氏は月刊十八、週刊と新聞の連載それぞれ一回となっている。

 この調査は徹底していて、三誌に重複(同月掲載)や、二誌に重複する作家の状況を調べており、その“代表”して梶山を例にあげている。 「この二月末に本屋で売られている雑誌、週刊誌の目次をひっくりかえしてごらんになるとよい。 梶山季之氏は月刊誌に九本の小説を発表しているほか、週刊誌の連載小説三本、新聞の連載小説一本を書いているのである」。 原稿の総枚数は、ざっと九百枚(四百字詰め)、平均一日三十枚の計算になるなどと細かく記している。

 それはともかく、次の記述は上段の“意見”同様、視点が定まっていないようだ。
「(大衆文学雑誌でいちばんの人気はエロだが)、ついで人気があるのは、実録めいた小説といえるだろう。 これは松本清張氏が開拓した道で、実際に起こった、あるいは社会の裏面に隠れている事件をとりあげて、それに作者の想像を加えて小説に仕立てたものである」として、さらに続ける。
「この方面では、松本氏のあとは梶山季之氏が第一人者であり、黒岩重吾、佐賀潜、三好徹、城山三郎、菊村到、生島治郎といった人たちもその系譜につながっているといっていいだろう」といい、 さらに推理小説家の名が列挙されているが、本格推理、純粋のナゾときはなくなり、それらの小説は「たいていはゆがんだ杜会風俗の上に成立っているのである」とする。
 すぐ続けて、「エロからゆがんだ社会風俗描写まで。ということは、大衆文学はいまや露出狂の時代にはいっているともいえるだろう」とは、少し強引な結論ではないだろうか。

 たしかに、全体的に見ると、四十三年は「(創刊誌が相次ぐなど)中間小説の変質がいちじるしく、新しい傾向があらわれて、秋の雑誌界の話題となった」が、 四十四年になると、「昨年の後半、異様なブームでにぎわった中間小説部門であるが、ことしにはいって早くも一部にかげり現象がみえはじめ、 かなり浮沈の一年だった」(『出版年鑑』出版ニュース社刊、六九、七〇年版)という。

 それから半年後、文芸評論家の荒正人氏は、梶山について次のように述べている一『サンケイ新聞』四十五年九月十二日夕刊「大衆文学時評」)。
「小説現代には、『梶山季之一人三人全集』として、『青の執行人』(企業内幕篇)、『赤い岡っ引』(時代捕物篇)、『黄雲譚』(好色ユーモア篇)を掲げている。 これは、現代もの、時代もの、喜劇ものと三役兼ねた役者の奮戦ぶりを思わせる。梶山季之の多彩な力倆を示している。 この作家は、往年の牧逸馬・谷譲次・林不忘を抜いていることは誰しも認めている。少なくとも、大衆文学を熱心に読んでいる読者たちは、よく分っている」。 しかし、こうも注文を付け加える。「だが、梶山季之は、自分の作風をどんなふうに定着させて行くか、それが重い課題だと思う。 “大衆社会”の大衆は、従来の大衆小説の読者とは、質も量も違うものになっていることを心得ておかねばならない」からだと。

 一方で、こういう期待感も込められていた。
 四十六年六月から四十七年二月まで、『読売新聞』朝刊文化欄に連載された「文壇百人」で、梶山の初期の作品『李朝残影』にふれたあと、 「内側にナイーブで繊細なものを秘めている彼の、本来的な仕事はこの『李朝残影』に回帰することによって、かたちづくられるかもしれない。 いずれにしても、彼の内側に『李朝残影』のモチーフが消えないかぎり、彼の仕事には潜在的な意識の継続がなされてゆくことだろう」 (筆者は“黒頭巾”……共同執筆者である巌谷大四、尾崎秀樹、新藤純孝の各文芸評論家のいずれか。『文壇百人』読売新聞社、四十七年十月刊)。

 ところで、作家全般についてこんな見方もあることをご紹介しよう。
『週刊朝日』四十八年三月十六日号の匿名コラム「活字の周辺」は、「現代文学に見のがせない引揚派作家」と題して、次のようにいう。
「……どうしたわけか旧植民地をふくむ海外生れや外国育ちにはまともな評価を与えない。 一世はともかく海外二世ともなれば、日本とは違った風土に影響され、日本の伝統的な思考法や生活意識とは別の感覚を、自然と身につけている場合が少なくない」として、 次のように名をあげる。
「満州育ちの安部公房、宇能鴻一郎、清岡卓行、五味川純平、早乙女貢、朝鮮では梶山季之、五木寛之、富島健夫、後藤明生、古山高麗雄、大藪春彦、 それにバタビヤ育ちの有吉佐和子、上海の生島治郎などかなりの数にのぼる」と。
 続いて、自身も外地引揚派である日野啓三氏の分析を紹介する(『五木寛之作品集』月報<同時代の眼>)。 日く、「これらの文学者に共通する要素として、大陸的な自然観、敗戦体験の特異性(無媒介に世界と向きあった体験)、隔絶された人間感覚、 祖国喪失の孤独感など」をあげ、さらに「五木寛之の日本語ばなれした特異な文体、梶山季之の異常な量産ぶりなども、そのことと無縁ではない」といい、 これを受けてコラム氏は「現代文学を語るうえで、このことは見逃せない現象であろう」と結んでいる。

“異常な量産ぶり”といえるのかどうか分からないが、梶山自身は頼まれればイヤといえず、注文をこなして編集者や読者にサービスして来たのは事実だが、 原稿料や印税は大河小説を書くための資料集めにつぎ込む必要もあったのだ。

 最後に、亡くなる四か月前の、『朝日新聞』夕刊のコラム「作家Who,s Who」(五十年一月十七日付)で、梶山季之は“育ちのいい性格”として、こう書かれている。
「(最近、梶山が若い時代に書いた頼山陽がモデルの『雲か山か』が出版されたが)この作品には、作者自身の育ちのいい性格が自然ににじみ出ていて、 思わず微笑を誘われる」。そしていう、「梶山は、文学青年を卒業するとルポライターになり、自動車産業のスパイを素材にした内幕物小説『黒の試走車』で、 一躍流行作家にのしあがった。そのため、彼は、週刊誌文化の申し子のように思われてきたし、ポルノ流行の兆しが見えると、いち早くポルノ小説を開拓したりしている」(傍点引用者)。
 そして、この匿名コラムニストは、とつぜん次のようにいう。
「だから、もしテレビの番組並みに作家のワースト・10をあげるとしたら、梶山が上位に入るだろうことはまちがいあるまい」と。 また、「梶山には、松本清張のような社会悪に対するどす黒い怒りはないし、それに挑む主人公たちの執念も、ちょっとあっけないほど淡泊なところがあるのだ」との評価を下すが、 これでは表面的に過ぎ、かつ短絡的な結論といえないだろうか。

 現実(現象)が先か小説が先か、「本質は教師」の項で少しふれたが、梶山自身の考えを次に掲げる。

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