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「ミニ自分史」(101)どうなるか判らない、勝手な言い草   1970/11/15 橋本健午

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 十一月十五日、夜。
 本当に何カ月ぶりに、ペンを持つというのだろう。
 もう何年も、物を書くと称しながら、未だに生来の気の弱さ、ものぐさ、無気力さに愛想よくつき合っているというのだ。
 何が不足で、何が面白くなくて、何が満たされなくて、毎日を、怠惰に過しているのか。  私には、自分のやる気なさが、どこから来るのか、全く判らない訳ではない。 しかし、それが、本当に自分を、駄目にしていることなのかどうか、私は、正直にいって、考えるのが、怖いくらいである。
 人生を、それ程、くそ真面目に、仕事をそれ程、真剣に、己をそれ程、的はずれに見て来たつもりはない。
 しかし、私は、何故か、この現実の一つ一つの私が、本当の私であるということを、自ら認めることができないのである。
 私は、確かに、現に生きている私の、肉体の所有者ではあるが、私の精神は、一体、いつ、本当の私と、かヽわりを持つというのであろうか。

 私は、今まで、誰にも、本当の自分を明かしたことはない。 他人の推測や、観察が、かなり、私自身を掠えていると思うことはあるが、しかし、だからといって、その他人に、そうなんだ、 それが、本当の私なんだと、告白することはできない。
 私は、いつも臆病で、いつも他人の眼や考えが気になり、自分の本心を、さらけ出すことができないでいる。 心身ともに調子のよい時には、少々のことは、笑って過すことができるが、ひとたび、リズムが狂うと、もう平常心にもどるのに、かなりの時間を要してしまうのだ。

 私は、ずっと以前からそうだが、私自身、一体、何を望んでいるのか、何を最も欲しているのか、判らないのである。
 現世的な欲望――、それはないこともない。例えば、気のおもむくまヽに、女を抱いて、心地よく、眠りたいという欲望はある。 しかし、それも、気にいった女と、豪華な雰囲気の中で、いくらかの酔いに任せて、心おきなくというのでなければ、私の欲望を満たすことはできない。 そうでなければ、一人寝のわびしさの方が、まだいく分の救いがあるというものである。
 ただ女でさえあれば、という気には毛頭ならないし(尤も、どうしてそうなのかは、今までの、余り男らしくない経験と相手のせいなのか、 あるいは、元々私が、そういうことを好まないからなのか)、かといって、女を抱くのに、理窟も何もないのだが、自尊心が、顔をのぞかせるのが、 性的に、不味いわけで、それも、当分改まりそうもないことである。
 次に、出世とか、結婚、マイホームなどということは、今まで、私にかヽわりのないことであった。
 私は、自分の人生を、粗末に扱うつもりは毛頭ないが、人生、何年でなければならぬということはないし、 日々が充実しておれば、それで充分ではないかと思う。

 女について、もう一つ大事なこと、つまり結婚について、触れておかなければならない。 男にとって、いや男である私にとって、結婚とは、何なのであろうか。
 結婚とは、一組の男女が結びつき、家庭を造り、子供を育てる、というようなことであるとしたら、私は、正直にいって、余り必要性を感じないのである。
 独身の男にとって、掃除、洗濯、食事のことは、面倒であるが、しかし、それとて私にとって、大して苦痛とは思われない。
 尤も、毎夕食、何を食べようかと考えて、それを実行にうつすには、時間と、金がかヽって、たまには、ただ食うのみの食事をしたいと思うこともあるが、 仲々そういう店も見つけにくヽなっている。別にぜいたくをしようという気はないのだが、一方で、せめて食事だけでも、気持のよい時間を過したいと思うのも事実である。
 そうなると、残るは、セックスである。
 健康であれば、誰でも、セックスを欲するのは、自然であろうが、今の私には、観念的には、欲望はあっても、行動に移せそうもないといえる。
 というのは、私(現在の)は、全く、抑圧された状態にあり、全ての面において、己を、欲望を、素直に、表面化することができないでいるのである。 誰にとか、何にという訳ではなく、むしろ、現在の自分自身に、といった方がよいかも知れない。
 現在の私自身とは、何か。
 私は、梶山家に来てから、もう丸四年になる。はやとも、遅いともいえるが、時間についていえば、私は、もう二十八才の半ばを過ぎて、 私の第一の区切りである、三十才に、余り時間がないということで、いくらかあせるような、気分ではある。
 それ以外に、別に悩む程のことはない。
 私が、梶山家にごやっかいになる動機と、今日までの行動は、始めに書いたように、物書きになりたいという一つの目的のためである。 そして、その行動自体は、後悔することもないし、マイナスだとも思っていない。これまでやってこれたのは、途中、様々な、迷惑をかけたことや、 失敗があったけれども、何らかの意義があったものと思う。
 しかし、二、三カ月前であるが、梶山家での仕事が順調に行きそうもない時、先生が、ふっと、「橋本君、また当分、小説が書けなくなるな」と言われて、 私は、いく分救われた思いがしたことである。
 私は、余り器用ではないから、いや器用貧乏の方かも知れないが、仕事を中途半端にすることが、性格として出来ない。 ウソをつくこと、ごまかすことが、嫌いなので、誠心誠意、全身全霊を打ち込んでやっているので、夕方仕事が終ると、ガックリして、 一度に疲れが出てしまい、後、酒を飲んで、一見、陽気に、騒いではみるものの、己を殺して飲んでいるので、家に帰ってからは、唯、寝るだけである。
 しかも、睡眠が充分なる休息になるならよいのであるが、翌日の寝覚めは悪く、不快感が、朝からつきまとう次第である。
 その酒も、楽しい相手と、気持よく飲むというのならよいが、大抵は、自分で金を払い、ひとりで座をとりもち、別れると、 何でこんな馬鹿なことをしているのだろう、他人はこちらが思う程、何も思ってやしないのに、……全く、もったいない酒の飲み方である。
 話は、大分それてしまったが、昼間の仕事に、全神経を使っているので、もう夜になって、自分のこと、勉強、修業、いずれも、する意欲を失っているのである。
 これが、私が思う、気力のなさである。帰ってから、何かをやらなければと、いつも思っているのであるが、何となく疲れてしまい、 考えがまとまらず、ついつい安易な方向に流されてしまうのだ。
 結婚のことに戻るが、……結婚すると、男は駄目になってしまうとよく言われる。
 それは、今まで、仕事だけでよかったものが、家庭を、女房を持つことによって、もう一つの仕事が、増えることになるからだろう。
 つまり、どちらに比重をおくかによって、男として、いや仕事が大事な男として、社会的評価が決ってくるのだ。 いわく、女房の尻に敷かれることによって、本来の仕事、それに付随する諸々のことが、おろそかになる、従って、駄目になるという寸法である。
 今の私の仕事からいえば、自分の我がままを持ち込んでは、やっていけないのである。 つまり、女房、子供と仕事があっては、思う存分、力を発揮できないのである。 その意味において、私が今一人でいることは、ある程度条件を満たしてはいる。
 処が、それはさておいて、私が今現在、そういう働きをしているということは、とりもなおさず、将来、私が、物書きとして一本立ちするという前提のもとに、 自他ともに認めていることなのである。
 にもかヽわらず、私が、その物書きの修業を怠っているというのは、無気力、それと、今言った、一日の全精力を使い果たして、 もう何も残っていないという状態の二つである。 私が、若い女性(でなくてもよいが)と、二人で生活するということは、全く想像もできないことである。
 私は、きっと、面倒見がいいであろうし、心配性で、何事にも気を使い、かえって疲れ果てヽしまうだろう。 年上の人がいいだろうという人もいるが、同じことだ。甘えられる部分が多いという意味だろうが、神経を使うという点では、若い女性以上だろう。
 私は、もう、十年来、家庭というものの、有難さや、ごまかしや、いやらしさとは無縁で来たし、これからも、余程のことがなければ、余り縁がないであろう。 私は自ら苦痛を求めようとは思わないのだから。

 私は、今、本当に疲れている。半分は自分勝手の神経にまいっているのであろう。 そこで、帰るべき家庭があった処で、二日や三日の安らぎはあったとしても、それが、永久に続くものでもないし、 また他人に助けを求めてまでも、生きていたいとも思わない。 他人に何かを求めることは、その代償も覚悟していなければならず、わずらわしいことは、なるべくさけたいものである。

 私の肉体の管理者は、確かに私であるが、私の精神は、思考は、私の管カツであるより、誰か、正体不明の、余り有り難くないものの下にあるようだ。
 自分の本心を明かさないということは、ある程度まで来ると、苦痛となる。しかし、もう、その時は手遅れなのである。 今さら、私はこうなのです、といった処で、誰も信用しようとはしない。
 おまけに、私は、自分のことだけではなく、他人のことも、およそ頼まれもしないのに、自分の胸の中に納めて、外にもらさない。
 ということは、私は常に、仮面をかぶっているというか、本当の自分を出していないのである。 いや、本当の自分を出そうと努力している時もあるが、もう誰も、その時私が、そんな努力をしているとは考えてくれない。 冗談をいっているとか、ウソだろう位にしか思っていない。
 いわば、仮の私が、私であって、本当の私は、偽りの私でしかないのだ。いくら抗弁しても通らず、私は、心ならずも、仮の私の役を強いられ、 イメージづけられ、演技づけられているのだ。
 今や、私は、本心をさらけ出す場を与えられず、毎日を過している状態である。
 他人に、愚痴もこぼさず、他人の悪口も言わず、告げ口もせず、弱味をにぎっていても、吹聴せず、……男なら、それが当然なのだが、 今の世の中は、それでは、とりつく島もなく、逆に愛想がなく、お高くとまっていて、他人を小馬鹿にしているとしかうつらない。
 なのに、発言を許されず、一体、どうしたら、私も、俗人の一人だといわせてくれないのだろう。

 俗人になろうと思えば、通俗的なことに興味を示し、ちょっときれいな女を見ると、眼の色を変え、世間話をし、他人の悪口をいヽ、 お互いにお世辞を言い、腹を探り合い、後で舌をペロリと出すことを、英雄的行為だと思うようでなければならないのだろう。
 私には、とてもそんな芸当はできない。世の中、綺麗ごとでやって行こうとは、少しも思っていないが、要するに、出る幕がないのだ。 私自身、何も最後に笑うことを目指している積りはないのだが、いつも一歩、遅れをとってしまうのだ。 一歩遅れたとなると、二歩先に進むことを考えてしまう。後についていけばよいものを、と思うのだが、それができない。
 強い相手がいれば、ファイトもわくが、弱いというか、怜悧でない人には、目標もなく、つい空振りをしてしまうのだ。
 今、思いついたことであるが、私は何か強い目標がなければ、やっていけないのだろうか。 つまり、寄りかヽるというような処が、潜在的にあるのだろうか。
 私は、自分が、強い人間だとは思っていないが、しかし、いつも他人の後について行こうと思ったことはない。
 私が、未だに、鮮明に覚えている言葉に、こういうのがある。
 もう十年以上も前、テレビでやっていた西部劇での1シーン。ストーリーは忘れてしまったが、村に大事が起ったとき、長老が若い男に、 「まず、リーダーを探せ。いなければ、自分がなれ」というのが、それである。
 私は、何故か、その言葉が、ひっかヽっている。何も主役になるというのではなく、責任感と、統率力と、決断力を兼ねそなえている、 という条件を必要とするからだ。

 グチをこぼさないとか、他人の事を口外しないとか、弱音をはかないとかは、時には、かなり苦痛を感じることである。
 しかし、それに対する努力をいくらしても、他人は関知しないことだし、報われることは殆どないといってよい。 何故なら、波風を立たせないための努力であるからだ。
 しかし、そういう当り前のことをすることによって、他人との差が出来、扱いにくい人間にしてしまうのであろう。
 尤も、私から見れば、馬鹿なことばかりに、つきあっているだけの忍耐力も協調性もなく、それが、言葉のはしばし、態度に出れば、 相手も面白くなくなるのも当然であろう。
 不器用にも、力を抜くということができない。一つには、おいそれと、安心して他人に任せられないということにも、原因がある。
 私は、他人を信じない。疑うというのではなく、人間であるからには、どうしても信用できないのである。 つまり、その人の性格、行動、クセなどを考慮してみると、はっきり判るのである。
 こういうものは、一定の方向性をあらわす。それを見抜いてしまうと、後は簡単なのだが、私は、易者か、心理学者にでもなればよかったと思う。 あるいは、今キヨホウヘンの多い、コーチ業か、評論家になればよいのかと思う。自分はできないけれど、いっぱしのことを、勝手に言う商売である。

 自分は、いつもさめている。作家を目指すものにとって、几帳面(?)だとか、さめているとか、見通しが利くということは、マイナスなのではないだろうか。
 余りにも見えてしまうと、その先がないのである。それで、完結である。

 どうも、筆は、勝手で、困る。         (16枚) 1970.11.15 pm9-pm11.30 橋本健午


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