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「ミニ自分史」(100)「浪人生活の1年間」   2009・07・14

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 “好い訳”ないが…浪人の弁;生後100日目の記念写真を冒頭に、二つの小学校時代、高槻学園(中高6年) 時代の写真を整理してアルバムを作ったのは、1962年2月ごろだったか。
 その後半に、裏表2ページの“61年 浪人時代”があり、表には(1) 3/‐「川口市営競技場 外語受験のさい―」、(2) 4/5「仁徳天皇領、阪府大近く」、 (3) 5/21「京都向日町長岡天神近く」、さらに(4) 8/21「母校にて ウレイあるツラ構え」、(5) 9/23「(わが家の)白い夾竹桃」、 (6) 9/24「寂光院の渡り廊下にて 鯉をながめる…」という一人で写っているスナップ写真を適度にならべ、その間に短文を記してある。
 ア)私は外語に、現役でパスするかもしれないと楽観的であった。しかし、結果は逆であり、私は他の人に遅れて、もう一年受験勉強をしなければならない。 だが、考えてみれば、非常にめぐまれた試練ではある。
 イ)彼は今年、外語R語科を受けて、スベッタ。しかし、彼は落胆していなかった。そう、つまり、バカだったのかも知れない。4/5
 ウ)だが、私は思慮が足らなかったという以外、後悔はしていない。私はまだ負けてはいないのだ。4/15
 エ)この頭髪は、伸ばし始めてから百十日目のものである。私は予ビ校にも行かず、ヒマなものだから、こんなものばかり伸ばしている…((3)の写真の下に)。 (なお、裏面の“62年1月”は省略)

 もう一つ、4月16日(日)から始まる「ノオト・T/1961・4・16〜10・1 浪人時代 その一」には、次のようなことを記している (“その二”は1961・10・1〜1962・2・27)。
 私は受験勉強をする日々に運動する時間を設けたいと思う。私の体力は始めから大したことがなかったのに、 受験勉強と称して大分時間をムダに消化したのが、高II、高IIIの時代であった。 私の体はそのまま使わずに放っておくと、やがては取りかえしのつかなくなる程、衰えてしまうということを悟った。 私が浪人となった今、一番悲しいのはもう一年、自分の体を使わずに放っておかねばならないということである。 そこで私は決心した。私は日中ランニングをしようと思う。ランニングは私の好きなことの一つである。 日中走ろうというのは、私はよく人から顔色が悪いといわれ、私自身悲しいと思っていることで、よく日に当たり、 今よりも健康な体の持ち主になろうと念願している。それに、私は色々な誘惑に負けないで、規則正しく生活し、勉強しようと考える。 それこそ、浪人したということに意義があるのだ。私に課せられたものは、勉強以外にないではないか。今からでも遅くはない。 それが実行できれば、私は相当なものになりうるのだ。元気を出して、男らしく行動しよう。・・・・・

 現実は、どうだったか。
 上記の“決意”を記した16日…(名古屋から来た)T兄と(入院中の)姉を見舞う。その後、中華料理をごちそうになる。 また始めて、暗い喫茶店というのだろうが、“田園”に連れて行ってもらう。コーヒーをのむ。 ああいう暗くて空気の悪い、人種の分からぬような人間の行くようなところは、私の趣味に合わない。私はもっと明るく、健康的なところが好きだ。
 翌17日(月)…長兄夫婦、朝早く(静岡県在住の)母に面会に行く。私は一人でルス番、ゴハンを始めて電気ガマでたく。水が少しすくなすぎて、かたかった。
 その翌18日(火)…17日はまずコースを知るために歩いただけだが、およそ1時間はかかった。この日は、そのコースを逆に歩いたり走ったりした。 私は日中、太陽の出ているころを選ぶが、それは日光浴であり、日に焼けるためである。この日はjapanese slippersになれずに、足が痛くなった。 /二度目の夕食。私は野菜サラダをつくった。前よりうまくで来たが、何といってもこれ一つだけでは情けない。 機会があれば、もっとオボエたいものである。 9時前、兄夫婦帰宅。

 ところで、予備校に行かなかったのは、これ以上保護者(長兄夫婦)にあまり金銭的な負担をかけたくなかったからだが、 友人の通っていた予備校などの公開模試(主に英語国語数学)には出かけている。
 1)6・11啓学会、2)6・18O文社(旺文社)モギ、3)7・30全日本必勝モギ、4)9・3啓学会、5)9・9,10 KINKI(近畿予備校)、6)11・25,26 KINKIで、 後半の2回は世界史も受けていた。
 出来栄えは語るほどのものではない。英語国語はまずまずだが、数学は翌年に外語で必須となることを見越してだったか。 ともかく、数学は在学中からよく分からず、したがって勉強もせずという体たらく。
 その後は、母が実家などへ静養に出かけるのについて行ったり、創作原稿(「生きるべく道へ」)を書いたり、 母から幼児時代のことを聞いて「忘れないための自叙伝(未完)」に手を染めたり、運動と称して少し離れたゴルフ場付近まで歩いたりしたほか、 読書というより濫読をしていたのだった(浪人生活1年間に読んだ本など〈1961・4〜1962・2〉)。


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