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「ミニ自分史」(106)雑協との関わり(初期のころ、日記より)  96/4/14橋本健午(2009・10・20)

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82(S57)年

 10・01より日本雑誌協会に勤務(〜95・12・31)。 当初の説明に、基本給25万円、家族手当9千円(配偶者5千円、扶養家族1人につき4千円)、交通費実費とあり、 そして年間(ボーナス6か月含む)で460万円強と計算された。
 そして、“責任者”から「4月には10%アップとなる。3,4年で次長にする。海外にも行ってもらう」などという話も出た。 当時、前の事務局長が“高齢”その他の理由で退職し、次長が昇格したばかりで、「青天の霹靂」などという就任の“ことば”も業界紙に出ていた。
 当時、事務局は50代半ばの男女、30代半ば妻子のある男と独身の若い女性に、40歳の私を入れて5人である。 妻子ある男は、私に“先輩風”を吹かせる体育会系であった。
 その年8月、高校野球の取材整理で甲子園に詰めているとき、私が(オレに)断りなしに入ったと不満を洩らしていたが、 やがて、周りから私の“評判”を聞いたためか、勝手に私の“弟分”になったりした。 つまり、「あんな上司の下ではやっていけない。早く責任者になってくれ。俺はついてゆく!」なんていわれても、私には迷惑な話だった。
 彼をもてあましていた責任者は、入ったばかりの私に、「彼を躾けてくれ」というではないか。一瞬、私は「?」となったが、別に返事もしなかった。 というのも、それまで年配者が3人もいながら、何もできなかったのかという疑問と同時に、若いとはいえ妻子持ち、一家の主という自負もあろうから、 今さらとやかく言うべきではない、と思ったからである。
 もう一つあげれば、彼は酒にだらしなく、マージャンが強い?ようだった。 私の入ったころから、ゴルフとマージャンに明け暮れる責任者の仕事のいい加減さにも困ったが、4人目の面子として彼が加わった、翌日がまた大変だった。
 酒を飲みながら、彼は上司にお構いなく、勝ってしまうようで、負けた上司は、よく休んだり、われわれに当り散らすのが常だった。 私は彼に言った。「マージャンするのは勝手だが、ほかの人とやってくれ!」と。

1982(昭和57)年

 *6月下旬、拙著『父は祖国を売ったか』が日本経済評論社(日経評)より刊行される。
 *8月中旬ごろ、大学時代の友人に、後2年ぐらい今の仕事{3年前よりK社月刊誌編集部でコラムなどを担当}を続けて、 その間に何とかと話していた矢先のこと……。

〈8/22(日)〉
 2時ごろK社へ、目次の作成だが、長島{茂雄}インタビューが入るとかで変更あり、11時近くまでかかる。 /{元の先輩}Aさんよりtelあった由、何ごとならん。

〈8/23(月)〉
 朝、Aさんにtel、勤めないかとのこと。(社)日本雑誌協会の事ム局へ、突然の話でびっくり。考えまとまらず、条件はよいが……。 一度、事務局長に会う必要ありとのこと。
 タ方、A氏よりtelあり、明日telの後、会いに行けと (小学館N氏のスイセンの由)。 7時K社出社(目次出ず)、少時在社して、味知呑喰<飯田橋の小料理屋:私が命名>へ寄る。/タ方、赤い富士山がみえた(珍しい)。

〈8/24(火)〉
 1時に雑協、T事ム局長をたずねる。3時間話をきく。これからの人生を考えれば、たいへんありがたいこと(給料は25〜30万の由) /4時半K社出社、Iさん{前の編集長、私を引っ張ってくれた人}に諒解を求めようとしたが、忙しそう……(メモをおく)。 今回の校了はなかなかうまく行かず、深夜までかかる。タクシーで帰宅、1時半ごろ。

〈8/25(水)〉
 午前中、Iさんにtelすれども一日不在の由(多少イライラする、すべてはIさんにかかっているから)、K社出社、 4時半、リレキ書用紙を新宿で買いなおす(法令様式でないと書ききれず)。 7時ごろまで在社(校了最終日)、随想の第2次候補を書いて、T編集長のテーブルにおく、そのまま帰宅。/早く寝る。2〜3日、肩がこっている。

〈8/26(木)〉
 昼前、K社出社、Iさんに話す。そこへEさん{師(梶山季之)の葬儀の時、私を冷静だと認めた人}も来て、いい話だと……。 2時半すぎ雑協のTさんにリレキ書を届け、少々雑談、あてにされる。3時半、『ポスト』にAさんを訪ね、Nさんに会う。 『現代』の方もOKの由で、これで一応の根まわしはすんだ。K夫人の耳にも入れた。 /神田の古本屋を見て歩いて、7時に帰宅。なんとなく、どこにも寄りにくい……。

〈8/30(月)〉
 5時すぎK家へ、カードの整理と預かり(10時40分)。“大器晩成”とのこと、運勢にありという(ワイン1本)/午前中はひどい雨だった。

〈9/2(木)〉
 5時すぎ、待望のtel、T氏よりあり。面接は月・火の10時ごろ、小学館・鎌倉書房の二社長とのこと。 また、日刊現代のK社長にも私のことを問い合わせたところ、思想的・経済的に問題なく、スイセンするとのことだった由。

〈9/6(月)〉
 雑協で面接、10時40分〜約30分、小学館・鎌倉書房両社長。背広を着替えに帰ると、Tさんからtelあり。 明日、理事長(文春社長)、講談社会長に会いに行くとのこと。これで大勢は決まった由。まずは気分が落ちつく。

〈9/7(火)〉
 午前中、文春へまわり、理事長承認で正式決定。講談社に行く。会長にお会いしたあと、T氏は「もう逃げられないぞ!」という奇妙な発言をする。 Tさん(編集長)は不在で、明日に。(中略)夕方、Tさんよりtelあり、財務担当の理事(東洋経済新報社社長)と、9日午後会って、 報酬の件で打ち合わせ(早大OBの由)。まずまず順調に行っているようだ。なんとなく運が向いてきたらしい。

〈9/8(水)〉
 3時すぎ、I・T(編集長)会談あり、その後T氏より、惜しまれたが、諒承を受ける。随想など、後任がむずかしいとのこと。 目次についても、Iさん(編集部員)の心配あり。Iさんの「スカウトか」という話に、小学館の線であると答える。 /6時まえ、日経評のKさんに会いに行く。かなりちゅうちょしたが、転職を告げる。川上善兵衛(葡萄・ワインの生産者)の仕事は続ける約束に変わりなし。

〈9/9(木)〉
 給料決る。25万、ボーナス6か月で、年俸は466万ほど。4月定昇10%、1年後には事務局長裁量でアップもありとのこと。あとは仕事を見てもらうだけ。

〈9/11(土)〉
 午前中、大宅文庫へ、徳田球一関係の資料をコピーしてもらう(97枚)。帰りに千歳烏山で下車して、Sにケーキを買う。 /午後から、台風の影響で雨が激しくなる。/夜9時ごろ、名古屋の母よりtelあり、雑協への就職を喜んでくれた由。 S君{甥}はまたポーランドヘ行った由。

〈9/13(月)〉
 『現代』で最後の月である。随想5本入るには入ったが、1本は枚数不足、1本は随想にあらず、返却。 他の二人、それぞれの事務所がいい加減な対応をするので、かなわない。他は順調である。 /午前中、大宅文庫へ、ほぼ徳田の資料そろう(ただし、約2万円のコピー代)。

〈9/20(月)〉
 いよいよ『現代』(11月号)最後の校了作業である。6時半ごろ出社して、随想等を片づけ、“目次”に移ったのが、午前2時すぎ。 結局、終わったのは6時半。帰宅は7時15分で、SもYも起きていた。今までで、いちばん遅い帰宅となった。 /その前に4時、雑協、5時日経評へ顔を出した(アイサツのハガキのゲラを見る。24日出来の由)。Oさんにもte1をした。

〈9/22(水)〉
 校了3日目、夕食(会社近く)は編集部の若い人たちにおごられる……。“目次”について、Uさんから提案あり、当分続けることになった。 引継ぎは来週に、そして、目次はザンテイ的に毎月2日ほど、続けることになった。よいことか悪いことか。

〈9/24(金)〉
 4時雑協へ(T氏)、30日に来てくれとのこと。

〈9/25(土)〉
 DB社{ダイヤモンド・ビック社}のSさんよりte1、10/1,2の午後、テストの採点を依頼される。

〈9/28(火)〉
 3時〜5時半、K社。今日も引き継ぎ進まず、随想など適任者がいないとのこと、どうしてか。

〈9/29(水)〉
 3時〜5時半、K社。サイエンス、テーマ決り、あとは引継ぎのあいさつだけとなったが、これも明日に持越し。 Iさん、Nさんに声をかけてくれる。外でK常務にあいさつをする。/早目に帰る ワインを飲む(岩の原)

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〈9/30(木)〉
 雑協へ“初出勤”(10/1のふりかえ)昼食は近くの山の上ホテルのてんぷら(T,O氏{若い先輩、と{職員は男女とも二人ずつ})、 また、同じ建物の中の雑広、取次の人々にあいさつ。2時から“同一地域同時発売”に関する会議(O社長が委員長)、約40名の会員に紹介される。 その他、Tさんの訓示と、早々に会合などに出席するよう申し渡される。 /4時に出て、5時前、K社へ、『週刊』のSさんにあいさつ、他、『現代』の人にも、後は四日に。

〈10/1(金)〉
 10時雑協へ。となりの出版健保で健康診断を受ける。高血圧のケありと、10年後ぐらい。

〈10/4(月)〉
 9時半に雑協へ。いよいよ本日からスタートという緊張感はあるが、仕事の指示がないので困る。 出勤時間はまちまちであるし、昼食の時間、昼休みについてもはっきりせず。 急に2時半、公取へ行こうということで、Tさんについて行くが、要領を得ず。 Tさん、タクシーの中では休日中のゴルフの話ばかり、これにはまいった……。 /6時から、『現代』の人たちの送別会「四ツ谷の万世」で。Iさんも出席して、編集長からのことばもあり。20名ちかくから、お祝いまでもらう。

〈10/5(火)〉
 1O時半会議「景表法委員会」、終ったあと昼食が出る。事ム局の人間もお相伴にあずかることを初めて知った。 2時から「宣伝委」。これは私の担当らしく、議事録を書けというので、早速書いた。5時半になって、すぐ退社。1時間で帰宅。

〈10/6(水)〉
 9時半出勤、O氏は1O時ごろ出勤、T氏も似たようなもの、これはたしかに問題である。 11:30広告小委、12時広告委。昨日の昼食はうな重、今日は洋食弁当である。2時ごろ終ると、次はレジャー記者幹事会とやらで、また立ち会う。 広告委も議事録を書かされたが、前月のがまだ出来ていない由で、さっぱり要領がわからない。

〈10/7(木)〉
 雑協、少しずつ“やり方”がわかってくるが、なんともいい加減なところでもある。 いわゆる協会というのは、あまり賢くてもイケナイようだ。しかし、私がよばれたのは、単に手が足りないからではないだろう。 今日も会議があり、昼食(ちらしずし)が出る。ありがたいようだが、すぐあきるだろうし、昼休みがなくなるので、運動不足になりそうだ。

〈10/8(金)〉
 5時半には退社、電車はやたら混んでいる。また不平をいうと、Sは心配するが、今度は長続きさせるし、マイペースで行く。 どうやら、それが協会のやり方のようだ。平凡出版会長の葬儀告別式の電話連絡も、もう一工夫できるはず。口を出すのは、もう少し先だ。

〈10/12(火)〉
 9時半出勤、相変らずの出勤状態である。昼食のときに神保町の古本屋街で国語辞典と英和辞典を買い求める。 3時から取次協会の人たちと雑協側委員数人で会議。なかなかむずかしい問題である。 いずれも事ム局長から紹介されるのだが、毎回“40才”といわれるのには、閉口させられる。(返品率委)

〈10/13(水)〉
 12時、編集委員会(Iさん登場)、C{文春}社長も。1時間半ぐらいで終る。 そのあと、近くの山の上ホテルで、委員のNさん、Sさん、Oさんの三人(いずれも早大OB)とTさんとで、お茶を飲む。 早稲田出身ということはかなり役に立つようだ。3時から写真ゴルフ幹事会とか、とに角、ゴルフの話ばかりで、雑誌協会ならぬ“ゴルフ協会”の感がする。

〈10/14(木)〉
 3時半、販売関係の会議{沖縄輸送委}である(このとき私の紹介を忘れていた)。 /6時すぎに、食事のあと『現代』へ顔を出す、随想などの後をつぐのは女の子である(私の前任者もそうだった)。

〈10/15(金)〉
 今週も終りだが、相変わらず乱れている。Tさんは事務局長としての器であるかどうか疑間である。 午前中と、夕方6時〜9時、ずっと事ム局を切りもりしてきたTさん{女性}と話す。 かねて私が危惧していたことがかなりある。やっぱりかという気持ちと、これならいずれ自分の思う通りにやれるとも思う。 雑誌協会の事ム局の権威を高めなければならない。それは私の人間としてのプライドの問題でもある。

〈10/16(土)〉
 雑協へ入ってから、まだ半月しか経たないが、いろいろ考えさせられる。 いずれにしてもアセらないことだが、イライラさせられるのは、精神衛生上よくない。

〈10/18(月)〉
 1時半〜3時半、都の青少協・諮問図書類に関する打ち合わせ会に初出席(有楽町、交通会館4F)、取協のN事務局長と。 ずいぶんドギツイ、ワイザツな雑誌が多いものだ。1O点について指定(悪書として)止むなしという意見、コーヒーとケーキ。一種のセレモニーであった。

〈10/19(火)〉
 2時〜景表法責任者会議(40社ほど出席)に出る。そのあと、3時〜同小委があったが、事前に何の説明もない。 小委の席上で、H顧問より、公正取引協議会(新設するもの)の事ム局長に橋本さんがなってもよい……などと発言あり。一同シーンとしていたが。

〈10/20(水)〉
 11時役員会、12時例会で、また紹介される。これで主な会議が出そろい、少し気が楽になる。 これはT事ム局長も同じで、放心状態に近くなっている。6時から日本写真家協会賞のパーティヘ(東京会館)。 徳間のYさんに、昼に続いて会う。昨夜もそうだが、パーティでも余り気を使わず、飲むだけでなく、美味しそうなものを食べるよう心がけたい。 これからはこういう機会が多いだろうから、自分を守らねばならない。

〈10/21(木)〉
 本日は会議もないとなると、女の子は休むし、男の子は寝坊したとかで11時ごろ慌てて出社、T氏は10時半だが、仕事に身が入らず、全くひどい事ム局だ。 明日ゴルフに出かけるのがよほどうれしいらしく、気前よく男の子に、5時ごろなのに、一人残っていた写真関係の男と食事をするように指示。 これは公金横領に近いことだ……。/夜9時すぎ『現代』へ、校了初日アドバイスに、2時すぎまで。タクシー(4,710円)で帰宅

〈10/22(金)〉
 12時からダイヤモンド社10Fで、著作権研究会(昼食つき)に出席、中座して公取の公聴会へ、1時半〜3時半(K,A,O氏らと)出席。 帰途、A氏らの話でも、事ム局長の態度がかなり問題になっていることを知る。 6時〜週刊誌二十二日会(新宿)に出席、深夜帰宅。席上、平凡出版のHさんと話す。 事ム局長の件ではみんなの考えていることは同じだった。集英社販売のOさんには十八年振りに会う。テレビガイドのSさんと三人で飲む。

〈10/25(月)〉
 初給料日、目出度いハズだが、何の感興もない。困ったことだ。相変わらず、方針のない人である。 それでも勤まるのだから、いい加減なものだが、私はそうは行かない。入った以上は何か意味のあることをやらなければ……。 人の使い方を知らないのでは、人の上に立つべきではない。

〈10/26(火)〉
 もう腹を立てないことにした。若い人たちと話したが、言っても始まらない由。 昼は会議で、外へ行く。夜、歓迎会{大文字茶屋}でH先生と一緒に事ム局員と。まあまあの会で、気分は悪くなかった。 後でH先生の言に期待できるものあり、O社長と同期生とか。半年ぐらい何もしない方がよいとのこと。気永に行こうと思う……。深夜帰宅。

〈10/27(水)〉
 昨夜の酒が残った。本日は会議で、一日中忙しかった。1O時公取の件は、慌てて本人が出かけたようだ。 少しおどかしたのが、利いたのか? 昨夜、歓迎会でみんなと飲んだので、私も少しは気分がほぐれた。

〈10/28(木)〉
 会報を今月中に書き上げろという。私には無理だと思われるのだが、何もやらずにいるのも大人気ない。 それなりに、ベストを尽くせば、文句は言えまい。いずれにしても、敵にまわすより、プラスの評価をもらった方が得なのだから……。 翌日、ゴルフに行くのがとてもうれしいらしく、気もそぞろである。

〈10/29(金)〉
 午後から出版会館へ行く、図書コード委員会{実行委}など面喰う会議ばかり。書協の事ム局長に紹介してもらうのも、取協の人任せ。 これでは相手も面白くないだろうし、私も面白くない。会議に二つ出る。今月もこれで終りかと思うと、長かったような短かったような……。

〔とりあえず、ここに抜き出したのは、雑協への誘いから勤めて1か月の日記や手帳に記したものからである。 95年12月末に辞めるまでの13年余に毎日起こることのほとんどがここに現れており、また私の感想も変わらない。 ある意味では、もっと状況は悪くなっている。それにしても、よくぞ長々と辛抱したものである。 /そのまま修正もせずに書き出したのは、少し能がないのではないかと思うが、お許しあれ。〕


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