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「ミニ自分史」(108)大宅壮一東京マスコミ塾 2009・11・17

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大宅壮一東京マスコミ塾

2009・11・17

 ある方から古いことを尋ねられて、ちょっと調べてみたものがある。 それが、どうした?と問われても、答えようのないことだが、次のような次第である。
http://www002.upp.so-net.ne.jp/kenha/oubo.html

 私は若いころ(24歳)、大宅壮一東京マスコミ塾の第1期生(1967年1月開講)として、 多くの講師からマスコミあるいはジャーナリズムに関する講義つまり“薀蓄”や“ノウハウ”を聞いた。 その入塾前の面接や卒論などについては、すでに本HP上で報告してある(大宅壮一東京マスコミ塾)。
 マスコミ天皇とまで呼ばれた“毒舌”評論家大宅壮一(1900-1970)が、この塾を思い立ったのは一人息子の病死がきっかけで、 自分の後継者を広く世に求めようとしたためといわれる。
 同期の受講生は老若男女合わせて50〜60人もいただろうか。職業はさまざまで、銀行員や元自衛隊員、現役の新聞記者に画家志望やカメラマン、 すでに名のあるテレビ関係の人もいる一方で、学生や主婦もいたようだ。 卒塾して、希望通りマスコミ関係に仕事を得た人もいたが、何となく受講だけで終えた人もいたらしい。 中には、“街の評論家”として従来どおりのひねりの利いた文章の冊子を出している人もいた。 初回だからか、あるテレビ局がスタジオでも“講義風景”を2度にわたって放映したものだ(録画)。
 私はといえば、その後それらがどの程度役に立ったのか定かではないが、出版関係を含め、何となく“もの書き”の延長線上の仕事をしてきた。
 この塾は、4ヶ月を1期として8期まで続けられた。67年に1〜3期、68年に4,5期、69年に6期、70年に7,8期で終っているのは、 塾長大宅壮一が亡くなっているからだ。その後、エキストラ版として第9期もあったようだが詳細は知らない。

 ところで、その死の直後には、衝撃的な事件が起こっている。1970(昭和45)年11月22日、大宅壮一死去(70歳)。 その三日後(11月25日)、作家三島由紀夫が市谷・自衛隊内で割腹自殺(45歳)。 そして、11月28日、大宅壮一の葬儀となるが、このころから何か事件が起こるたびに「大宅先生が生きていたら、何と評するだろう」 という言葉が多くの人の口から漏れたものだ。
 どこにでもできる大学を評して“駅弁大学”、テレビの出現で日本人は“一億総白痴”などと、新語づくりの名人といわれた大宅壮一だが、 周りにはそれほど“口達者”なものはいなかったようだ。

 さて、人は群れたがる、ものだ。よくあるのは同窓会であろうか。この塾生たちも例外ではなかった。 ここでは大宅壮一関係と、同マスコミ塾生の集まりを見てみよう。

1971/11・22大宅壮一の一周忌(私は受付係の一人として、会場ホテルの受付に立つ)
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1973/11・17マスコミ塾同窓会(小洞天)
1974/12・13マスコミ塾同窓会
1975/11・22大宅まつり(新宿東宝会館B2Fスナック ばっかす・会費3,500円)
1976/11・22壮一忌(新橋第一ホテル・会費5千円)
1977/11・22第3回大宅まつり「梶山先生も偲んで」(新宿・三井クラブ5,000円)
1978/11・22マスコミ塾OB会(三井クラブ5,000円)
1979/11・22大宅まつり(新宿三井ビル54F:6千円)
1980/11・22大宅塾同窓会(住友三角ビル52 F:7千円、『熱球のポジション…』見本10冊持参
≪1981/11・22昼:わが母の喜寿の祝い(家族で名古屋へ) /夜、田無寮OB会(岐阜)泊≫
1982/11・19大宅文庫菊池寛賞受賞祝賀会(新橋第一ホテル8千円)
1983/11・12お墓のある瑞泉寺(落慶法要・墓参、梶山親子と大宅夫人に会う)
1984/11・22大宅壮一東京マスコミ塾同窓会(新宿・三井クラブ8,000円)
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1986/11・22第17回大宅壮一を偲ぶ会(新橋第一ホテル1万円)
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1989/11・21大宅マスコミ塾同窓会20周年パーティ(新宿ワシントンホテル1万円)
1990/11・20大宅まつり(没後20年、新宿三井ビル54F)
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2005/10・19大宅昌さん白寿の会(原宿・南国酒家5,000+2,000円)
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2007/7・24大宅昌前(大宅壮一文庫)理事長を偲ぶ会(原宿・南国酒家)

 この間、塾長大宅壮一が亡くなって10年目、1980年の命日(11月22日)に出した追悼文集『大宅壮一は生きている』がある。 発行は大宅壮一東京マスコミ塾同窓会とあり、1〜8期の呼びかけ人11が名をそろえている。
 この種のものには、たいがい“顔を出す”私だが、わが師梶山季之の関係として名前が出ているだけで、寄稿はしていない。
 その後、「大宅塾、今マスコミにカツ/開塾20年、卒業生イベント」という見出しのもと、 「マスコミは無秩序に巨大化し、拡散し、細分化し、専門化してしまった。肥大にともなうひずみやゆがみもいたるところに見受けられる。 /この状況に切実な危機感を覚えた卒業生たちが、何らかのアクションを起こそうというわけだ。…」 (読売新聞1987・3・6夕刊)などという動きもあったが、どのような仕儀となったかは、私は知らない。
 (これを書いた記者の「ひずみ」「ゆがみ」と同義語をならべる日本語感覚は、大したものではないか。 まさか大宅マスコミ塾の卒塾生ではないでしょうねえ?!)

 さて、ご覧のように、欠席はかなりある。 他の予定と重なる場合は止むを得ないが、何となく行きたくない、ということもあったのではないかと、今にして思う。
 もっとも、最後の2回は幹事だった人たちはじめ懐かしい顔を見出し、やがて初対面の9期の人が集まるテーブルにすわり、歓談したものである。
 05年のとき、大宅夫人は車椅子だったが、なかなか会が始まらないのにじっと待っておられた。 どうしてなのかと思っていると、やがて現われたのが先日亡くなった森繁久哉だった。


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