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「ミニ自分史」(11)「マラソン」

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 短距離走は苦手で、小学生のとき運動会で賞をもらったのは1回だけ、たしか障害物競走のときだった。 5年生のとき、学校の外に出て、少し遠くまで往復する"マラソン"では、1位にはならなかったが、 何とかやれそうだという感触をもった。いわゆる、ウヌボレというやつであるが、その後、中長距離は人並みに走ることができた。

 中1から、大阪・茨木市に移った。学校は隣の高槻市にあった。通学時に電車では座らないこと、駅から校門まで走ること、 冬でもオーバー・手袋を着用しないことを厳命する校長が率いるスパルタ式、男子ばかりのこの学校に、中高の6年間学んだ。

 初めての運動会。トラックを7周半する1500メートルでトップだったが、小さいものが早いとはだれも信じず、 もう一周走らされて、順位は大いに下がった。事前に自宅近くの堤防を何度も往復して練習していたのにと、がっかりさせられた。 その年、冬の校内マラソンでは10位以内を走っていたが、ゴールまであと1キロぐらいのところの大きな国鉄の踏切でストップさせられ、 38位になってしまった。これも悔しかったが、2年では7位と躍進している。

 少し話はそれる。この04年夏に出た柳美里の長編小説『8月の果て』は、長距離ランナーだった祖父のことを描いている。 そのなかで、呼吸音「すっすっはっはっ」が多用されて、朝日新聞に連載中"原稿料"問題まで起こったそうだが、 私も走っていたとき、だれに教えてもらったか、この「吸う吸う吐く吐く」という呼吸法だったことを懐かしく思い出したものである。

 中学3年。校内マラソンの距離が伸び(11.3キロ)、陸上部のU君と最後まで並走し、走りながら彼からアメ玉をもらっていたが、 校門に入る直前に「走るぞ!」と断って、ついにいちばんでテープを切った(51分03秒)。彼との差はわずか02秒であった。
《参照…(91)「校内マラソン大会で優勝(中3年)」
 日記に「昨年の運動会で1500メートルに勝って以来、中長距離は18戦全勝」とある。 この運動会では、1500メートル(1位、6点)と400メートル(2位、4点)にも出場し、10点を稼いだ。 クラスとしては仮装行列にも優勝し、総合で2位となっている。なお、マラソン高校の部べスト10には野球部が5人、 陸上部3人と両部が際立って強かったのは当然か。

 高1では3位となったが、学園新聞に「校内マラソン大会」という記事がある。
 「恒例の校内マラソン大会は去る13日、高校の部本校―水無瀬川(折返し)13.4キロ、 中学の部本校―水無瀬駅(折返し)11.3キロで行われ、高校の部では実力どおり陸上部の松岡君(2の2)が、 中学の部で白石君(3の1)が優勝した。/この日は前日とうって変わった暖かさで殆ど無風という好コンディション。 高校の部(3年を除く)は午前10時に、中学の部は5分後にスタートした。
 /一流の長距離レースになると必ずといっていヽほどペース・メーカーが出現するが、 本校にも高校の部では毎年そのペース・メーカーなる人物が出現する。今年もそのペース・メーカーが一人飛び出し、 ぐんぐんとピッチを上げたが、500メートルばかりの国鉄の踏切でバッタリ。

マラソン  /水無瀬川の折返し地点までは坂を上ったり下ったり、上牧の駅あたりではグロッキーになる者が続出した。 /中学の部の折返し地点(水無瀬駅)を過ぎる頃、沢・小西君(1年)がせり合い、約10メートル後方に第2グループが続いた。 第8関門(通過証明券引渡所)から橋本君(1年)がトップを奪い、水無瀬川の堤防を走り、産業道路に出て本校に向って方向転換。 その後橋本君は独走をつヾけたが、心臓破りの丘?(ゴール前約1.5キロ)とも思われる野田の坂にさしかヽった時、 それまで満を持していた松岡君が見るまに橋本君に追いつき、坂の前後4、500メートルで激しいトップ争いを演じた。
 /しかし余裕をもって走る松岡君にさしもの橋本君もついていけず、ゴール前1キロの地点では、両者の間は50メートルと開き、 こヽに松岡君の首位は確実となった。/ゴール前300メートル付近からの松岡君のラストスパートは素晴しく、 2位以下を200メートルも引き離してゴールインした。/松岡君の所要時間60分35秒は昨年の優勝記録を1分02秒も上回る好記録であった。 /写真説明 激しいトップ争いを演じる松岡君(1位、陸上部)と橋本君」

 ずいぶん詳しい記事と思われるかもしれないが、私はテニス部のほかに新聞部にも所属しており、 これは走りながら記事を作っていたことになる。つまりは、自作自演? であった。これだけ証拠がそろっているのに、 どこかで不正があったとかで、賞状・賞品はだれももらえなかったという、幻のレースでもあった。

 高2になるともう練習不足がたたり、運動会では1500メートル(2位)と400メートル(1位)という結果になった。 「すでに体力がなくなっていたのはオドロキであり、また悲しくもあった」と日記にある。 そして翌年2月の、最後のマラソンでは無残にも50位に終わった。

 中2から始めたテニスでは、殆ど成績らしいものは残さなかったが、冬の練習前、部員総出で毎回3キロ前後を走るのだが、 これは30連勝ぐらいしていた。
 心臓が大きかったからだろうか。インフルエンザが流行って、市の診療所で診てもらったとき、 風邪はともかく心臓は"運動肥大"といわれたことがあった。


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