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「ミニ自分史」(112)卒業 その1(賞状など)

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 おかげさまで、学校は小学校から大学まで行かせてもらった。 いずれも、さしたる勉強も努力もせずという“中くらいの成績”ばかりだったと、今にして思う。
 しかし、記録を見ると、小学1年のとき“修業の成果により”という賞状と“良く学業に努力し立派な成績を修めたから”と 水口賞をもらっている(水口さんとは学校医だったか)。
 父親は国語の先生であった。しかし、私は入学する前、アイウエオも書けなかったとは母の証言である。 もっとも、田舎の学校だったからの受賞であろう。まぐれだったのは、2年生のとき何も表彰されなかったことで分かる。
 3年生の5月、福井県から静岡県に転校した。 それなのに“成績が優良であった”と学校長の賞状と同時に“学術優秀にして品行方正眞に学校生徒の模範たるを認め”と、 浜名郡町村會奬勵規程に依り表彰されている。 しかし、他校の生徒とその父兄による記念写真に見る私は、まだ自信のない顔をしている。 多分、表彰の意味がよく分かっていなかったからであろう。
 4年生で初めて優良賞と皆勤賞をもらっているが、5年では優良賞のみ(欠席5日)、 6年では11日と欠席が多く(うち8日は3学期後半、私立中学受験で大阪府に移ったため)、佳良賞となっている。 代わりに、○○ちゃんが優良賞だったと、わざわざ大阪まで知らせてくれた女の子がいた。いずれにしても、小学校の卒業式には出ていない。
 ともあれ、「身体髪膚、これ父母に受く」との言葉を忘れず、大病もせず、ほぼ健康であったことは両親に感謝するところ大である。
 中学高校は、大阪の私立高槻中学校・高校学校に学んだ。男子のみの6年間一貫教育である。 この入学は“都会(大阪)”へ行くという単純な嬉しさや、その雰囲気に馴れるのが精一杯で、私を送りだす駅舎の影で泣く母の悲しみなど、 ずいぶん後まで分からなかった。
 小学4年の夏休み、茨木市に住む長兄夫婦に招かれ、2歳上の兄とともに大阪見物をしていたが、 まさか大阪の学校に行くことになろうとは夢にも思わなかった。わが家の家庭事情と長兄夫婦に子供がいなかったから、 将来は“養子”のような存在だったのかもしれないが、そんなことに頓着なく、大阪弁という“標準語”の世界で、 静岡なまりの私は当初、からかわれ(今でいう、いじめに遭っ)ていた。
 腕力もなく、気も小さいほうだが、いつの間にか慣れ、不登校にもならず、勉強は宣言するほどの努力もしていなかったと、再び反省する。 中学2年からテニス部に入り、また翌年に新聞部にも入り、いつしか学園生活を“満喫”していたように思う。
 テニスはからきし弱かったが、冬季シーズンには練習前に走る3、4キロの駆け足は仲間に一度も負けなかった。 2月に行われる校内マラソンも比較的上位を占め楽しいものだった(中学3年のとき優勝、高校1年では3位)。 体育祭では1500mに連勝したり、足は遅いのに400mでも1位になって、ポイント10点を稼ぎ、クラス対抗での首位に貢献もした。
 このころの日記に「……昨年の運動会の千五百に勝って以来、中長距離十八戦全勝である。」と記している。
 一方、勉学のほうでは、英語を除けばさほど誇るものはなく、理数系はからきしダメだったが、 なぜか中学1年(1学期)の中間考査では数学Iで100点を取っていたり、同3年でも理科100点とある。 前者は、「休んだ橋本が100点だぞ!」と、教師が他の生徒にハッパをかけていたのを覚えているが、後者に関する記憶はない。
 中学3年間の成績(平均点)は78.7と可もなし不可もなしであったが、高校では見るも無残で、さらに10点以上も下がって、 卒業時の席次は4クラス199人中114番とある。もっとも、英語だけは3年3学期にI-90点、II-92点とある。 しかし、私の英語力のピークは“受験英語”で終わっていた。
 だが、親しい友人は皆、成績30番以内と、何の自慢にもならない自己満足に浸りながら、浪人生活に入った。
 なお、中学3年間で精勤賞、高校では皆勤賞をもらっている。

 中学3年の日記に、私は次のように記していた。
 〔《 》内は後から入れた“追記”、[ ]内は同様に“修正”を示す〕
 3/3「最後の最後の試験美事に失敗。……十五日に帰省するときには友だちが一人できたようだ。」
 3/8「晴れの卒業式。無事卒業出来る。精勤賞をもらう。《私は、それだけしか能力がないのだ。》茶語会のとき、ヤカンをかくしたりしたが、話など別にしなかった。」
 3/9「小学校時代の通知表を調べていたら自分の欠点が書かれていたが、まだその欠点は治[直]っていないようである。早く治さなければならぬ。」 −−未だに忘れてしまって治っていないようだ。《しかし、なかなかムズカシイモンダイである。特にコトバに関して》

 余談だが、長じてから“表彰”されたのは、わずか2度である。
 その(1)34歳ごろ、当時勤めていた「日刊ゲンダイ」で、社内の配置換えというか、編集部や整理部などの机の並べ替えを命じられ、 コクヨだかの“配置”用紙を使って、並べ替えたことで、“社長賞”をもらった(金一封5千円)。
 その(2)53歳で職場を去ったとき(次項“その2(卒業式)”参照)、翌年早々、財団法人流通システム開発センター(DCC)より “流通情報システム貢献者”(個人)として、表彰を受ける(雑誌におけるバーコードの促進など)。


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