「ミニ自分史」TOPへ。

「ミニ自分史」(113)卒業 その2(優十生)

「ミニ自分史」(112)       「ミニ自分史」(114)


 小学校の卒業式には出られず、中学校の場合は、他校へ転出する者もあり、一応は行なわれ、記念写真も撮っている(3月8日)。 たいがいの者は、高校への進級も許可されており、気楽なものであった。
 ついで、高校の場合、大学受験のため、2月25日に卒業式が行なわれている。 しかし、このときの校長の式辞が、何か異様なものに思ったのは私ひとりではなかった(開校より20年間務め、その夏に辞職される)。
 そのことに関連して私は、当日もらった卒業アルバムの校長の写真のすぐ下に、その校長の印象を記した。 参考までに、その後(2004年)に、記したものを掲げておく。

 さて、一浪後に、大学はワセダに入った。希望した専攻(露西亜文学)の定員は50名だったか。 とにかく、狭き門であったが、私は1万人も採る(私学は定員より多く合格させる)のだから、落ちるわけがないと勝手な理屈をつけて試験に臨んだものである。 それまでの私は悲観主義者を決め込んでいたのだったが……。
 4年間の学生生活は、それなりに楽しんだほうだが、勉強する意欲は初期のころだけで、優等生には程遠かった。
 当時、就職難の時代であった。3年間で“優”の数が30あれば、就職の際に学内推薦を受けられるとかで、友人の一人は頑張っていたが、 結局29しか取れず悔しがっていた。一方、私は4年間で9つ。あと一つで“優十生”と嘯いていたが、3月31日に、 かつてのアルバイト先から電話をもらうまで、何も決まっていなかった。
 その前、卒業試験は、第二学生会館をめぐる早稲田騒動でなくなり、記念会堂での集会にも出たが、旗(のぼり)が林立して、前がなにも見えない。 そこで私は「ハタ迷惑だ!」などと叫んだりしたが、就職も決まっている他学部の連中も、ストライキだといきまいていたが、 せっかくの就職をどうするんだ、もっと冷静になれよと思った。
 「わいわい騒いで 大学の威信がなくなったとしたら 君たち自らの権威も 同時に失うのだ(1966・2・7ワセダ騒動の際に、仲間に手紙)」
 25年目のホームカミングデーでは、わざわざ教授連が正装(ガウン姿)で現れ、遅ればせの式典を行った(1990・10・21)。 後にも先にも「卒業式」がなかったのはわれわれのときだけだった。

 さて、人生の一つの“卒業”として“定年”というものがある。 私が務めていた団体は、一応60歳となっていたが、心身の疲れから“やる気”もなえてきて、53歳でやめている(1995・12・31)。
 その2か月ほど前、小学生の息子から、「定年て、何?」と聞かれ、「60歳で会社を辞めるとか…」と答える。 ついで、「お父さんの定年は?」とも聞くので、「自分で決めるのだ」と言っていた。

 余談1:数年前、あるところで同じ時代にワセダに入り、4年間“全優”だったという人物に出会った。 毎日、図書館に籠もり勉強していたそうで、当時のレクリエーションであるマージャンも知らなければ、ダンスもやったことがないと自慢していた?!  全優という言葉はよく聞くが、その当人に出くわしたのは初めてだった。どんな人物だったかといえば、“尊大”の一語に尽きるのだが。
 余談2:“定年”は近ごろ“60歳”が主流のようだが、これも解釈がいくつかあって、(1)60歳の前日、(2)60歳になる年度末、(3)61歳の前日、 などと聞いたのは私が月給取り生活を辞めるかなり前だった。


ご意見、ご感想は・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp