さて、一浪後に、大学はワセダに入った。希望した専攻(露西亜文学)の定員は50名だったか。
とにかく、狭き門であったが、私は1万人も採る(私学は定員より多く合格させる)のだから、落ちるわけがないと勝手な理屈をつけて試験に臨んだものである。
それまでの私は悲観主義者を決め込んでいたのだったが……。
4年間の学生生活は、それなりに楽しんだほうだが、勉強する意欲は初期のころだけで、優等生には程遠かった。
当時、就職難の時代であった。3年間で“優”の数が30あれば、就職の際に学内推薦を受けられるとかで、友人の一人は頑張っていたが、
結局29しか取れず悔しがっていた。一方、私は4年間で9つ。あと一つで“優十生”と嘯いていたが、3月31日に、
かつてのアルバイト先から電話をもらうまで、何も決まっていなかった。
その前、卒業試験は、第二学生会館をめぐる早稲田騒動でなくなり、記念会堂での集会にも出たが、旗(のぼり)が林立して、前がなにも見えない。
そこで私は「ハタ迷惑だ!」などと叫んだりしたが、就職も決まっている他学部の連中も、ストライキだといきまいていたが、
せっかくの就職をどうするんだ、もっと冷静になれよと思った。
「わいわい騒いで 大学の威信がなくなったとしたら 君たち自らの権威も 同時に失うのだ(1966・2・7ワセダ騒動の際に、仲間に手紙)」
25年目のホームカミングデーでは、わざわざ教授連が正装(ガウン姿)で現れ、遅ればせの式典を行った(1990・10・21)。
後にも先にも「卒業式」がなかったのはわれわれのときだけだった。
さて、人生の一つの“卒業”として“定年”というものがある。
私が務めていた団体は、一応60歳となっていたが、心身の疲れから“やる気”もなえてきて、53歳でやめている(1995・12・31)。
その2か月ほど前、小学生の息子から、「定年て、何?」と聞かれ、「60歳で会社を辞めるとか…」と答える。
ついで、「お父さんの定年は?」とも聞くので、「自分で決めるのだ」と言っていた。
余談1:数年前、あるところで同じ時代にワセダに入り、4年間“全優”だったという人物に出会った。
毎日、図書館に籠もり勉強していたそうで、当時のレクリエーションであるマージャンも知らなければ、ダンスもやったことがないと自慢していた?!
全優という言葉はよく聞くが、その当人に出くわしたのは初めてだった。どんな人物だったかといえば、“尊大”の一語に尽きるのだが。
余談2:“定年”は近ごろ“60歳”が主流のようだが、これも解釈がいくつかあって、(1)60歳の前日、(2)60歳になる年度末、(3)61歳の前日、
などと聞いたのは私が月給取り生活を辞めるかなり前だった。