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「ミニ自分史」(127)小学校の同窓会  (2010年9月12・13日)

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 母校が創立されて140年近くも経っているとは、最近インターネット(学校案内)で知ったばかりである。 正門近くにある名物の大王松は初代校長が植えたと、これも学校案内にある。
 小学校は二つ行った。福井県で入学し、3年生の5月に静岡県の岡崎小学校に転校したが、 6年の3学期、卒業式にも出られず、大阪へ行って、わけが分からないまま私立中学校を受験させられた。
 さて岡小、途中で出入りしたせいでもないが、2クラス70名近かった仲間の顔と名前は、さほど覚えていない。 多くは今もかなり広い学校圏内に住んでいるようだが、私は元々その地理にくわしくない。 彼らの話に、知らない地名が多く出てきて、いつもカヤの外である。
 この年齢(67,8歳)になると、男女とも没したものが多くなっている。 また欠席のほか住所不明も多いようだが、これはさまざまな事情があるだろうから仕方がない。 一方、老親の介護がすんでという女性はまさに“新顔”であった。
 数年おきに開かれ、今回は3年振りである。 初回は高校1年だった1959年の正月2日、2回目は翌年の同日、いずれも母校の音楽室を借りて開き、私は帰省がてら出席して、幹事の補助もやっている。 2回目のときはすでに働いている男が酒を飲んで、少し白けてしまったものである。
 以後、途絶えていたのかどうか。その後、私が参加したのは1986年のやはり正月2日であった。26年ぶりであろうか、44歳のときである。 (このとき会場が、母の昔の友人の住む街だったので、私は代わりにお会いした証拠写真を母に送ったものだ)以来、何回か参加しているが、精勤ではない。 多分、わが人生が不安定であったことによるのだろうと、今にして思う。
 今回は女性の数が上回った。遠くからの参加は酔狂もので、私以外にはいない。 その分“珍獣”扱いにも似て、男女とも色々話しかけてくれるのはあり難い。 しかし、私は相手の顔は覚えていても名前が判らない。 そこで工夫して、今回は小学校4・5年のときにガリ版で作った「学級新聞」(B5縮尺:裏表)と当時の動き(記録A4-1枚分)を少しずつ持っていった。 これらは「よく残っていたね」などと意想外に好評だった。
 初日の宴会は、記念写真に始まり、料理に箸をつけながら、上記のような動きのなか、 当時私のいちばん近くに住んでいたM君が舞台に上がって、芸者さんの真似をするなど踊り出したのには皆が驚いた。 それが“うまい”のである。道具も貸衣装も何もなし。座布団を二枚使っての一人舞台などは圧巻であった。 いつの間にか、それなりの人生を重ね、“芸”を身につけていたのだろう。・・・・・
 遅くまで、一つの部屋で2次会をやった。みな饒舌である。翌朝食事のあと10時には迎えのバスでホテルを後にする。 この直前、ある女性は「どうしても、(私のことを)思い出せない」と私の顔を見て言ったが、それはお互い様だった。
 さて、バスに乗らない私たち有志(男4女2)は車2台で午後、恩師のお宅まであいさつに行った。 80歳を超えたという恩師は奥さんともども、お元気だった。教師稼業は終わったが、今も毎日畑仕事に精を出しているという。
 かくて、浜松や豊橋に近い浜名湖畔、車がなければ二進も三進も行かないところで、私は親友に送り迎えされ、 楽しい思い出とともに、午後6時過ぎ、こだまで無事東京に帰ってきた。
 内緒話:恥ずかしながら、わが“パフォーマンス”もありました。 恩師のお宅近く、狭い農道で車を降りるとき、なぜか田んぼ(約1・5m下の畦)に落ちたのです。 幸い、皆さんに迷惑をかけることはなかったのですが、あちこち打撲で今でも“痛い”のです?! (おかげで、先の女性2人から“打撲痛”はいかがですか、という手紙が届きました。 ありがたいことですね、同期の“サクラ”は。オトコからは、何もなし?!)


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