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「ミニ自分史」(128)会合続く、わが特異日(2010年10月15〜17日)  橋本健午

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 高等学校の“創立70年記念”行事が同じ日(時間)に重なるだけでも珍しいであろうに、一つは私自身の、もう一つは息子の場合だが、 彼は用事があって出席しなかった。私は、前後に東京での“招待”行事等があることと、また現地(大阪・高槻)は遠いので、高槻往復は断念した。
 さて、まず15日夕刻の明日香出版社「第19回 著者大会」(霞山会館)には、めずらしく石野初代社長も顔を出した。 出版社が年1回“著者”を招待して感謝する会を催すのは、他に聞いたことがない。 識者の講演や業績の報告などもあるが、1年で数万部以上という売上げを記録した実用書などの著者を表彰するのがメインである。 私は一度もその栄に浴したことはないが、いつも案内状が来る。
 石野社長とは学生(田無寮)時代以来の仲である。 彼が夫人とともに会社を興した、ほとんど初期に拙著『200字あれば十分 らくらく文章ゼミナール ラブレターから小論文まで』(筆名:本橋 游1983・06)を出してもらっている(41歳)。
 筆名を使ったのは、前年秋から勤め出したからである。 その後、本名で同社から『わかりやすい仕事文を書く』(1998・01)、『言葉づかいとマナーが3時間でマスターできる本』2001・03)などを出している。 この社の書名の特長は、ご覧のように“200字”“3時間”等を謳った字数の多いものである。
 今は2代目社長である息子さんが頑張っている。聞くところによると、仕事熱心なところなど親父さんより評判がよいそうである。
 16日。上述のように“70年記念”行事はわが母校のほうをキャンセルし、息子のほうに出た。 招待されたのは、数年前、約1年間PTAの副会長をやったからであるらしい。
 元来“肩書”に縁のない人生を送っている私だが、ある日とつぜん、見知らぬPTA役員(女性)から電話がかかってきて、「役員になって欲しい」といわれた。 理由は「(担任の先生より)弁が立つから」などという、腑に落ちないものだったが、勤めも辞めていたので引き受けることにした。
 その当時の記録(報告)は次のような次第で、大した業績もないのに胸に“来賓”用のリボンを付けられ、大勢の関係者とともに出席した。

 参考《「ミニ自分史」(33)「PTAの役員として」その2

 その夏に、全国大会(神戸)に“官費”で参加、ピラミッド社会日本の現実を垣間見たものである。
 《(34)「PTAの役員として」その3「全国大会の報告」

 PTAは女性が多い組織だが、このときの会長は会社員(男性)であった。 私が1年ほどで辞めたのは、その会長の言動に幻滅しただけでなく、会長を“補佐”し切れなかった責任をとったためである。
 《(35)「PTAの役員として」その4「辞任について」

 話は戻って、“創立70年記念”行事への参加の状況は、冒頭で触れたとおりである。
 記念品は冊子などいくつもあり、なかなかの出費であったのではないだろうか。なかでも役に立ったのは“招待者”リボン。 次の、遅れて出席した会合で、なぜか名札のない私は堂々と「わざわざご招待をいただき……」というセリフの代わりに、それを胸に付けて挨拶をした?!次第。

 最後に、17日の早大ホームカミングデー、私は仲間数人に次のような“回想記”「学生時代の思い(怒り・悩み・喜び)など 2010・10・17 橋本健午」(A4-2p)を配ったところ、 それぞれ青春時代を懐かしんでいた。


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