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「ミニ自分史」(48)「休暇届」

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 "兄弟"法人の組合問題に危機感を抱いたのか、わが法人でも「就業規則」を設ける話が持ち上がった。
 昭和61年4月下旬、恒例の通常総会が終ったのち、懇親会の席で理事長がわれわれ事務局員を前に口にしたのが最初ではなかったか。 それまで、就業規則がなかったことも問題だが、それほど旧態依然とした、少人数の事務局ではあった。
 紆余曲折があった。数人の事務局員は制度化に賛成なのだが、いちばんうろたえたのは事務局の"責任者"だった。 こういうとき、すでに管理職として適用される項目が少ないと考えるならば、多少世間を知っているといえるが、 彼の場合はまるで違った。反対!というのである。
 なぜか。これまで常習化していた自らの遅刻・早退・ズル休みの実態が白日の下にさらされる、と思ったからであろう。 その証拠に、それから数か月、(始業時間の)9時半ごろに出勤し出し、また退出も定時(5時半)前の場合には、 その"事由"を書いたメモを、部下にタイプで打たせ、月ごとの出勤表を理事会に提出するという慌てぶりだった。
 しかし、だれもそんなことを詮索はしなかった。よその就業規則を参考に、担当の委員会で検討され、その説明を兼ね、 われわれ当事者の意見も何度か聴取された。要は組合対策で、規則の適用は「"責任者"は除外する」と、ほぼはじめから謳われていた。 いま定年は60歳が普通だが、当時の有力会員だったA社のそれが、55歳だったため、それに合わせた規則が発効すれば、 その年齢を超えていたその責任者は"クビ"になってしまうからだ。
 解釈の問題などで、若干の希望も考慮された。上述のように、当初の定年は55歳で、責任者以外にもそれに該当する人がおり、 すぐに退職となっては業務に支障をきたすと思ってか57歳に引上げられ、最終的には60歳に落ち着いた。

 そして、タイムカードが導入された。時間外勤務表や休暇届も作られた。いずれも当然、責任者は除外である。
 まず、私は比較的パンクチュアルなほうだが、それ以上に日本の交通機関は正確である。 したがって、タイムカードの出勤時間は、日々ほとんど誤差がなかった。「時間外勤務表」は、とりあえずつけたが、 細かな数字を計算するのが面倒であり、名目だけでも"役職手当"がつくようになると、請求するのは止めてしまった。
 問題は休暇届である。「"責任者"殿」あてのそれは「下記の日時に休暇をとらせていただきますので、よろしくお願い申し上げます。」とある簡単なものだが、 「事由」の欄に"私用"と書いて出すと、これではダメだ。「あとになって、理由が分からないといけないから」もっと詳しく書けと、責任者はいう。
 書類は「"責任者"」あてである。その職責にある本人以外に、「あとで…」などという必要はない。 その時点で、彼が「イエスかノー」の判断をすればよいものであって、後生大事にとっておくものではないだろう。
 当時、私の母は一人で名古屋に住んでおり、62年6月から老人施設の世話になり、やがて系列の病院に入退院を繰り返していた。 その間、ほぼ月に一度、名古屋を往復したが、一泊か二泊のときには協会報の原稿を書くため、その資料を持参していた。 仕事時間中にはほとんど書く時間がないからである。
 私は分別のない人や常識のない人に逆らうほどのエネルギーを持ち合わせていなかったから、それ以後「私用(名古屋、母の見舞い)」と書き続けた。 あとは「暑中休暇」くらいだが、これには"理由"を書けとは言われなかった。
 先にもふれたが、上司が世間を知らないというのは、下のものにとってたいへん迷惑なことだが、そういう人物が君臨しているのは、 どうやら世間では特殊ではないということもその後知った。


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