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「ミニ自分史」(49)「わが日記」

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(承前)
 昭和61年6月25日(水)給料日を待ち構えていたように、S君が辞表(口頭で)を提出した。 上司は寝耳に水というから、いかに(たった5人の)部下を掌握していなかったかをバクロしている。 理由を聞いてもはっきりしたことを言わないという、当たり前だ。 慰留するのに、「タダでゴルフができるのだから」などというセリフは、私には吐けない。

 61年6月26日(木)上司、S君を引きとめようとしたが、7月一杯でやめるという気持ちに変わりはない。 私に八つ当たり(タクシーの中で)、不快であったが、反論もした。

 61年6月27日(金)昼ごろに上司に呼ばれて、なぜS君のことを事前に知っていて慰留しなかったのかという。 個人の自由だと答える。(夏の高校野球の取材調整のため)甲子園に行く気はないかというので、ないと答える。 出倫協も今のままではとても引き受けられないと、重ねて伝えた(書協から事務局移管の件)。
 【S君が、私に話したのはかなり前である(神保町・八千代)。勤めて2年余、25歳になる直前で、彼はいった。 「もうぼくも年ですからねえ」と。私の日記に「6月3日(火) 夕方、辞めたいというS君の話を聞く。止める理由なし」とある】

 61年7月11日(金) 朝(出勤後、上司に)、別室に呼ばれ、キミのことを調査したという。 これにはア然としたが、バカにつけるくすりはない。私が組合運動でもしているとカンぐったのだろうが、見当ちがいも甚だしい。 こんな人間の下にいるかと思うと、情なくなるが、私には使命がある。もう少しの辛抱だ。

 62年5月18日(月)自分の保身、あるいは私怨などで動くところに、またそれでも擦り寄ってくる人物を信用するところに、 人間の弱さがあり、正しいことの判断を狂わせるものがあるようだ。…深入りはしないほうが得策である。 意見は求められるまでは差し控えることだ。

 62年6月2日(火)午後のミーティングというか、上司からまたまた就業規則の申合せ事項について変更あり。毎月続くのでは?  経営者の考えは、できるだけ金を出さないということだが、あまり締めつけると、望まなかった"組合"ができるのではないか?!  私に役職をつけるという話を匂わせていたが…(1日に、"次長"らしき役職をつけるというような話が出たようだ)、 私としては大いに悩むところである。よい補佐役がいないと、安心して任せられないのだから。

 62年6月5日(金)気になっていた1日のお偉方との話し合いについて、副委員長に確認のtelをする。 案の定、上司はかなり捏造して私に話をしていた。私に後を任せる気はなく、ただ少しはニンジンをちらつかせて、 反応はどうかとうかがい、残業代を出したくないというだけ。彼は単なる"現場監督"なのに、余計な心配をする人だ。

 62年7月1日(水)今年も後半に入った。雨、しかし水源地のほうでは、ほとんど降らない由。 上司が夕方近く、みなを集め、人事の発表の由。3人を主任にするとのこと。辞令は明日以降とか。何の感慨もなし。 名刺に肩書として入れ、大いに活用しろとのこと。意味のないことだ。人員を増やす考えがまったくないのだから、困る。 明日、胃がんの検診。バリウムを飲むため、9時以降は食事等できず、何となく食べ過ぎの感じ。明日は名古屋、あさっては大阪である。

 62年11月2日(月)管理人のHさんが眼底出血のため、身の振り方の相談に乗ったと、上司がわざわざ私に告げた。 あとでHさんに確かめると、私が組合を作ろうと誘ったのではないかと聞かれたという。 要するに、51歳の男を入れて私を追い出そうと、かつてのOを辞めさせたときと同じような状況になってきた。 何かといやな毎日だが、表面に出ているものでもなく、騒ぐわけにも行かない。私は私の仕事をするだけである。

 62年12月25日(金)新人N氏の入院という事態で、上司は大慌て。Tさんを呼んだり、私を呼んだり、 要するに3ヶ月の試用期間内で決着をつける問題と言い出した。 "最強のスタッフ"といったのは、つい先日のことではなかったか。喘息持ちで、天眼鏡を必要とするような人を、 ダボハゼではないが、よくも食らいついたものだ。力量のないことは分かっていたが、これほどひどいとは…。

 63年2月1日(月)東販のO業務部長は、(雑誌バーコード問題に関連して)私がまだ5年余の勤めというと驚いていた。 そういう意味では、身近な者にとっては、心中おだやかではないのかもしれない。別に出来すぎとも思わない、 他の程度が低いだけでは…。


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