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「ミニ自分史」(59)「"講師"という仕事」その1

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 若い男女を対象の講師業は、95年秋から始まった。その年末まで勤めていたが、夜間の講義だったので"両立"したといえる。
 95年10月から96年4月、ついで96年5月から97年3月まで、私はあるところで、 「雑誌編集科」および「マスコミ科」の専任講師を務め、おもに出版事情と文章指導を受け持った。
 それは、出版大手K社に勤める友人の勧めによる。なんでも渋谷にある専門学校での空き教室対策ということだったらしいが、 私に"教える""伝える"場を提供してくれたのは、ありがたかった。
 しかし"より多くの社会人と学生のキャリアアップを目的とした"いくつもの講座を用意したその"学校"での講義は、 週2回・6か月・40回という長丁場である。多岐にわたる"出版事情"を私一人で対応するのは無理なため、 あらかじめ若い友人Nを誘い、また現役の雑誌編集者Tや書籍出版社のK社長、広告会社OBなど数人に特別講師として手伝ってもらうことにした。
 受講生には現役の大学生もいたが、勤めながら編集の勉強をしたいとか、出版社志望という男女が集まってきた。 しかし、文章を書かせると、たいがい苦手としており、終いには「先生に年賀状を書きたいけど、添削されそうで書きそびれます」などという女性もいた。 また、原稿用紙のマス目を埋めるのに難渋する男性が「ぼくは 今日 渋谷に 来るとき 」などと"分かち書き"をしていたのには、 あきれるより同情したものだ。総体的に"地味"というか"引っ込み思案"のものばかりで、他のコースたとえば「マンガ」の連中は陽気で明るかった。
 やがて、私たちが担当したコースは、「マンガ」や「シナリオ」「放送タレント」などの人気コースとはちがって、 受講生が二桁をこえることは少なく、やはりジリ貧となっていく……。
 二期目には、元学校の先生だったという宇都宮から通う、私より年配の方もいた。放課後(9時前後)は遅い夕食というより、 飲み会になることが多いのだが、何度か途中まで付き合ってくださった。私は修了のときに"名入れ色紙"を贈呈して敬意を表したものである。
 飲み会では、先生と生徒の区別はなく、よく食べよく飲んだが、トマトが苦手という若者に初めて出会って不思議に思ったものである。
 新宿に繰り出した時、地方出身のK君は気取って私に「タバコ、吸っていいですか」と聞くので、つい「ダメ!」と言ってしまったのは気の毒であった。 彼は気のいいやつだったが、早とちりもあり、出版社の求人と思って応募したところ、広告会社だったということも年賀状で知らせてくれた。
 若い人たちは、私のことも鋭く観察していた。ある仲間の女性が結婚するので、私に案内状を送っても、「先生は絶対出席しないわよ」と断言するものもいれば、 また携帯電話の流行りだしたころで、「先生には似合わない」というのも当時は"正解"であった。
 ところで、私はあるとき、他のコース生の作文も見せてもらった。その文章表現や漢字の誤用や誤字だらけに出会い (「黒人」→「国人」、「移民の都市」→「異民の都市」、「根性」→「恨性」など)、これは何とかしなければと思った。 そこで、みんなでテキストを作ろうということになり、96年8月中旬、私やコース担当者を含む男女7人が、 その名も「編集者養成セミナー」とうたい、山中湖畔に2泊3日の合宿を行った。 もっとも、花火遊びや昼寝などで大半の時間を過ごしたが、その成果は拙著『わかりやすい仕事文を書く』(明日香出版社1998・01)となって結実した。
 余談(1) 拙著に関し「文章を書く機会が多いので何か参考書と思い、本屋さんで目に止まったのです。 内容が大変気に入ったので勉強したいと思います。」と愛読者カードに記してきたのは、習志野市に住む72歳の男性だった。
 余談(2) この合宿のしばらくあと、同校の最高責任者の自伝を書いてくれないかという話まで飛び出した。 とりあえず、その秘書(女性)と打合せをする段になったとき、それまで私につっけんどんだった事務長(女性)から、 "お中元"を渡されたのには驚いた。掌を返すというか、サラリーマンの"悲しき習性"というべきか。 しかし、この話は沙汰止みとなっている。
 そういえば、私は日ごろ講義の前、2階のせまっくるしい講師控え室を知らず、1階ロビー脇の応接スペースで、 待機するのが常だった。コピーするモノがあれば、自分でするということを終わり近くまで知らなかったのである。
 余談(3) 96年9月、名古屋の母が亡くなったとき、あろうことか、この専門学校の校長名で、花輪が送られてきた。 とんでもないことと思ったが、先の"自伝"の話が進行中のことでもあった。帰京して、せめてもと私は秘書と担当者に食事のお返しをしたが、 このときも秘書嬢はワインを2本、持参していた……。

  キャリアスクール・ファーレ 95秋季講座 雑誌編集コース(95/09/26)本橋 游
  コース説明(原稿…ワープロ打ち〈東芝RUPO〉)
  ◎自己紹介 本橋 游(もとはし ゆう) ペンネーム
  *(サンズイ、「遊」とはちがう。およぐ、あそぶ―ひと所に定着しない意を含む)

 *約30年前のこと、大学在学中はマスコミ志望で出版社等のアルバイトをした(販売関係)。卒業当時は今と同様の就職難、 新聞社・出版社など3つほど受けたが、見事に落ちる。
 *しばらく、ある社で辞典編集や書籍の仕事(嘱託?)をしていたが、社内の二人の女性から同時に好意を持たれ、 私の人生の目的は、そんなところにあるのではない! 小説を書くんだと故郷(大阪)に帰った。 (現実は、すでに好きな人がいたのです。)
 *原稿もいくつか書いたが、寝転んで岩波書店の『漱石全集』などを読んでいたところ、2か月程して東京に呼び戻された。 ある作家の事務所が人を必要としているという。
 *何年かそこにいて、取材で飛び歩いたり、出版社・編集者との事務連絡などをやっているうちに、自然に人脈ができた。 これが、今日の財産となっている。
 *やがて、日刊ゲンダイの創刊に加わったあと、しばらくしてフリーとなって友人と編集プロダクションを作ろうとしたが、 そのボスに反対されて、計画は一頓挫。世の中は善人ばかりではない、と悟る。(幾つになっても、男には嫉妬心があるもの。)
 *その後、ノンフィクション物の原稿を書いたり、月刊誌の編集(定期物のコラム、取材と執筆)に携わる一方、 文庫本の解説や北海道新聞・読書欄のコラムを執筆したり、文章に関するものや漢字関係の本など、何冊か出版した。 (見本―日本能率協会からの『実践 短文の書き方』、この本で、言いたかったのは、200字の文章が過不足なくかければ、それで十分。ということ)

 などなどで、本日ここに皆さんの前に立って、雑誌の編集についての講座を開くというわけである。

◎指導方針
 皆さんは、一応マスコミ志望であり、できれば出版社に入り、編集の仕事をしたい、と思っているだろう。 編集の仕事とは、どんなものかを知りたい、あるいは自分に向いているかどうかも知りたい、と思っていることだろう。

 この受講料(15万円)が、高いのか安いのか、私には分からない。皆さんの考え方次第ではないか。 あなた方は、編集のことを知りたがっている。……そういう方たちに、編集実務はもちろんだが、出版社、 出版界(作家、カメラマン、イラストレーターなど人ばかりでなく、印刷や製本、流通など)の実情も教授して、 自分の進む道の選択の指針となればと思う。

以下、◎講座内容 ◎課題内容と課題数 ◎本科と研究家の相違点 ◎教材・テキスト等 は省略。

<最後に>
 何ごとも興味をもって、楽しくやらないと身に付かない。
 興味をもつというのは、人それぞれだが、いろいろ違った見方がある、当てる光によって輝き方も変わってくるということを知るべきである。
 "個性"と"独り善がり"は異なるもの。相手を認めるところから、展望が開ける。

 私自身、上のような若い人に向けてものを書くときでも、常に自分も勉強だと思ってやっている。 ここから話をするが、皆さんのちょっと先輩だという気持ちで、接するつもりである。どうぞよろしく。

[これは、9/26、10/13の2回にわたり、雑誌編集科を希望する計25名の若い男女を前に話したものである。95/10/22]

 ついで、「96年度マスコミ研究科(第1回)レジメ 96/10/31 本橋 游」を掲げておこう。 これは、従来の「マスコミ科」と「ジャーナリスト科」を統合したものであった。

 ◎ 出版界の現状、雑誌と書籍
  1 出版界の状況……最近の話題を中心に
   a)ベストセラーの功罪
   b)ヌード写真の締め出し
   c)プライバシーの侵害
   d)再販制度とは
   e)仮想書店、書店の衰退、取次会社の存在意義 など

  2 雑誌と書籍、その他
   1)ジャンル、刊行形態(定期、不定期刊行物)、ビジュアルもの、電子媒体
   2)販売上から見ると……

  3 エディターとライター
   1)編集することと取材して書くこと
   2)会社に所属かフリーでやるか
   3)やりたいテーマがあるか

 ◎ 書くことの意味
  <書くとはどういうことか、どんな仕事でも書くことは大事>
   ア)伝達手段の一つ
   イ)自己表現の基本
   ウ)他者の立場を理解する
   エ)さまざまな意思の表出
   オ)時間差の利点

 <研究科の目的>
 これまでの学習をもとに、各自の目標達成に役立つようにカリキュラムを組み、その結果として「成果物」を得ることを目的とする。

 *講師および課題の選択について
     {文章コースは別表のリストから、それぞれ選択する}

 ちなみに、"特別講師"を依頼した社長は、自社のPR冊子に次のように記していた(96・02)。

▼どういう風が吹きまわしたのか、友人が講師をつとめる出版学校から講演の依頼がきた。 「出版界はきみ達を待っている」と題して話せ、という。私は出版界を代表していないので断わりにかかった。 すると今度は「なぜ出版界に居座っているか」を話せという。なぜ生きているかと問われたと同じように、その問いもむずかしい。 結局、思案の果てに、この会社で起ったり起こるであろう事件について話すことにした。 わが社は、ボチボチ二五年を数えようとしている。その間に起こった諸事件は数えきれないほどある。 対著者とのトラブル、取次への抵抗、業者との争い、銀行との攻防……全てこちらが正当というわけではないのだが、 やはり事の起こりは相手の理不尽にある、と思う。そのことごとに対して正面から対峙してきたこと、相手の目をみて話したこと、 誠実であろうとしてきたこと、そんなことを話してみた。話しているうち、これは出版社に入ろうとしている人に聞かせる話ではないことに気づいた。 私は指名されるべきではなかった。ギャラを一人占めするのはよくない。数人の受講生と街にくり出し飲んでしまった。

 そして、しばらく後、98年4月から、水道橋にある出版学校 日本エディタースクールの講師を引き受けることになった。 これまで「文章基礎実習」「記事作成実習→「編集基礎実習」、また「基本文章コース」(夜間部)の特別講師をやり、 06年10月から「出版と言論の自由」と、今もつづいている。
 最初の授業「文章基礎実習」では、上記『わかりやすい仕事文を書く』をテキストに使ったのはいうまでもない。 さらに、同校の出版部から依頼されて書いたのが『雑誌出版ガイドブック』(2000・04)で、これも次のテキストとなった。
 ついで、05年から、拙著『発禁・わいせつ・知る権利と規制の変遷―出版年表―』(出版メディアパル2005・04)をテキストとして使っている。


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