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「ミニ自分史」(65)「いちばん輝いていたころ」

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 彼女の同級生は、高校時代からすでに黒人兵の"ぶら下がり"であった。仲はよくても、晩生の彼女は影響されることはなかったようだ。

 私は学生時代から、その母親が切り盛りする小料理屋に出入りしていたが、彼女が店を手伝うようになったのは短大に入ってからだった。
 時どき友人とも連れ立って顔を出す私に、他の若い客のことを話題にしながら、自分は面食いだといった。 友人の一人が、彼女を誘おうとすると、別の友人が「橋本の彼女だから、手を出すな」と釘をさしたこともあった。 悪い気はしなかったが、短大の近くにあった、私の勤め先に不意に現れて驚かせるなど、まだ恋を知らない18歳だった。

 当時、ある家の二階に間借りしていた私はいつの間にか、階下の大家さんと酒を飲みながら文学談義をして過ごすことが多かった。
 時には、大学時代の仲間も一緒だったが、ある元日の昼、自宅の近い彼女も加わった。 初めて飲んだ酒に顔を赤くし、酔いをさまそうと都電の線路沿いの空き地で休んだものの、母親の目はごまかせず、 「生娘に酒を飲ますなんて!」と叱られ、送っていった私は大家さんに代わって頭を下げるしかなかった。

 短大1年の冬、朝の5時ごろ、「(試験の)英語を教えて」と、とつぜん私の部屋にやってきた。 慌ててこしらえた電気ゴタツに足を入れ、説明をしているうちに、寝てしまっていた。 私の出勤する時間になり、起こそうとすると、「うるさいわねえ」の一声。後を大家の奥さんに頼むしかなかった。
 弟が店を手伝うようになり、彼女はガソリンのにおいが好きだと、石油会社に勤め出した。やがて、外で会うことが多くなった。 会うたびに、「聞いて、聞いて!」が口癖で、ひとしきり溜まっている? 話題を吐き出す"妹"のようであった。

 成人の日、懇意の写真屋で、彼女の和服姿を記念写真としてプレゼントした。その近くのすし屋に連れてゆくたびに、 主人は彼女を"オ嬢"と親しげに呼んでいた。
 そんな時、出入りの多い大家さん宅で、私は彼女がうらやむような"恋の仲介"をしてしまった。 そのすし屋で大家の姪御さんから、私の友人のことをどう思うかと聞かれ、「(結婚は)止めておいたほうがよいと思う」と答えたのだが、 すでに彼女のハラは決まっていた。
 もっとも、後年「(橋本さんの)忠告に従っておけばよかった」とつぶやいていたが。さいわいに、そのことを"オ嬢"は知らない。

 大家夫人は、私に来る女性からの手紙を彼女が見ないようにと、気を利かして部屋の中に入れておいてくれた。 みな仲間で、彼女と私の付き合いの行方を見守っていたようだが、何事も起こらなかったのは、 私が彼女に"宿題"を課していたからだった。
 その後、何度か、お見合いをしたという報告があった。が、いつも立ち消えとなっていたが、 あるとき、最後の「今度は決まり!」という電話をもらった夕方、夜桜見物をしたいという。 私は「コングラチュレーション」とお祝いをいい、二人で歩いているうちに大きなホテルの前に出た。

 22歳ごろまでの5年間、彼女がいちばん輝いていた時代、私はほとんど独り占めしていたつもりだったが、 ずっと後になって成人の日の記念写真は、実は"親代わり"だったことを知らされる……。
 《04・08文章教室番外編で、先生も文例をと言われ…》


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