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「ミニ自分史」(73)「上下関係…」

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 40歳になって間もなくの昭和57年8月中旬、伊豆に遊んでの帰り、大学時代の友人に 「あと2年ぐらい、今の仕事(3年前より"記者"としてK社月刊誌編集部でコラム欄などを担当)を続けて、その間に何とか」と話していた矢先、 先輩Aさんから「勤めないか」との電話が入った。自ら求められたのだが、断わるついでに私を推したという(以上、当時の日記より)。
 これがきっかけで、その年10月から出版関係の団体に勤めることになった。75歳という老齢の事務局長が辞め、 後を継いだ50代半ばの元次長を頭に、私を入れて男女5人の小所帯である。
 同年5月19日の理事会・例会に、事務局員の増員を求めた文書に、こうある。
 「新聞協会では、120名の職員のうち編集部長(次期の事務局長)さえ、しっかりしておれば十分だ、ということがいわれている。 雑誌協会でも40歳前後のこうした仕事をこなす人間を是非育てていく必要がある。」
 つまり、40歳前後の男であれば、誰でもよかったのであろうが、それがたまたま私に回ってきたというわけである。 ともあれ、推薦人が小学館のN役員、保証人は講談社のI役員、そして採用決定が文藝春秋の社長(理事長)という、 ちょっと豪華すぎる"布陣"ではあった。ちなみに、AさんだけでなくN役員、I役員とも面識はあったが、 いずれも我が師梶山季之と縁の深い人たちである。
 上司(局長)は、常務理事2人による面接で"内定"した私を、有力会員社に連れて行きながら、 「3,4年で次長に推薦する、海外にも行ってもらう」とか、「原稿など書くのは構わない」などと言葉巧みにいう一方で、 ある社からの帰りには「もう逃げられないぞ」とも言った。
 察するに、積極的に採用活動をしなかったからか、給料が他に比べ低かったのか、仕事に魅力を感ずる人がいなく採用が不調だったのか分からないが、 ともかく私は勤めることになった。そして、理事会や各社の代表が集まる例会はじめ、大小いくつもの委員会に紹介されていくうちに、 奇妙なことに気付いた。
 私はその年7月、『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』(日本経済評論社1982・07)というノンフィクションを初めて出していた。 そんな私を紹介するのに、彼ははじめ著作が1冊あるといっていたのが、回を重ねるごとに2冊、3冊になり、 さらに3,4冊とエスカレートしていくのだった。
 これには困ったが、入ったばかりで仕事の"実績"の何もない私は、初対面の大勢の人たちを前に何もいえなかった。
 いま、うがった見方をすれば、今度入った橋本はこんなスゴイやつで、それを俺自身が見出したと言いたかったのであろう。 つまり"自分の言葉に酔う"状況下にあったのではないか。
 ――ここで、場面は採用段階に戻ろう――
 局長は、面接の途中でとつぜん「奥さんに会いたい」と言った。一瞬、何事かと思ったが、私はその要望には答えなかった。 仮にも四十男である。妻子があるからといって、それらに会い、どんな結論を導き出そうというのか、私を理解できないのか、 あるいは信用できないのか(興信所を使っているというのに。また前に在職した日刊現代のK社長は「思想的・経済的に問題なく推薦する」とのことだった由)。
 しばらく後、こうも言った。私より早く入って、年は若いがすでに子供が二人いるOについて「ルーズなところがある。少し、躾けをして欲しい」と。
 これにも答えず、私は彼に何も言わなかった。若くても妻子を養っているはずの男にはプライドがあるだろうし、 親としてのメンツもあるだろう。さらには、前の局長はじめ私より年輩者が3人もいたのに、だれも「躾けられなかった」相手に、 何を期待することができるかというのが本音でもあった。
 この"先輩"は、取材関係でしばしば地方にも行く。彼が夏の甲子園大会に出かけていたときに、主だった方の面接を受けていた私だが、 彼には会っていなかった。いや、存在すら知らなかった。
 勤めだしてからしばらく経つと、体育会系の彼は「オレに挨拶しないのはなぜだ」という。 きちんと紹介しない上司も上司だが、これにはビックリした。しかし、私には返す言葉がない。 さらに少し時間が経ってから、飲みに行こうと彼が誘う。酒は嫌いではないし、コミュニケーションが大事と思う私は、 近くの飲み屋についていった。
 今後ともよろしく、などと盃を交わすうち、「何でもいうことを聞くから、こちらこそよろしくお願いします」などと言い出すではないか。 前と打って変わった態度に、私は二度目のビックリである。
 彼はいう。私のことを"取材"したと。評価は悪くなく、むしろほめ言葉だったらしい。そのため、事務局の"改革の旗手"とでも思って、 私に期待したのではなかったか。それは彼ばかりか管理人夫婦までも、そうであるらしかったが、まだ私には何が問題なのか、 よく分からなかった……。

 では、初期のころ、その事務局と私は、どのような状況にあったか。再び日記から。
 〈10/4(月)〉9時半に雑協へ。いよいよ本日からスタートという緊張感はあるが、仕事の指示がないので困る。 出勤時間はまちまちであるし、昼食の時間、昼休みについてもはっきりせず。急に2時半、公取へ行こうということで、 Tさん(局長)について行くが、要領を得ず。Tさん、タクシーの中では休日中のゴルフの話ばかり、これにはまいった……。 /6時から、『現代』の人たちの送別会「四ツ谷の万世」で。先のIさんも出席して、編集長からのことばもあり。20名ちかくから、お祝いまでもらう。

 〈10/5(火)〉1O時半会議「景表法委員会」、終ったあと昼食が出る。事ム局の人間もお相伴にあずかることを初めて知った。 2時から「宣伝委」。これは私の担当らしく、議事録を書けというので、早速書いた。5時半になって、すぐ退社。1時間で帰宅。

 〈10/6(水)〉9時半出勤、O氏(前述の"先輩")は1O時ごろ出勤、T氏(局長)も似たようなもの、これはたしかに問題である。 11:30広告小委、12時広告委。昨日の昼食はうな重、今日は洋食弁当である。2時ごろ終ると、次はレジャー記者幹事会とやらで、 また立ち会う。広告委も議事録を書かされたが、前月のがまだ出来ていない由で、さっぱり要領がわからない。

 〈10/7(木)〉雑協、少しずつ"やり方"がわかってくるが、なんともいい加減なところでもある。 いわゆる協会というのは、あまり賢くてもイケナイようだ。しかし、私がよばれたのは、単に手が足りないからではないだろう。  ……以下、略。

 私が勤め始めて間もなく、西も東も分からないという時期、こんな話も飛び出していた。 正式には「雑誌公正取引協議会」といい、翌年3月末に発足するのだが、読者向け懸賞やプレゼントに関する諸問題を処理するところである。
 〈10/19(火)〉2時〜景表法責任者会議(40社ほど出席)に出る。そのあと、3時〜同小委があったが、事前に何の説明もない。 小委の席上で、(公取委OBの)H顧問より、公正取引協議会(新設するもの)の事ム局長に橋本さんがなってもよい……などと発言あり。 一同、シーンとしていたが。

 〈10/26(火)〉もう腹を立てないことにした。若い人たちと話したが、何を言っても始まらない由。

 〈10/28(木)〉会報を今月中に書き上げろという。私には無理だと思われるのだが、何もやらずにいるのも大人げない。 それなりにベストを尽くせば、文句は言えまい。

 〈10/29(金)〉午後から出版会館へ行く、図書コード委員会{実行委}など面喰う会議ばかり。 書協の事ム局長に紹介してもらうのも、取協の人任せ。これでは相手も面白くないだろうし、私も面白くない。 会議に二つ出る。今月もこれで終りかと思うと、長かったような短かったような……。

 〈11/4(木)〉10時半から景表法のあと、12時から広告委があった。今月初めての会議である。 大きな議題がないと、どうしても会議がだらけるようだ。

 〈11/8(月)〉出勤、女の子は休むし、局長は11時前に出てくる。若いのも遅い。なぜなら、会議がないからだ…。

 〈11/11(木)〉また少し、飲みすぎたが、サボるわけにはいかない。なにしろ、9時半には出社するということを守っているのだから……。 他人はどうであれ、こういうことがルーズではどうしようもない。

 さて、この年最後の月はどうだったか。昭和57年12月9日(木)の日記に、次のようにある。
 馬鹿さ加減も、この一言にきわまれり。朝一番にいわく、昨夜の会合で、集英社のOさんに会った。 "若いころ優秀な青年だったが、橋本君は元気に一生懸命やっていますか"と聞かれ、局長は"元気は元気だが、一生懸命がどうかは分らない"と答えたそうだ。 それをそのまま本人の前で披露する神経たるや、どうなっているのか。Tさん(事務局の生き字引的女性)もオドロイたそうだ。 私は、もう腹も立たなくなった。
 《私は学生時代、冬季2シーズン、同社の販売部でアルバイトをした。Oさんの言葉はそのときのことを指しているのだろうか。 すでに20年ほど前のことである》

 〈12/17(金)〉…昼食と夕方、O君に付き合う。なかなか色々なことがあって面白い(?)ものだ。来年の4月には何かが起こる由(それはこの4月にもあったとか)
 次いで、私に関して、局長がO君に言ったことの報告
 ・(前より)給料があがったのに、なぜもっと仕事をしないのか?
 ・新聞の切り抜きなんかやって、どうするのか?
 ・もっと仕事をするように言え!(指示しろ)
 ・(橋本が来たから)楽をしようと思ったのに―これがホンネ?!
 …O君いわく「今年6月以前のひどさに戻った由」
 〈12/23(木)〉…私のことまで、よそであらぬことを喋られてはかなわない。仕事はしているつもりである。 会報(理事会や各委員会の会議録)3か月分、47本中23本と半分である。あとを局長とO君で分けている次第。

 〈12/27(月)〉…会報のゲラである。T氏の文章はかなり身勝手だが、"最高責任者"だから、ご自由にというところ。 こんなことではいけないのだが…。O君と昼食に。金曜の会では、また勝手なこと、人を中傷するようなことを言ったそうだ。救いがたし。

 〈12/28(火)〉…本日、仕事納め。午後1時すぎからの"儀式"は相変わらずのO君いじめ、進歩なし。……


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