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「ミニ自分史」(82)「悩み――全くのところ Oct.19.'61」 20080818

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 始めての浪人生活を、6ヵ月以上やった今、こんなことを考えている。
 浪人は、少なくとも1年ぐらいはやっても(私の)価値がまだ残っているだろうと考えて、始めた。
 世の中には、予ビ校という便利なものがあるが、私にとってそれは大して利益にはならないだろうと考えて、行かなかった。
 (勉強は)自分一人でやっていても、そんなに不利ではないだろうという考えが心を支えた。それはしばらく続いた。 それに一人でいても大して孤独を感じないだろうと安心していた。
 ところが、すべてが最初思っていたときに比べて、全く変化していた。 まず、1年が365日あって、しかも12ヵ月もあるということを深く認識していなかったために、ときに長い期間だと感じたり、短いとも感じた。
 勉強の方は順調に行くだろうという予想が少なからず狂い始めた。スランプなどやってこないと安心していたのに、 それに似たことが度々あった。いずれも短いものであったが、その度に勉強を中断した。
 人は感情の動物であって、吾も彼も同様に泣いたり、笑ったり、おこったりするという普遍の心理を無視していた。(Oct.19'61)

 (Oct.20'61)それから、存在は自分一人ではないということが、大分後まで分らなかった。 社会の他の成員が、私に影響を及ぼし、私の邪魔をするだろうとは考えてもいなかった。しかし、それは現実になった。
 私が人一倍気むずかしやであるから、余計シャクにさわった。時々外出した。
 外出といっても、そこらを気ままに歩くだけだ。空気はあまりおいしくなかった。 このあたりの静かなところは、そこに行くまでに、交通の激しいところを通らねばならず、これが面白くなかった。
 あの自動車の騒音と排気ガスは私の頭を痛め、気分をいっそう悪くした。気分転換など思いも及ばなかった。
 私には、その生活が単純であろうということも、あまり深くは考えていなかった。 何とかうまく過ごせるだろうと安心していたからだ。
 私の今までの浪人生活は次のようなものだ。
 4月、落第したショックも感じずに明るく過ごした。勉強の方もあまりせず、その意慾を待っているような状態だった。 (現役合格の)Yが来た。私は彼とよく話した。しかし、月末から母といっしょに新潟へ帰った。
 5月、この月も順調だった。相変わらず、Yと話をした。二人でテニスをやろうかとも考えたが、即決しなかったために、 熱がさめて、中止てしまった。
 6月、Yにガールフレンドが出来た。話は主にそのことになり、私はあまり面白くなかった。 なお、5月だったかに、ひどく勉強がスムーズにいって、これなら大丈夫だと思うと母校のH教師に語ったことがある。
 7月、だんだん暑くなって来たり、母がいよいよ私たちと住むことになったり、(姉が)一週間も病院から帰ってきたりで、 これらとともに私の勉強もおルスになり、ラジオ講座も聞かず、高英(通信教育)もやめてしまって、全く不勉強になってしまった。 Yは相変わらず、やって来た。
 8月、全く勉強が出来なかった。私は暑さにホントによわいのだ。しかし、本は7月下旬から、たくさん読み始めた。 そして、月末には小説を書こうと思いたって、書き始めた《創作「生きるべく道へ」》。 自叙伝は7月下旬から書いていた(「忘れないための自叙伝」未完)。この月にYと会ったのは9日、10日で、それが最後の会見となった。
 9月、少しは涼しくなるだろうと思ったが、相変わらずの暑さだった。しかし、いつまでもノンビリしていてはどうにもならないので、 世界史を正式にやり始めした。どうやって覚えたらいいのだろうかと色々考えたが、妙案浮ばず、ノートに立体的に写すことにしたが、 一ヵ月かかってやっても、結局何ら効果が上がらず、理解しながら覚えようと試みた。この月にモギ試験を二つ受けた《*》。
 Yに会った1ヵ月後に、私は突然彼から絶交だといわれた。考えてみれば、ごくつまらないことだったが、 私はそんなに重要なことではないと考えて、"快く受諾する"と返事した。
 そして、この月もいつの間にか過ぎてしまった。(姉が)病院から退院して、父が出て行った。 10月、ああ、なんといまわしい月だろう。≪HATAの便箋3枚、ヨコ書き≫

 《大阪茨木にて。当時、戸主の長兄夫婦、姉と同居。前年なかば父が加わり、この年6月に母もやってきた。 翌年3月、受験で上京、早大に入学する。》
 《*…近畿予備校。翌年、京大に入ったI君に誘われて…。一回目の時、英語は167点(200点)で順位は5位(1642人)、名前が張り出されたという(10位まで)。 「私は同窓生にその日、英語の出来るヤツだと吹聴されて、少なからず注目され、かえってどうしても10番以内に入らねばという気持があって弱ったが、 それでもようやく80%を超え(これは今までの最高点)、恥をかかずにすむことができた。とにかく、在学中の"実力"は一番でも、 かなり意慾と実力が減退していた」とは、10月4日の日記である。ちなみに、国語と世界史はさんざんな成績であったし、 私の英語力のピークは高校2年の時で、小浜市(父の故郷)に帰ったその夏、同級の女性に教えて得意だった?!
 しょせん、受験英語の域を出なかった。なお、模擬テストは前後、いくつかの予備校で何回も受けている。》


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