馴れない仕事はやらないに越したことはないが、しかし妻子もあり、曲がりなりにも生きていかなければならない……。
先の会社(社長)を辞める前後から、ある団体に勤めるまでの5年間はどうであったか。
78年(36歳)4月はじめ、知遇を得た大東国男氏(旧朝鮮の"国士"李容九の遺児)に取材を開始し、なんどもご自宅に通った。
その年10月末には一応原稿(約680枚)を書き上げたものの、すぐ出版の雰囲気もなく、自室の天袋にまさに"棚上げ"状態で放置していた。
これが『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』と題して、日の目を見るのはそれから4年後(82・06)だった。
日本IBMから仕事依頼があったが、だれの関係で何をどうやったのか定かではない。
79年(37歳) 7月から、編集長Iさんからの誘いで講談社「月刊現代」でフリーの"記者"として勤め始める。
たしか前年にも誘われていたのだが、なぜか私は断っていた。いずれにしても、同社のEさんの推薦もあったことだろうと思う。
というのも、文壇の冠婚葬祭係の一人として顔の広いEさんは、75年5月香港で急死したわが師梶山季之の通夜など、
大勢の弔問客で混雑する留守宅で、私の行動を見ていたらしく、あとで「冷静で的確だった」と評してくれていたからだ。
「月刊現代」編集部での仕事は当初、特集の取材チームに加わり、たとえば「社長たちが初公開 わがノウハウ300」(昭和54年10月号)で、
私は各業界の社長6人の取材記事を書いた(のち小池亮一著『社長のノウハウ』講談社1980・03に収録)。
その前、月刊「噂」の仕事を手伝っていたり、講談社系「日刊現代」でも編集の仕事に関わったものの、
そのイロハで終わっており、また内勤がほとんどで取材からも遠ざかっていた。
したがって、若くても取材や執筆に手馴れた人が多いなか、慣れるまでに時間のかかる私は散々担当編集者を悩まし、
しばらくして将棋や囲碁欄、随想欄などのコラムを担当することになった。
筆者が決まっているコラムは、原稿の依頼・受け取りなど機械的に処理できるが、随想欄は毎回筆者が替わり、
一回に六人にお願いするから、時間と手間がかかる。たとえば、人選はさまざまな分野から、候補を挙げ、
最近の状況など調べ、バラエティに富んだ組合せを心がける。
のち、80年1月から、毎月後半に4日間、半徹夜が続く"校了"も担当する。
このころ、「現代」の有力な執筆者であった保阪正康さんに出会う。
その前79年夏には別の依頼で、家庭洗剤とその汚染の因果関係に関する、滋賀県下の主婦の意識調査もやった。
私は8月27日(月)に琵琶湖周辺(伊吹町、瀬田駅付近)の30世帯を取材して、その報告(原稿)を提出しているが、
謝礼はどうなったか今では思い出すことができない。
他にAシステムとS企画からの入金がある。前者は勁文社文庫『マルコ・ポーロの冒険 上巻』の原稿料であり、
後者は校正の手伝いだったか、翌年も仕事をしていたようだ。
なおこの年、なぜか三つのペンネームを考案していた。順に2・18「李 雷太(リライター)」、3・3「本橋 游」、
6・5「鳥越九郎(取り越し苦労)」であるが、使ったのは「本橋 游」だけであったとは?!
80年(38歳) 剄文社には「マルコ・ポーロの冒険」中・下巻も出す予定で、原稿も渡していたが、 アニメを同時放映していたNHKの"変節"のために、それも叶わなく、原稿料だけに終わっている。 この間の事情は「みなさまのNHK体質を考える『当方見聞録』のマルコ・ポーロが遭難した!」で報告している。
また、前述のS企画の仕事として実業之日本社から刊行される『富島健夫選集』20巻の校正なども引き受けた。
同年10月、練馬区から調布市に引越しした。12月、情報センター出版局から『熱球のポジション―"日米大学野球"の青春譜―』を、
実際に大学で野球をやっていた友人と共著という形で出した。執筆はすべて私だが、事情を知らない野球評論家は、
私のことなど眼中になかったらしく、少し淋しかったことを覚えている。
81年(39歳) ほぼ前年と同じようなペースで推移している。いろんな会社や組織から、仕事の依頼を受けているが、
いつも成就するとか限らない。たとえば"文章"の本の作成を持ちかけられたが会社の事情で反故となったもの、
いくらの原稿料でやってほしいといわれて、雑誌に載っても原稿料がもらえなかったりというのは、
今もよくあるようだが、私自身あまり泣き寝入りすることはなかった。
先の"文章"の原稿は、返却された日、その足で別の会社に預けたところ、しばらくして、これを元に原稿をお願いしたいとなり、
めでたく日の目を見て、「捨てる神(紙)あれば、拾う神あり」を実感した次第。
82年(40歳) この年は"何かが起こる"との予感で幕を開け、1月4日に「3年連用日記」を買い、毎日つけ出した。
「月刊現代」の仕事を続けるかたわら、友人の紹介でダイヤモンド・ビッグ社の仕事は一月末、現代の新年会で伊豆長岡に行っていた夜、
明日来てくれとの電話が入ったことから始まり、翌日一人早く帰京したものだ。
"棚上げ"していた原稿が『父は祖国を売ったか―もう一つの日韓関係―』(6月刊)となるきっかけも、この1月初旬であった。
8月上旬、伊豆に遊びに行った帰り、電車の中で学生時代の友人に「もう1、2年のうちに何とか(仕事の)目処がつけば…」などと漠然とした願望を吐露していたものだが、
梶山グループの先輩から「サラリーマンにならないか」という電話が入ったのは、その月下旬のことだった。
そして、10月から13年3か月の"月給取り生活"が始まる……。