”書くこと” わが若書き・習作『虚構としての時代』その1

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わが若書き・習作『虚構としての時代』その1

〔前説;“作家”志望だった私は1966年3月、早稲田大学第一文学部を卒業し、4月からS出版社にアルバイト勤務をしていたが、 9月半ばで辞め、大阪に帰っていた。その後、11月半ば、縁あって“流行作家”梶山季之先生の助手となる。 以来、ずっと東京暮らしとなった(当時24歳5か月。先生は一回り上の36歳。45歳で死去。そばにいたのは8年半)。

 助手の仕事の前半は、日曜を除く毎朝、青山のお宅に出勤し、電話番から車での送り迎え、 資料の収集に取材(東大安田講堂事件・三億円事件、ホモやレズ、右翼に殺人犯など)、伊豆の山荘への同行などさまざまであった。 後半は事務所に書庫係など若い人も増え、市ヶ谷に移ってからは月刊「噂」の仕事(編集その他)と、先生にかかってくる原稿催促の電話の応対などであった。
 これは当時、隆盛だった雑誌(オール讀物・小説新潮・小説現代・小説宝石・問題小説・小説サンデー毎日など)の編集者が、 蔭で私のことを“壁”と称していたほど、私は冷静かつ公平に対応していたことを意味する。 その仲間の一人が「橋本さんがいなかったら、梶さんもっと早く死んでいたよ」と言っていたと後から聞いた。

 当初、先生に見てもらおうと毎月50枚を目標に何本か原稿を書いていたが、実際に見てもらったのは数本である。 青山時代、いつだったか「忙しくて、小説が書けなくて悪いね」とか、「大阪で同人の集まりがあるなら、いつでも行くよ」と気遣ってもくれた。 だれに対しても“気くばり”の人であった。

 この間、1964年4月9日に書き上げたこの習作『虚構としての時代』(全15章234枚/筆名:都真美=つまみ)の手直しは大阪で行っていた(1966・9・24〜30)。 さらに推敲したものを先生に見てもらったのは、その1,2年後だったか。
 いわく「題名は、人を魅きつけるように」(例として「信じられない僕ら」「大人と僕たちの間」とある)、 「書き出しの一行が(作品の)生命を決めることを忘れないで」などと赤鉛筆で“親切”と“酷評”のオンパレード、厳しいものであった。 それでも3分の1ぐらいは目を通してくれていたようだ。

 短編も見てもらっている。『きょうだい思い』(11枚1970・2・9)は、作家K氏の自宅に、家族の留守中、ある若い男から電話がかかってきた。 住み込み3年目、27歳の家政婦京子は、K氏のエッセイを読み終わり、「先生は、何てエッチなんだろう」と思っていたところ……。
 《このテーマは、実際に事務所にかかってきた電話に、若い女の子が応対して、「変なんです」と私に受話器を渡した“テレフォンセックス”をヒントにしたもの》
 その若い男は、幼いころ義姉の京子にイタズラされたことを忘れられず、いつか復讐をと思いつづけて、やっと所在を見つけ電話してきた……。 (若い男の命令のまま、京子はある行為をさせられ…気持ちよくなったところ…旧悪をばらされ…)というような他愛無い内容だった。

 これについて、先生は「構成にもう、一ひねりほしい。義弟のことを書き込んで、伏線にしておくこと。K氏のことを、もうちょっと書き込む。 二十七歳の京子の、生活ぶり、人生観などを出す。荘重な書きぶりで、書いた方が、電話セックスの凄みが出ると思う」:すごいですねえ?!  しかし、私の立場から、目の前のK先生のことを、これ以上は書けませんよ。こんな気弱さが作家に向いていなかったのかもしれない?!

 この後に書いた『絡み』(75枚1970・5・17)は、人妻と親戚の大学浪人生の“からみ”について… 「題名が不味い。騎乗位は妊娠しにくい(哲次の件)。もう、ひとひねり欲しい。哲次の側から描くと面白いのではないか。(9行省略) 人妻の側から描くと、安易になってしまうから、これからも気をつけること。文章は、詩的に、荘重に使うこと。これが賞をとるコツである。 売文の場合なら、これでオーケー。(季)」とあった。

 その後、目を通してもらっていない、エッセイ風の短いものがいくつかある。 『すきま風』1967・12・29:改稿1993/11/21(29枚)、『女からの電話』1968・12・8、『乗せられた話』1969・7・6、『トップレス・ゴーゴー』1969・9・28、 『宿題がすんだら…』1971・4・29、『多磨霊園』1973・5・13などである。『すきま風』をのぞき、いずれもわがHP上に掲出してある。

 さて、長ければよいというものではないが、ここに掲げる『虚構としての時代』は、大学1,2年ごろの体験や見聞を元に書いたもの。 モデルらしき人物像はあるが、そのものずばりではない。“小説”はフィクション(虚構)であると、改めて申し上げておく。 …国領にて2009・12・15 橋本健午〕



「虚構としての時代」

第一章

 一九六三年五月――、     -----(冒頭10行省略)-----
 川添賢二は、田舎道を駅に向っていた。彼は今日も淡い草色の、少しくたびれたビロードのジャンパーを着ている。 もうラッシュ時をとっくにすぎていたが、やはり電車は混んでいる。「こんなに早く、人々はどこへいくんだろう?」  彼は大人たちの勤勉さに圧倒される思いだった。「どこで働くんだろう?」
 彼は自分がどうして、この電車に乗っているのかさえ考えていなかったことに気がつく。俺はどうかしている。 さっきも道を聞かれて、右と左を逆に教えてしまった。今日は講義のある日だったろうか。火曜だろうか、水曜だろうか……。
 彼は、日頃から、学生であることに、むしろ劣等感を抱いている。それでも学校へ行くのは、一種の惰性か、あるいは美しい少女たちに会えたらと思うからかもしれない。 自分は、自分でありたい。学生というのは一日のある状態を指すだけで、それ以外は、単なる俺なんだ。 学生服を着たときだけが、学生でいゝのではないか。しかし、彼は学生服も持っていなかった。
 十数年前の敗戦と、二、三年前の安保騒動が、彼に影響を及ぼしたものがあるとすれば、それは彼を、非政治的人間にしたことである。 大部分の人間が、その熱気に包まれ、政治的になったが、彼の性情は、大勢とは逆の方向に、彼を導いて行った。賢二とは、そういう青年だった。
 今日は純子に会わなければよいがと、賢二は思った。こんな寝惚け眼(まなこ)をしていたら、何を言われるか判らない。 純子のことを思うと、憂鬱になった。かつての彼ならば、毎日のようにその顔を見ていたかった。 話もせず、唯その愛らしい表情を見ているだけで充分だったが、今では、もうこの掌(て)の中には何もない、空っぽなんだというのが、 彼に迫る容赦のない現実であった。
 しかし、純子は賢二の姿を見つけると、いち早く飛んで来た。水色のワンピースに、同系色のスウェーターを軽く羽織った彼女は、 いつも幸福(しあわせ)そうにしている。賢二は、他人が幸福なのを見て、自分も気持がよくなる場合と、反対に妬ましく煩わしく思う時がある。 純子に感ずるそれが、むしろ後者なのは、彼女が、もう彼にとって特別の人でなくなったからであろう。 純子は、そんな賢二の変化に気づいてはいない。
 「おはよう、眠たそうね。昨夜(ゆうべ)遅くまで遊んでたんでしょう。宮田さんが言ってたわ。あんまり無理しちゃ嫌よ」
 彼女は、賢二のすべてを見抜いている。いや、見抜いていると思っている。始めのうちは、心配してくれる純子の気持が嬉しかった彼も、 この頃は、何となく煩わしく感じるのだ。不用意に飛び込んで来る、悪意のない純子の言葉が、無遠慮で一方的なだけに、 寝不足の彼の頭には不愉快に響くのだった。
 「いや、そうでもない……」「それじゃ、どうしたのよ。元気がないじゃない。見てご覧、あの真っ青なお空、綺麗だわ。こんなお天気のいゝ日って、最近珍しいわね」
 賢二は、何も答えられなかった。二人は、明らかに次元の違う処にいる。純子の心は、賢二と違って、その青空のように澄んでいるようだった。
 先へ歩いている純子を追って、彼も教室に入った。文学の時間だった。よれよれの背広を着て、まん丸な眼鏡をかけたO教授の講義は、 十年一日のごとく単調で、黄色く焼けた彼のノオトのように、現実離れしていた。
 賢二は、女の子たちに囲まれて女王然としている純子に、目をやった。やゝ小柄だが、均整のとれた身体つきと、その目鼻立ちの美しさに、 かつての彼は憧れていた。黒い瞳は深く澄んで、大きく輝いていた。賢二がいちばん気にいったのは、彼女が自分の美しさに、さりげなくしているということだった。 しかし、近頃は、それもどうでもよかった。
 「ロシアにおいては、古典主義の後にセンチメンタリズム、そして、国家主義がそれらにとって代る……」

 授業が終ると、純子がB氏邸跡の庭園に行こうと言い出した。暖かさも増し、緑の濃くなる季節である。 四、五人連れだったが、サルトルの芝居を観にいくという連中が、途中で別れた。 二人だけになって、賢二は嫌だったが、逃げるわけにも行かない。 純子と肩を並べて歩くのは、久し振りのような気がしたが、一昨日の夜も一緒だった。 雨の中を一つの傘に入って、当てもなく、空しく盛り場を歩いていた。寒くて口を利くのも億劫だった。 彼は、レインコートを通して、掌(て)に伝わる純子の身体のぬくもりだけが、現実のような気がして、身震いしたことを思い出した。

 B氏邸の庭は、大学から歩いて十五分、小さな橋をわたって、だらだら坂の階段を上りつめて右にしばらく行くと、その正面に出る。 街の真ん中にあるが、広くて静かな処である。手入れが行き届いており、誰でも自由に出入りすることができる。いつ来ても、人影は少なかった。
 はや、純子は群れている鳩の相手になっていた。鳩は彼女の掌に乗ってえさを食べたり、肩に乗ったりしている。
 全体が大きな築山のようになっている庭園のツヽジはもう色褪せていた。池のやゝ濁った水に、鯉は活き活きと泳いでいる。 それを巡って更に下ると、茶室に出る。茶室の前には、わずかな山水をためて、苔むした小さな水車が、ゆっくりと廻っていた。

 賢二は、明るい芝生に出ると、思い切り手足を伸ばして寝転んだ。純子も側に来て坐った。目の前の、影になった純子の青く清潔そうな項に、 彼は欲望を感じたが、どうすることも出来なくて、眼を閉じた。
 頭上には、どこから持って来たのか、古ぼけた三重塔が聳えている。長閑である。話すこともなく、賢二はじっと長い間、眼をつぶっていた。
 夜になって別れた。約束も何もしなかった。別れの接吻がとても苦く、純子は賢二の様子が一日中おかしかったのと思い合わせて、落ちつかなかった。 賢二も気まずい別れ方をしたと思った。そして、純子を欲する以上に、何故か突き放したいという自分の心を、はっきりと意識していた。

 金曜の午後になると、賢二は決ってみんな前から姿を消す。ある婦人の家庭教師なのだ。そのことは純子ですら知らない。 彼女が聞いたら、まあ、いやらしいと言うに違いないからだ。彼は、事情も聞かずに、直線的に否定する、理非のない処女性が嫌いなのである。
 アルバイトは、わずかな収入だが、他に仕事を持っていない彼には、手頃だった。英語の初歩的なリーダーから教えている。 だが、短期間に早く上達しようという、その婦人の意気込みに気おされて、賢二は時々、当惑することがある。
 子供がおらず、大学出の官吏を夫に持つS夫人は、下膨れの、いかにも不味そうな顔をしていた。 身体は痩せており、血管の浮き出た手は、見たゞけで気味が悪かった。もう三ヶ月になるが、火遊びのようなことは、一度も起こってはいない。 尤も、賢二も最初からそれを期待して行ったわけではなく、女子学生が行く筈の処を、彼が来たのだから、驚いたのは、むしろS夫人の方だった。

 戦争末期に生まれた賢二にとって、戦争がどんなものか、どんな被害を蒙ったのか、殆ど幼時の記憶さえなかった。 彼は、大人たちが勝手にやって負けた戦争のことを、もはや知る必要もない。知った処で始まらないと考えていた。 無責任だというのではなく、忌まわしいはずの過去が、いつの間にか、讃美すべき時代にと、擦りかえられている現実に、我慢ならないからだ。
 しかし、四十に近いS夫人にとっては、無視できないことであった。 女学生だった彼女らは、学校へ行く代わりに、軍需工場での兵器造りに汗水たらして奉仕した。 だが、敗戦は彼女らを裏切り、払われた犠牲に対して、国家は何も報いてはくれなかった。
 国民は、等しく敗戦を知り、家が焼けて、うつろな心を懐いていた。病気や泥棒が横行した。 家族の無事がせめてもの慰めであったが、それでも十何年かは、貧しい生活を余儀なくされた。 その後、好景気のおかげで、生活が安定し、余裕が出て来たのは、どこの家でもつい数年前のことである。 テレビを始め、電化製品が出回り、レジャー時代に入ると、敗戦の悲惨さを、すっかり忘れ去ったかのように、人々は空っぽの頭を大事そうに抱える時代となった。

 だが、ひとりS夫人は、遊んでばかりいては勿体ないと考え、思いついたのが、戦争で失われた青春を取り戻す、つまり、勉強するということであり、 それは英語をおいて、なかった。当時、敵性語として口にするのも禁じられていた英語が、戦後の今日では、むしろブームとさえいえる。 国自らが奨励しているのだ。しかし、一つの外国語を、時勢によって、こんな風に、まるで掌(てのひら)を返したように取り扱わねばすまないとは、 この国も随分、卑屈な根性を持ったものである。賢二は、大人の無節操さが腹立たしかったが、目下の急務は、小遣い稼ぎだと肝に銘じていた。
 女学生時代に、頭が良いというだけで、何の魅力もなかった夫人は、今も当時と変わらぬ学習態度を持している。 それは素晴らしいことでもあるし、またうそ寒いことでもあった。 なぜなら、十いくつも年の違う賢二を前にして、彼の元気のなさがどうしてなのかを、決して理解することができないからである。

 S夫人の家は、郊外にある。池袋からバスで、およそ二十分も行くと、都合よくその門の近くに着く。 賢二は、このバスが嫌いで、ひどい時になると、頭痛だけでなく、吐き気まで催した。
 リーダーを終って、今は『ジギル博士とハイド氏』をテキストにしている。 夫人にはまだ難しくて、なかなか進まないが、年若い賢二にしぼられるのが、楽しそうに見えた。勉強が面白いという。 この年齢になると、女は余裕を持って、被虐(マゾ)的な気分を味わうことができる。ただ、それを自分だけの愉しみにしておく処は、悪魔的であった。
 暇に任せて、英語の勉強をしようというわけで、受験生のように崇高な目的がないだけ、世話がかゝらなかったが、 唯真剣過ぎるのには、賢二も、いさゝか辟易するものを感じるのだった。

 いつものように、向かい合ってテキストを読んでいると、玄関のベルが鳴った。 今ごろ誰だろうと、訝りながら出て行ったS夫人は、いままで見たこともないような生き生きとした顔で、 「珍しいお客様が来たわ!女学校時代のお友達、すごく魅力的な女(ひと)よ。お勉強は、今日はこれでお終いにしてね」と立て続けに言い、 何とも返事をしかねている賢二を置き去りに、客を案内して来た。
 夫人より、かなり若く見える女性の出現に、彼はどぎまぎした。しかし、彼女は、そんな彼には関心がないかのように、鷹揚に構えている。
 「お勉強のある日に、お邪魔して悪いわね。私、しばらく散歩して来ようかしら」 「いゝのよ、そのまゝで。何年ぶりかで、折角訪ねて下さったのに。どうぞご遠慮なく」 「それじゃ、私、お二人のご勉強振りを、ここで拝見させていただこうかしら……」 「嫌よ、そんなの。今日はお休みにして下さいね、川添さん」
 「えゝ。僕こそお邪魔でしょうから。帰ってもいゝですよ」 「あら、この人、案外真面目なのね。さすが、Sさんだけのことはあるわ。こんな固い学生さんなら、よくお勉強できるでしょうね」と彼女は、 賢二の顔をうかがいながら、笑って言った。

 杉代という名らしかった。見たところ、気の置けない女性のようだが、あまりにも予期せぬことで、賢二は、少し気が動転しているのを感じた。
 「私、お茶を入れてきますわね」と、S夫人が席を立って、二人だけになると、彼は手持ち無沙汰だった。 女性と話すのは苦手ではないが、のっけから飲まれた格好で、戸惑ってしまったのだ。
 彼女は、卵色のスーツがよく似合い、胸には大きなブローチ、それにぶつかった光線が、部屋中に何色もの光を投げかけている。 少し小さめの顔は、双の眼も、口や鼻も、所を得て調和を保ち、その肌の白さは、身体全体が透きとおっているかに見える。 自分で結い上げたらしい髪は豊かで、個性的で、その黒く艶やかなのは、手入れの行き届いている証拠であろう。

 微笑の絶えない杉代も、口こそ利かなかったが、その視線が、自分の上に注がれているのを感ずると、賢二は顔が熱くなるのを覚えた。 やがて、夫人が戻って来て、彼は救われる思いがした。今日もケーキに紅茶である。 紅茶にブランディをたらす、夫人の手が眼に入ると、賢二はいつものように、嫌な気分になり、それでいくらか、普段の自分に立ち返ることができた。
 「この人は、W大でR文学を専攻しているのよ。将来は小説家になるんですって」「まあ、素晴らしいわね」 「若い人は、よいわね。夢があって。でも、この人にそう言うと、そんなことはない、今の若者に夢なんかないって言うのよ。 私たちに比べたら、随分贅沢な時代だと思うけど」「そうね。私たちには考えられないことだったわ。でも……」

 「川添さんは、いつもこんな難しい顔をしているのよ。私にはどうしてだか理解できないけれど……。 杉代さんなら判るでしょう。貴女は昔から、人の心を見抜くのがお上手だから」 「あら、そんな言い方しないでよ。でも、今の若い人の心の中まで判るかな、なんて言うと、いかにも年をとったみたいだわね。 そうね、川添さん、何か悩みがあるんじゃないかしら」
 賢二は少し腹が立ってきた。この女たちは、人が大人しいのをいゝことに勝手なことばかり言っている。 S夫人と来たら、いつもはいかにも貞淑な妻でございますって顔をしているのに、この変りようはどうだろう。 冗談一つ言えない女だと思っていたのに……。客は客で、初対面の他人の心理状態まで洞察するつもりらしい。 そうはさせるものかと、彼は相手を見返した。
 だが、彼女はお茶を飲む処で、うまく賢二の視線をかわしていた。 肩すかしを食らったかたちが、いくらか余裕の出てきた彼は、客を改めて見ると、それまでの憤りにも拘わらず、綺麗な人だと認めざるを得ないのだった。

 S夫人のように痩せてはいるが、肉付きは無駄なく、スタイルの好さは、夫人の遠く及ばない処である。 賢二は、彼女がわざと燥(はしゃ)いでいるようにも思えた。陽気な人間が陽気に騒ぐのと、努めて表面を繕って、 内面の複雑さをカモフラージュする人間との違いくらい、彼にはある程度見分けがつく。 いや、彼には、目の前の杉代という女性が、どうしてもそういうタイプの人間であって欲しいと思い始めている自分にびっくりした。 S夫人の身近に、こんな魅惑的な女(ひと)がいるとは、想像もできないことであった。
 何となく帰りそびれた賢二は、そのまゝ二人の女性と時を過ごした。 対話は好きだが、三人ともなると、話の焦点がぼけるので、余り喋らなかった。 しかし、聞いてはいたし、それ以上に杉代を眺めていた。どこかで見たことがあるような気もしたが、思い出せなかった。

 夕方、賢二は杉代と一緒にS家を出た。ターミナル駅で、お茶でもいかゞと言われ、もっと話をしたいと思ったが、 純子とロードショーを見る約束があったし、単なる社交辞令を真に受けたと思われるのも癪だったので、そのまゝ、別れてしまった。 が、心残りであった。チャンスは一度しかない。 たとえ偶然から生まれたものでも、その機を逸すれば、再び同じものに巡り合うことはないと、彼は何度か苦い経験から知っていたからだ。
 にも拘らず、一瞬、会うのが苦痛になっている純子のことが頭をかすめて、躊躇してしまった。 後悔したが、もう遅かった。杉代の姿は、どこにも見当たらない。また失敗を繰り返したと思うと、賢二は、純子と待ち合せるのも面倒になっていた。



第二章

 賢二は、もう二十歳(はたち)だった。他人が、ひねくれていると評すのは、偏見に過ぎないと、自分に言い聞かせている。 彼は、太陽のギラギラ照りつける歩道(みち)を、ひとりで歩いていた。学校へ行くのに友達が必要だとは思わなかったし、街の騒音には慣れっこだった。
 行き交う女たちには、殆ど眼もくれなかった。はっと思うことはあっても、女が新しく作るスーツの、生地をあれこれ物色するように、 彼の眼は貪欲で、どれも好みに合わなかった。しかし、彼はその後に、いつも失望を用意しているわけではない。 そんな彼は、いつかきっと誰かに復習されるに違いないと、密かに考えていた。勿論根拠など、ありはしなかった。

 大学へ着くと、誰ともなく見馴れた顔が待っている。いつ見ても相変らずという顔ばかりである。 暑くなると、教室にいるものは殆どなく、いつもの、大きな銀杏の樹の下に屯している。 賢二は、仲間の恋する女や愛しい女が好きだった。可愛かったし、何よりも彼には、関係がなかったからだ。
 校庭(キャンパス)は、かつての、青々と樹々が繁っていた面影はどこにもなく、荒けずりのコンクリートが冷やかな地肌を見せた、 高い建物がいくつも立ち並び、その間に、大勢の学生が、蟻のように小さく蠢いている。たいがいの学生は、失業者の群れのように生気がない。
 ぶらぶらと昼食を摂りに行った。午後からの授業に出る積りで、学部まで戻ってきた時、誰かが、こんなよい天気の日に授業へ出るのは勿体ないと言い出すと、 車で来た一人が、すかさず、郊外へドライブしようと提案した。

 その古ぼけた車に乗り込んだのは、女の子二人に、総勢五人だった。幸い、純子はいなかった。 運転できない賢二は、後ろの座席で女の子に挟まれていた。国道は、やたらに混んで、思うように動きがとれない。 大分走らないと、武蔵野の緑に出会えず、そうこうしているうちに、賢二は排気ガスで頭が痛くなる。
 そんな中でも、賢二は、東京に住んでいると、何にでも枯渇してくる。 しかし、まだそれらの必要性を感じている間は、救うこともできるが、何も感じなくなったら、お終いだ。 尤も、現代は感覚の鈍磨されたものの集団の力で、動いている、などとも思うのだった。

 樹々の緑の陰の、芝生に寝転んでいると、つい好い気持になって、うとうとしてくる。 賢二は、そういう処に寝そべって、静かに流れる雲をいつまでも眺めていた頃を、懐かしく思い出していた。 年を取りすぎた、と思った。そんな感慨を抱いていた時、「川添さんは、ロマンチストのようね」と突然、頭の上で女の子のひとりが言った。
 彼は、滝田敬子のその言葉に、内心喜んだものの、「なんだ君か。ずっと僕を見ていたのか、悪いやつだ。折角の詩想(しそう)が台無しになった……」 「シソウ? シソウってどんなこと?」「つまりね、詩の心というか、詩的境地のことなんだ、といっても君たち子供には判らんだろう……」と彼は言ってから、 しまったと思う間もなく、敬子はぷっと脹れて、「どうせ、私は子供なんでしょう。貴方はいつも難しい顔して、なにやら考えているようだから、大層偉いんだと思うわ」 「いや、そうじゃないよ。そんな意味で言ったんじゃないんだ……」
 少し悪戯がすぎたと悔やまれたが、賢二は、それ以上弁解する元気もなかった。
 いったん不機嫌になった女の子を、また元のように快活にさせるには、放っておいて自然に直るのを待つよりない。 だから、女の子は嫌いであると、彼は思う。純真で純情であるだけに、持て余すのだ。

 賢二は、詩を書いている。気取っているが、自分で傑作と思えるのは、十書いて一つあれば好い方だと自覚している。 大自然を相手に詩を書こうと思っている処へ、処女が現われては、彼には迷惑なのだ。何だか、神聖なものが穢されるような気がして……。
 彼が、少女たちを心から好きになれないのは、まだ彼女らが、色も何も塗っていない生木のこけし同然だからである。 生木から磨いて、色を塗って、丹精込めて立派なものに仕立て上げるという殊勝な心がけは彼にはない。 むしろ、完成されたものを、その美しさ故に、破壊し尽くしたいと思うだけである。
 「おい、川添、今度の休みはどうするんだ?」と菊池が言った。大柄の、いかにも遊び好きな顔をした男である。 「別に。まだ考えてないよ」「考えてないったって、あと二十日もすりゃ、夏休みじゃないか。どうだ、俺たちと油壺へ行って、海の家のバイトしないか。 面白いぞ、遊んで暮らして、女にもてるし、金は儲かるし、一石三鳥ぐらいの値打ちがあるぞ。どうだ、行かないか」 「俺は、女なんかに興味はないよ。それに、人間のうじゃうじゃいる海なんか、行きたかないよ」
 「相変らずだな、お前は。純子さんとなら別だけどね、か」「いや、そうでもないさ」「お前、この頃。彼女に冷たいんだって?」 「もう、何もかも面倒くさくなったよ」「全く無精だな、お前は。それでよく女にもてるな」

 二人が話しているところへ、先ほどの敬子たちが加わった。もう機嫌は直っている。
 「川添さんは、どこか旅行しないの。私たちは来月早々北海道へ行くのよ。ねえ、榊さん」「へえ、好いね。女の子ばかりで?」と菊池が聞くと、 敬子は、彼よりもむしろ、賢二に向って言うのだった。
 「勿論よ。でもついて来たかったら、荷物持ちぐらいさせて上げるわ」 「冗談じゃない。どうせ詰まらない喧嘩の仲裁ばかりさせられるに決まってるよ。何もそんな苦労を背負ってまで行きたくないね」 「まあ、失礼ね」「しかし、どうして猫も杓子も、北海道、北海道って言うんだろう?」
 「そりゃ、素晴らしい処だからよ。この間も週刊誌のグラビアに載ってたけど、何と言っても魅力的だわ。 碧く澄んだ湖、雄大な眺め、鬱蒼とした原生林、みんな素敵じゃない」 「そんなものかね、昔は原生林もあっただろうけど、ちょっと透かして見れば、林の向うに人家が疎らに見えるなんて、ガッカリじゃないか」 「あら、そんなことないわ。この武蔵野の哀れを止めている姿とは、断然趣が違うと思うわ。行っても見ないくせに、ケチばかりつけて……」
 「そんなに趣が違うかなあ。帰ってきたら土産話をたんと聞くことにしよう。大いに楽しんでくるさ。でも、クマには気をつけた方がいゝぞ」 「えっ、クマが出るの?」「当り前じゃないか。呑気なやつらだなあ。木彫りのクマは長野県の問屋から来たって、本物は北海道で暴れ回ってるんだぞ、 特に人間の肉が好きだといって……」「まあ恐い。出てきたらどうしようかしら」
 榊という女の子は、本当に恐そうに、身を縮めた。「尤も、まだ安心だよ。七月に人里まで出てくるなんて聞いたことないから」 「川添さんて、本当に意地悪な人ね」「いや本心は、案外君たちと一緒に行きたいんだろう」
 菊池が、後を引き取ってくれたので、賢二は、内心ホッとした。 ケチをつけたいわけではないが、つい口をついて出てくるのは、相手を刺激することばかりだった。

 しばらく、芝生でバドミントンをして遊んだ。賢二の得意な遊びで、久しぶりに汗をかいた。 日が長く、みんな時の経つのを忘れているようだった。夕焼けの雲は、メロンのシャーベットにオレンジを混ぜたように、空を覆い始めた。
 賢二は、もう家に帰って仕事を手伝うのが嫌になっていた。しかし、玄関を入ると直ぐ、叔父に掴まった。 遊び疲れて、彼は不機嫌になっている。叔父は見向きもしないで、用事を言いつけると、奥へ行ってしまった。 彼は大人しく、無愛想な男だったが、写真の腕だけは確かだった。
 賢二は、いつものように受付に坐った。女の子でも使えばいゝのにと思うのだが、そうしないのが叔父の主義だった。 居候の賢二には、辛い処であった。彼は、見知らぬ人の応対をするのが苦痛である。 何の関係も無い赤の他人と、たまたま写真を撮ったというだけで、口を利かなければならないとは、煩わしい限りである。 ここに坐っている義務なんか、俺にはないんだ。そうは思うものの、彼には、そこを動くべき理由もなかった。

 平日の上に、外は蒸し暑いので、客は殆ど来ない。賢二は退屈で、手元にあったロシアの小説を読み始めたが、面白くなくて、直ぐに止してしまった。 何十ページ読んでも少しも筋が進展せず、名前がやたらに煩雑なのだ。 余程の体力と、余程の健康性を持っていなければ、とても読み終えることは出来ないと、彼は諦めた。
 密かに期待して、出来上がりの写真を何組か見たが、それも無駄な作業だった。 結婚記念の写真と言えば、どれもみんな綺麗に着飾っているが、個性がなく、そして一様に幸福(しあわせ)そうにしている。 賢二は、そういう写真を見ても、何の感動もなかった。

 閉店時間の九時になったので、叔父と交代して、奥へ行きかけたとき、表のドアが開いて、一人の女性が入ってきた。 「写真撮って下さいません? もう遅いかしら」「やあ、いらっしゃい。いけませんねえ、そんなに無茶をしちゃ」
 知っている人なのか、叔父はたしなめるような口ぶりをした。
 賢二は、扉越しにその女性を見て、一瞬ぎくっとした。この間S夫人宅で会った女性ではないか。 あれから二週間は経っていただろうか。彼は、また会えたと嬉しくなりかけたが、今夜の杉代は、顔を赤らめ、動作も鈍く、少し酔っているような様子である。
 「折角写真を撮るのに、そんな格好じゃ余計老けて見えますよ。また山田先生に無理に誘われましたね。最近、奥さんが病気で、荒れているそうですよ」 「いゝのよ。どうせ私は、もう若くはないですから……。今日ちょっと、いざこざがあって、むしゃくしゃするもんだから、つい……」

 立ち止ったまゝ、扉越しにそんな会話を耳にしながら、賢二はまた、どきっとした。 醜悪なものを、眼の前に見せつけられた思いがした。見てはいけないものを見てしまった感じで、そっと奥へ引っ込んだ。
 二言、三言、遣り取りしていたが、どうやら写真を撮ることだけは断念したらしい。
 山野という杉代の姓を、賢二はその日初めて知った。彼女は独身で、お茶とお花の先生をしている。 男を寄せ付けず、ひとりであんな生活をしているようだと、叔父は珍しくよく喋った。 もう十年来、あゝして写真を撮りに来るのだと、引出しから何枚か、一つ一つ表情や髪型の違って見える彼女の写真を取り出して、賢二に見せた。 いずれも魅力的だった。

 それを見ながら賢二は、ふと、叔父は写真以外に何ら趣味もなかったが、中でも毎年決まってやって来る杉代を撮るのが、楽しみなのではないか。 大事にしまってあるところを見ると、何か特別の意味があるのではないかと、叔母も知らない、叔父の秘密を知ったような気がして、落ちつかなかった。
 自分の部屋で、ひとりになっても、さっき叔父の言っていた“あんな生活”という言葉が、賢二の頭にこびりついて離れず、 彼は何度も口の中で“あんな生活”とつぶやいていた。
 その夜、彼は一晩中、杉代のことが気になって眠れなかった。 S夫人の家で、わざとのように燥(はしゃ)いでいた杉代、酔っ払ってもなおかつ、写真を撮ろうとする杉代、 何枚かの写真が、ようやく、彼女の面目を保っているようなものの、どれが彼女本来の姿なのか、賢二には判断できなかった。
 どこで、どんな暮らしをしているのだろう?  好奇心とともに、それを見極めたいという欲望が、何かを内に秘めた杉代という女性を知った賢二の心に、萌し(きざし)てくるのだった。

 翌日、学校のない日で、賢二は昼すぎまで寝ていた。階下(した)に新聞を取りに行くと、その中に、彼あての手紙があった。 半年前、山岳部主催のダンス・パーティに、友だちの義理で行って知り合った、C女子大の三年生、牧内カナ子からで、 もう縁が切れていると思っていた女の子である。 カナ子に誘われて、一度踊りに行ったが、馴れ馴れしく身体をくっつけられて嫌になった。 まるで飢えた牝犬を相手にしているようで、彼はガッカリしたものだ。
 相手は自然のつもりかもしれないが、男はいったん火がつくと、その興奮を鎮めるのは容易ではない。 他意のない、女のその動作が、挑発に思えるのだ。 むしろ、挑発ならば、男は尤もらしい顔をして、ダンスなどという、この国では何ら目的も意味もない代償行為に、いつまでも耽ってはいない筈である。
 それ以来、賢二はダンスそのものの持つ、自己満足に嫌気がさして、二度と行くことはなかった。

 小さな女性用封筒に入った、その手紙は便箋もやゝ桃色がゞった、いわゆる女学生趣味のものである。 賢二がそんなものを受け取って、期待に胸をときめかす時代は、もうとっくに過ぎ去っていた。
 遅れた大学祭が、やっと開かれるので、ぜひ見に来て欲しいという簡単な文面で、招待券を一枚しか送って来ない、 その女の子の顔を思い出して、彼は苦笑した。
 手紙を放り出し、新聞も一通り眼を通して、彼はまたうとうとし始めると、階下から、電話だよと、呼び起こされた。純子である。 今まで殆ど電話をかけて来たことがない。何ごとかと心配したが、たゞ会いたくなったから会いたいという単純な用件だった。 しばらく会っていなかった。有無を言わさず、場所と時間を指定され、賢二はしぶしぶ承知した。
 彼は、純子のこういう一方的な決定に、耐え難いものを感じていた。純子は、学校を休んでいた。



第三章

 二人の交際(つきあい)は、もう一年以上続いている。 だらだらと余り進展しないのは、賢二が万事に消極的なのと、彼にとって、純子がまだ子供だからである。
 新宿の『R』という喫茶店は、クラシック音楽専門の店で、二人はよく、こゝに聴きに来た。 思い出深いはずのこの店も、今の賢二には、純子との歴史が如実に刻まれているようで嫌な気がした。
 「いったい、急にどうしたんだい?」 賢二は、会うなりこう尋ね、わざとらしい口の利き方に、我ながら嫌気がさすのだった。 「貴方こそ、どうしてたのよ。私が何度もお手紙やお電話をしているのに、ちっとも返事をくれないじゃない……」 「僕はね、手紙なんて書くの嫌いなんだよ。それに返事しなくたって、直ぐに会える処にいるしね」
 「それなら、一度くらい会ってくれたって、いゝじゃないの。そんな言い訳にもならないこと言って……」 「君の学校へ来る日は僕が休むし、僕の行く日は、決まって君が休んでいたんだろう、おそらく」「……………」 「第一ね、そんなに煩く付きまとわれるなんて、ごめんだよ、子供じゃあるまいし」

 そう決め付けられて、純子は悔しさに、唇をかんだ。堪える涙の代りに、口から言葉がほとばしり出る。 「貴方って、随分わがまゝな人ね。久しぶりで、こうやってお会いしているのに、ひどいことを言うのね。少しは私の身にもなって下さい。 貴方に、そんなひどいことを言われなければならない私なの?」
 賢二とて、純子の気持が判らないわけではない。 しかし、彼は、体内に鬱積したものが、極度に歪められて、どっと飛び出してくるのを、どうすることもできなかった。
 「学校サボって、昼間から喫茶店にシケこんでる、不良学生さ……。 別の言い方をしようか、夢も希望もなく、しかも自分の自由になる時間が、無限に与えられている種族。 そのくせ、それをどう使ったらいいか、さっぱり判らないでいる哀れな獣たちさ……」
 「もう止して。私が聞いているのは、貴方の口グセじゃないわ。一体、貴方と私は、どういう関係かって尋ねているのよ」 「そう怒らずに。怒ると、折角の美しい顔が台なしだ」「そんな、はぐらかすようなことばかり言わないで、もっと真面目になって頂戴」

 賢二は、壁があったら、それに思い切り強く頭をぶつけたかった。 だが、遠くに重そうなカーテンしかなく、眼の前には、純子の今にも泣き出しそうな顔があるだけだった。
 「僕も少し興奮し過ぎたようだ。謝るよ、つまらんことを口走ってしまって……。しかし、僕という人間を、君はある程度知っているはずだ。 どうしてこうなるか、それが判らなきゃ、今までの交際(つきあい)が、無意味というものだ……」「……………」
 「ケンカ腰になるのは止めよう。お互いに不幸なことだから。しかし、僕たちの関係って……今更こゝで持ち出すことはないだろう」 「でも、私はそうじゃないわ。今日だって、そのことをお話するつもりで、お電話したのよ」
 隣のテーブルにいる男が、先ほどから、二人の遣り取りを面白そうに見ているが、彼らは一向に気がつかない。 店内に流れているチャイコフスキーの『第六番』第二楽章の美しい旋律も、もはや二人の耳に響いては来なかった。

 純子は、賢二と同じクラスである。誰にも憎まれない子で、クラスの文集を作る時、ふとしたことから、二人は親しくなった。 彼女は、金持ちのお嬢さん育ちのせいか、少しのんびりした処があるが、顔が整っていて、男子学生の注目の的だった。 互いに牽制しているうちに、誰よりも早く、賢二と付き合いだしたので、ひとり漁夫の利を占めた賢二は、皆から恨まれたものである。
 しかし、野心に乏しい彼は、純子の顔の美しさや、財産のために好きになったのではない。 たゞ、その心の根の素直さに安心を見い出していたのだ。それは、何ものも生み出すことはなかったが、当時の賢二にしてみれば、貴重なものだった。
 一方、青白い、いかにも文学青年面(づら)した賢二は、まだこの年頃特有の、顔かたちがこれから出来上がるという段階の若者で、 やがては女を悩ます片鱗を覗かせてはいるものの、それは彼自らも気付いていない、ニキビの消長がまだ気にかかる時期、 怜悧な頭以外に、女の子を惹きつけるものは何もなかった。
 とはいえ、二人はお互いに、何の共鳴も必要としないまま、うまい具合に調和が保たれていた。 映画や音楽会には、たいてい純子の持ってくる招待券で行った。 別に押しつけがましくはなかったが、賢二はいつも窮屈を感じていた。 時には自分たちでお金を払って、好きなのに行こうというのだが、純子は、せっかく券があるのだからと譲らなかった。

 純子と行動を共にするとき、彼はいつしか

不満を連れて歩くようになった。 不満は、彼の言うことを聞いても、純子の場合は、そうは行かなかった。 彼女には、賢二がいつもそんな心理状態にあるとは、想像もできないことだった。 映画を観ている時、音楽を聴いている時、賢二の存在は、彼女の眼中にはなかった。 お嬢さん育ちには、男の自尊心というものが、理解できないらしい。
 大学は、集団見合の場ではない。が、たいがい女子学生は、それだけが目的のように、積極的に振舞った。 純子もそのように見えたが、仕方のないことだった。たいがいの女性は男に太刀打ちできる程の、優れた頭脳を持ってはいない。 それなら、はじめから、化粧に専念するほうが利口だと思うものもいるのだろう。
 賢二は、純子が好きだったが、他の女の子と同じように扱っていた。 彼女自身は、舞台の中心にいる主人公(ヒロイン)の積りだろうが、彼の眼には、後ろに描かれている風景の中の、ひときわ目立つ

点としか写っていない。
 いわば、遠景の女である。それが、女にとっては大いに不満な処だが、男は、特に彼は、結婚を夢見ることを、生活の糧にしてはいなかった。

 去年の夏休み、彼らは男女七人ほどで、信州の山へ行って、キャンプを張った。 五日目の晩、それは下山する前の日だったが、二人は初めてのキッスをした。 驚きと怖れと、やがて甘く快いものが、純子の唇(くち)に残った。 ぎこちない賢二の性急な抱擁も、彼女には鮮明な印象を与え、それらはもはや、賢二なしには思い出されなかった。 いつまでも心にきつく焼き付けられた、その印象に、純子は悦びと悩ましさを感じた。 『あの人は、私を好きなんだわ、愛してくれているんだわ。私だってそうだもの』
 その夜、一つテントの中で、他の女の子たちに背を向けて寝た振りをした純子は、熱い血潮を胸に抱いて、なかなか寝つかれなかった。
 それ以来、優しかった賢二が、近ごろ急に冷たくなった気がして、会いたくなったのだった。

 冬というより、今年の春、二人は仲間の宮田と一緒に、上越にスキーに行っている。 二人だけでは許さないと、純子の両親(おや)が反対したので、共通の友だちである宮田を誘ったのだ。
 宮田は、痩せぎすの賢二に比べると、大分年上に見える、よく太った男で、大して小説などを読んでいないのに、 いかにも文学を愛好しているという顔をし、好んで議論をしたがるという、文学部タイプの一人だった。 人の好い男で、害にはならない、賢二にはむしろ、聞き上手の、気の置けない仲間だった。
 スキーに疲れて休んでいると、純子のいないのを幸い、彼らの話は、つい彼女のことになる。
 「俺は、純子さんとこうしているお前が、羨ましいよ。美人だし、なんてたって財産があるからな。 養子だって構やしないさ。お前、大事にしろよ」「何を、大事にするんだ?」 「何をって、つまり、この絶好のチャンスを逃がすなってことだよ」 「俺は、まだそんなこと考えてないよ。第一、結婚なんて思ったこともないし、純子さんとなら、なんてことも考えたことがないよ。 たしかに君が言うように、彼女は申し分ないし、俺を嫌ってもいないだろうが」

 「だったら、なおさらいゝじゃないか」「しかし、相手は重役の娘だ。俺みたいな男が、その亭主になりすまして、遊んでおれるかい?」 「……………」「考えても見ろよ。ああいう家は、世間体がどうの、やれ家柄がどうのという人種さ。 人格を有する人間よりも、全く漠然として捉えどころのない世間様の方が、大事と来ている。 そんな金(かね)縛りの、牢獄のような処へ、おめおめ入って行けるかい」「……………」
 「そんな屈辱に耐えられると思うか! そうでなくても、現代は格子なき牢獄のようなものだ。これ以上窮屈になったら、人間誰だって発狂してしまうよ」 「それもそうだが、じゃあ何故、お前は純子さんと付き合っているんだ?」 「そう言われると弱いんだ。彼女をどうしようという考えもないし、このまゝ、ずるずるやっていてはいけないとも思うが、 正直なところ、どうしたらよいか判らないんだ」

 「いゝ年して、判らないとは無責任なやつだな。お前はそれでいゝかも知れないが、女の純子さんはそうは行かないぞ」 「……………」 「そろそろ真剣にお前のこと、結婚を考えているんだぞ。見合いの話もいくつかあったが、今は断わっているという話だ。 少しは真剣にならなきゃ、彼女が可哀そうだよ」 「それは迷惑だな。俺には、そんな資格はないよ。俺に関係なしに話を進めればいゝじゃないか」
 「お前は、全く無責任だな」 「まだ結婚なんて考える年でもないだろう。海のものとも山のものとも判らない、俺たちみたいなものに期待するなんて、 投機としちゃ面白いかも知れんが、危険だね。日本の因循姑息な企業家に、そんな勇気はないよ」
 「また、お前の勝手な理屈だな。それにお前は、余りにも老成しすぎているよ」 「老成か、それはどういう意味だい?」「振幅の小さいことを言うんだ」「何? しかし……」

 賢二が、何か言いかけた時、純子が跳ぶようにして戻って来た。
 「何の話してたの。いつまでもこんな処にいないで、向うのヒュッテへ行きましょうよ。美味しいおぜんざいがあるんですって。 ねえ、食べに行きましょう。甘い物食べると疲れがとれるわよ」
 純子の出現で、二人の会話は途切れた。しかし、それ以上賢二は、何もいえなかった。 純子に促されて、スキーの道具を小屋に残したまゝ、眩しいゲレンデに出て行った。
 二月も末になると、雪も少なくなり、客もまた疎らになる。ぜんざいは甘かったが、賢二の心はふざけあう宮田や純子とは裏腹に、曇っていた。 また、宮田の言う、老成しすぎているという言葉が妙にひっかゝってもいる。
 ナイター・スキーをすることにして、三人はそのまゝ宿に帰り始めた。 いつまで考えていても仕方がないという、宮田の目くばせに気がついて、賢二も彼らの仲間に加わった。

 村の人々が踏み均(なら)して固めた雪道は、狭くて人ひとりがやっと通れるぐらいだったが、無謀にもそこでかけっこをしようとして、 畑に落ちたり、農家の前では大きな柿の下に雪の玉座を作り、代りばんこに王様と女王様になって、記念写真を撮ったりした。 この時ばかりは、無邪気な連中だった。
 賢二は、この悪戯の共犯者である純子を見て、やはり可愛いと思った。 他人とこんなに息が合うなんて、滅多にないことだと思うと、純子が身近な存在に感じられるのだった。
 彼は考える――俺は、もし純子さんと結婚するなら、今のこういう彼女とであって、世間体を背負った彼女とではない。 しかし、俺は本当に、彼女と、いやそもそも結婚なんて七面倒くさいことを……。
 結婚するということが即ち世間体ではないか。純子さんはどうだろう。彼女は俺の考えるようなことは、全く考えたこともないだろう。 結婚すること、しかも好きな男と結婚するのを当然のことと考えているのだろう。 まだ余り男と接していない彼女は、最初に出会ったというだけの俺を、自分の夢想していた理想像と錯覚しているのではないだろうか。 未知のものに憧れる少女に、冷静な判断ができるだろうか……。

 彼は、それ以上考えるのが嫌になった。行きつく処は、いつも同じだからだ。
 世擦れ(よずれ)していないのはいゝが、現実の男を見る眼がないと、とんだことになる……。 そういう娘の言うことを、親が承知してしまって、こんな筈ではなかったと、あとで言い出しても、もう取り返しがつかないのではないか。 買い被られるのも面映いが、だからといって、自分から値下げするのも、できない相談である。たゞ正当に評価して欲しいだけである。
 賢二が、純子のような清浄無垢の処女性を嫌うのは、肯けないことではない。 なぜなら、中年を過ぎて、老境に入った男たちが、バラの手入れや、盆栽に手を染めるような、代償行為を愛する程に、彼はまだ血の気は失せていないのである。 若者は、破壊を好んでも、愛玩や育成、開花をじっと楽しみながら待つという、趣味はない。 骨董の花瓶を撫で回して、その感触を味わうだけで満足しないのも同様である。

 夜、ナイター・スキーに行った。照明に照らされた夜空から、無数に降り注ぐ、白い花びらのような雪片を見上げながら、 純子は、お空に吸い込まれそうね、と言った。その時、賢二は、海の中のマリン・スノーを思い浮かべていた。 二、三度滑ったが、誰も元気がなく、しばらくいたゞけで、寂しげなゲレンデよりも更に寂しげな暗い田舎道を、三人は黙ったまゝ滑りおりて行った。
 以来、純子はいつも賢二の側から離れなかった。一方、賢二は、それがだんだん鼻につき出すのだった。

 冷たくなったコーヒーを口にしながら、賢二はとうとう来るべきものが来たと思った。 今まで、曖昧な態度で純子に対していたのは、やはり俺の責任だろうか。 しかし、俺は純子と約束を交わしたわけでもないし、まして恥ずべきことをしたのでもない。 嫌いならば、とっくに別れていただろうが、そうでもない。どうしても、純子でなければと考えたこともない。 たゞ付き合ってきたゞけだ。彼女の気持を踏みにじるようなことをした覚えもない。
 今ここで、はっきり結論を出せと言うのだろうか。そんなことは俺には出来ない。 いや、言ってしまってもいい、お前をどうする積りもない、と。しかし、面と向ってそんなことを口に出せるものではない。 それこそ相手の気持を踏みにじることになるではないか。彼女の喜ぶように、貴方と結婚したいと言えばいいのだろうか。 そんなことを言うぐらいなら、死んだほうがましである。

 賢二とて、こんな禅問答のようなことをしていても、一向に埒が明かないのは、承知である。 だが、この場だけでも逃れなければならないと思った彼は、「とにかく、その問題は簡単には答えられないので、しばらく考えさせて貰うよ」と、 歯の浮くようなことを言った。
 それでも純子は、いくらか安心したのか、「できるだけ早く、お返事下さいね。私、楽しみにお待ちしてますわ。 そして、両親にも、はっきり言います。私、来月始めから、休み中ずっと、姉と一緒に旅行しますから、行く前にお聞きして、安心して行きたわ」
 と、心も晴れたかのように、彼女はうれしそうに旅行のプランを話し始めた。
 やれやれと一安心した賢二も、さっきまでの哀れっぽい純子は、どこへ行ってしまったのだろうと呆れながら、上の空で聞いていた。

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