”書くこと” わが若書き・習作『虚構としての時代』その3

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第七章

 その土曜日が来た。
 杉代は、いつもより早めに、目が覚めた。午後、賢二に会うまでには、まだ大分時間があった。 ベッドの上で、大きな伸びをして立ち上がり、頭上の窓を一枚開けると、強い陽射しが、露になった女の、柔かい肌を痛めつけるかのように射し込んできた。 眼がくらんだのか、しばし眼を閉じて、じっとしていたが、やがて、二度三度と深呼吸をくり返した。
 昨夜全部解いて、すっかり気持ちよくなった長い髪に、手をやりながら、それが朝日にきらきら光るのを、彼女はうっとりと眺めている。 そして、大きな鏡台の前に坐ると、丁寧に何度も何度も、その黒髪を慈しむように、ブラッシングを重ねるのだった。 髪はますますつやゝかになり、まるで生きているかのように、波打ち始めた。
 どんな髪型にしようかしら? 杉代はいつになく心が弾んでいる自分に気がついて、鏡の中で、思わずほゝ笑んだ。
 どうして、あの若者と会うことが、そんなに嬉しいのだろうか。どうして、こんな気持ちになってしまったのだろう。女の子なら扱い馴れている積りだわ。 お茶にもお花にも、若い人たちが大勢いるのだから。中には、学生も澄ました顔で習いに来るけれど、作法どおりに指導するだけで、特別扱いをしたこともないし、 個人的に口を利いたこともないわ。男だからと違った目で見たこともないし、第一、年が違いすぎる、まだほんとのお坊ちゃんたちだから……。
 では、あの若者は、どうなのだろう。お稽古をする人たちと同等に見ていないのだろうか。いや、あの写真館に関係があるからだろうか。 それとも、Sさんの家庭教師で、Sさんに羨望を抱いているからだろうか……。どれも真実のようで、どれも当っていないように思われる。
 たゞ一つ、あの歯に衣着せぬ皮肉が、決して的を外れていないということを、悔しいながらも認めざるをえなかった。
 それにしても、いそいそと出て行く、自分の姿を想像してみると、何だか、かつての自分を思い出して嫌だった。 でも、また同じことを繰り返す程、私も愚かではないわと、彼女は自らを納得させるのだった。
 彼女の母親は、元気だったが、夫を亡くしてから急に老け込んだ感じである。孫でもおれば、“話の判ったお祖母ちゃん”という処だったが、 一人娘の彼女が、未だ独身ならば、それも望めない話である。しかし、だからと言って、早く結婚しろなどという、ことを強要する人ではなかった。
 それが彼女には、嬉しくもあったし、またふっと母のことを思うと、可哀そうにもなってくるのだ。 娘のことをよく理解している母親は、女の幸福(しあわせ)が、結婚だけにあるのではないという。彼女もそう思っている。
 何不自由なく育った女が、今更サラリーマンの処へ嫁に行って、こまごまとした毎日の生活に追われて、しかも夫のご機嫌をとらなければならないなんて、 とても想像のできないことだ。それより、こうして一人で、好きなことをやって気楽に暮らしている方が、どれだけいゝか判らない。 時には寂しくて、頼りになる人が欲しいと思うこともあるけれど、それはお茶やお花や、好きな旅行をすることによって、紛らわすことができるのだ。 感傷といえば、これ程女の感傷らしいものもないが、他人に煩わされないことを思えば、それにすぐるものはないだろう……。

 やがて三面鏡の前に坐り直すと、彼女は気を取り戻して、髪を結い始めた。仕事に行く時と違って、楽しみながら結うことができる。 自慢のこの黒髪を結う時、特に女であることの歓びを、しみじみと感ずるのだった。
 襟足は、あくまでも清く長い。綺麗にそろった生え際をさかいに、色白の顔と、その黒髪の対称の見事さは、彼女の美の象徴であった。 しかも、髪が漆黒で長いということは、その美の象徴を、彼女が何年も大事に保ってきた証拠で、それは女にしか判らない、誇らしげな女の年輪であった。
 杉代は、髪を結い上げてから、念入りに化粧する前に、紅茶とサンドウイッチの、軽い朝食をとった。

 賢二は、学校へ来たものの、午前中の授業が休校だったので、時間潰しに、宮田たちと麻雀をした。 まだ出てくる者が少なくて、四人揃えるのがやっとである。何度かやったが、彼は負けてしまった。大した金額でもないが、少し気分が悪かった。 勝負に負けることは、始めから判っているのだ。人生から、半ば脱落しそうになって生きている賢二が、血眼になってやっている連中に、勝てる道理がない。 闘争意欲が、始めからマイナスに働くのである。いや、それがあったとしても、実に些細なもので、到底彼らに太刀打ちできるものではない。 負けることが判っているのなら、最初からやらなければいいのだが、そうも行かないのが、半分脱落しかかった人間の性分である。
 彼は杉代に会うのに、手だけでも洗って綺麗にしておこう、気分もよくしておこうと思った。

 『J』には、賢二の方が先に着いた。そこは、現代における一種の楽園のようなものである。 人工的な、こういう処しかなくなったのは、悲しいことであるが、人間が地上に溢れてしまった現在、もはや地下にもぐる以外にない。
 モダン・ジャズに陶酔しているかに見える連中は、現代の錯雑な世界に、ひとりぼっちにされ、追いやられ、 どこからともなく寄り集まってきた人間たちの固まりで、共通の言葉も、笑いも秩序もなければ、唯ジャズのねちねちとした脂っこさだけが、 彼らを結びつけていた。相変らず常連が来ていた。賢二は、眼で挨拶したゞけで、別の隅っこへ席を占めて、コーヒーを二つ注文した。
 しばらくすると、ピアノの清冽な音色に耳を傾けるようにして、杉代が現われた。比較的ラフな服装で、髪型も大胆である。
 彼は、立って行って席まで案内した。にぎやかな処ね、と坐るなり彼女は言った。賢二は、黙って肯いた。彼は、ひとり賭けをしていたのだ。 コーヒーを二つ注文したのも、そのためである。自分が席に着いてから、五分以内に彼女が来る、もしコーヒーが冷めないうちに来なければ、 その日だけで全てを終わらせる積りでいた。自分のやっていることが、果していゝことか悪いことか、不安だったからだ。
 杉代が現われたのは、彼が来てから三分も経っていなかった。彼女は、そんなことゝは知らずに、二つ運ばれてきたコーヒーを見て、 手回しがよいのね、と驚いたゞけである。賢二は、しばらく黙っていた。賭けに勝ったのかどうか、判断に迷っていた。 余りにもうまく行きすぎる……と思ったからだ。
 当惑しながら、珍しそうに周りを眺めていた杉代も、やがて雰囲気に慣れたのか、正面を向いて坐りなおし、賢二の顔を見た。 小さなバッグから、フィルター付のタバコを取り出して、いかゞ?と言う。賢二は、断わってマッチを擦ってやった。 S夫人の家でも吸っていたことを思い出したが、彼女がタバコを吸うのは、ポーズであると思った。
 そうとでも考えなければ、今この綺麗な女(ひと)を残して、彼は席を立たなければならないからだ。 人間なんて、誰でも、多かれ少なかれ、ポーズを取りながら生きているのだ。この世で、素顔を押し通そうとしたら、一生、生傷が絶えないだろう。 賢二は、自分自身にさえ、ポーズをとり始めた。彼の気持が通じたのか、杉代は二口、三口吸っただけで、消してしまった。
 「この間は、どうも……送って頂いて」「いいえ、どう致しまして。遅くなったんじゃないですか」 「それ程でもありませんわ」「今日はよく来てくれましたね。僕は、後から考えてみて、何か無分別なことをしたのじゃないかと気になっていたんですが」 「そんなことありませんわ。無分別というなら、私の方かも知れませんわ」と、杉代は、悪戯っぽく笑った。
 三十も半ば過ぎの女にしては、彼女は時たま、おやっと思うほど、あどけない表情を見せる。 生活に疲れている人間には、もはやそんな表情は、痕跡(あと)も残っていないだろう。 賢二が杉代に惹かれるものがあったとすれば、恐らくそういう雰囲気であったろうか。 女が、いくつになっても愛されるのは、可愛さを失わない場合だけである。可愛いというのは、子供たちのみの属性ではない。
 「いかがですか、こんな雰囲気? 合わないなら、出ましょうか?」 「そうね……初めてこういう処に来ましたけど、音楽にも、雰囲気にも案外すうっと入っていけますのね」 「だけど、こうやって、陶然としている連中は、悩みも忘れ、不安を忘れているのです。でも、そこからは何も生まれては来ません。 ただ忘れているだけですから……」「じゃ他に眼を向けて、何かを生み出す努力をすれば……」 「それが、できないから、ここにこうやって何時間もいるのですよ」
 杉代には、理解に苦しむことであった。三十分ほどで、二人は外に出た。こういう店は、対話するには、余り適した処ではない。 そこには、孤独ぶった人間が多いからである。
 歩きながら、賢二は「生きていることは、はかないし、何をしても意味がないと思いながら、若者は生きている……。 大人たちは、何か建設的なことをしろというが、大人たちは身勝手である」と非難した。 杉代は黙って聞いていたが、一言「あなたたち若い人の言うことも判るわ、しかし、あなたの言う、大人たちも大変だったのよ」と軽く答える。 世代論になると、やはりギャップがあるのを認めざるをえなかった。

 ぶらぶらと都電通りを越えて、新宿御苑の方へ行った。中には入らず、近くのレストラン“L”に寄った。 がらんとしたホールには、明るい照明に光る鉢植えのゴムの木が何本もあるが、客はまばらだった。
 大きなテーブルを挟んで腰掛けた杉代を見て、さきほどの暗い喫茶店で見るよりも綺麗だと思った。 酔って写真を撮りに来たことについては、もう何も言うまいと思った。大分打解けて来たので、賢二の口も軽くなっていた。
 杉代は海老のフライを、賢二はサーロイン・ステーキを注文した。白と赤のワインが、ぶつかり合ったグラスの中で、ゆらゆらとゆれている。 紅色の唇に吸い込まれたワインは、心なしか早くも杉代の頬に、ほんのりと赤みを浮かばせ始めた。
 「貴女のような美しい女(ひと)が、いつまでも独りでいらっしゃるなんて考えられませんね」と彼は、不躾に言ってしまったが、 杉代は「あら、世の中には、独身主義の方、大勢いらっしゃるじゃございませんか。画家の岡本太郎さんだとか……。私もそのうちの一人よ」と、笑いながら答えた。
 「えゝ、そりゃそうですけど。岡本太郎は、俺のは独身主義じゃない。唯一人でいるだけだと言ってましたが」 「それなら、ますます私、岡本流ですわ」
 「男って頼りない存在ですか。それとも……」「それとも、何?」杉代は、心持眼を大きく見開いた。 「それとも、結婚なんて面白くありませんか」「きっと面白くないでしょうね……。私は余りよく判りませんけれど」彼女は少し言葉を濁した。
 「僕も、つまらないものだと思うんです。なのになぜ、男と女は、そんなに結婚したがるのか、理解できないですね」 「そうかしら……。女って家庭を持ちたがるものよ」 「それじゃ、貴女はどうなんですか……。一人でいるだけで不幸なのに、二人になれば、もっと不幸なことだと思いますが」「……………」
 賢二は、話のつぎ穂を見失って、慌てゝ話題をそらした。
 「今、なにをやってらっしゃるんですか」「私? 余り遊んでばかりいても仕方がないので、昔覚えたお茶とお花の先生をやっているのよ。 余り生徒さんもいませんけど、若い人を見ていると、時々いゝなあって思うことがありますね。貴方もやって見ませんか」 「僕は、そういうのはどうも苦手なんです。じっと正座していなきゃならないんでしょう。あれは惨めです。それに形式を重んずることは嫌いなんです」 「でも、精神修養にはなりますよ。貴方なんか……不安だ、生きる価値がないなんて思っている人に……」「いたい処をつかれましたね」
 ボーイがテーブルの上を片付けると、代わりのボーイがデザートを運んできた。
 「貴女は、毎年うちに写真を撮りに来られるそうですね。叔父はそんなにうまいのですか」 「とてもお上手ですわ。随分前からお願いしているのよ。好い人ですものね」 「でも、今まで一度もお目にかからなかったというのは、不思議ですね」 「あら、藤沢のうちの方でも時々撮るのよ。それに、きっと貴方が、まだ小さかったからじゃないかしら」 「十数年前の写真と比べて、今はどうですか」「貴方は、相変らず残酷なこと、おっしゃいますのね」
 杉代はそう言って賢二を睨んだが、それが本気ではなく、何ともいえぬ美しい、可愛らしい表情であった。
 「貴方は、学校のことを余り話さないんですのね」「えゝ、他人に話す程面白くもなく、また興味もないんです」「それじゃ、月謝がもったいないわ」
 大学生の賢二は、淡いクリーム色の夏服を着て、白いハイカラーのワイシャツに、えんじに白の水玉のネクタイをしていた。 そういうちゃんとした服装に身を包んでいる賢二が、杉代には好もしく思えた。趣味も悪くない。ちょっと女性的に見えるのが、何ともいじらしい。 髪も豊に、独特の分け方をして、自然にパーマがかゝったように波打っている。額も広く、目鼻立ちも端然としていて、絵描きのN嬢に言わせたら、 こういうのをクラシックな顔と言うのだろう。彼女なら、きっと描きたいと言うに相違ない。紹介してあげようかしら。 いやいや、そんな勿体ないことはできない。絵を描かない私だって、じっと眺めていたいわ……。
 もし気が向いたら、お茶かお花を習うかもしれないからという賢二のために、杉代は小型の名刺の裏に、簡単に講習場所と、曜日を書き加えたが、 賢二が来ることなんか、ほとんど当てにはしなかった。それは、彼のイメージから、遠くかけ離れたものだったからだ。
 余り遅くならないうちに、二人は別れた。今度こそ、賢二は東京駅まで、杉代を送って行った。



第八章

 九月から十月始めにかけて、大学は前期の試験がある。 賢二も免れることはできなかったが、別段“優”を取ることに、生甲斐を見出してはいないので、たいがい呑気に過ごしていた。
 菅野のノオトも借りなかった。宮田が親切に情報を提供してくれたし、頼みもしないのに、純子が試験勉強のプランを作ってきて、一緒にやろうと言う。 いつもそうだが、彼はこの“親切”を適度に利用している。そうでもしなければ、女主人のご機嫌を損ねるからだ。
 休みが明けて、旅行の話やら、写真を見せてくれたが、その陽に焼けた顔同様に、旅行の感激が冷めないのか、あるいはどこかに置き忘れたのか、 彼女は、休み前の賢二との約束の回答を、聞き出す様子はなかった。
 比較的よく授業に出ているらしく、小さな綺麗な字でノオトしている。しかしどの科目にも、一度見ただけでは判らない処がある。 授業に出ていても、講義が殆ど耳に入っていない。何も聴いていないからだし、聴いた処で、何の薬にもならないくらい、今の大学の講義は空疎なのだ。 大学は学生だけでなく、教授も堕落していた。
 純子は、尋ねると実に懇切丁寧に教えてくれる。その時、女の最も女らしい面と、嫌らしさが現われて、賢二は、有り難くもあり、有り難くもなしであった。 教師の考え方や、テキストの枠を一歩も出ていない、無味乾燥なことを、女はよく退屈もせずに覚えられるものだと、彼はいつも感心させられるのだった。
 いつだったか、英語を訳しながら、純子がa desperate effortを“必死の努力”と解釈し、他の連中も別に異議を唱えなかったが、 賢二なら、どうしても“絶望的《無駄》な努力”としか考えられない処だ。 それだけ、純子と賢二の間には、埋めることのできない懸隔(へだたり)があった。
 十月に入ると、やや日が短くなり、朝晩も涼しく感じる。気分の落ち着く季節である。 試験の最中だったが、賢二は、三日続けて自分の受ける試験がないので、その日、前夜電話しておいた、杉代の家を訪ねることにした。
 電話したとき、運良く杉代が出て、突然のことで驚いたようだが、それでもいつもの若やいだ声が、耳に心地よく響く。 快諾を得ると、賢二は我知らず小躍りしていた。
 彼は自分のやっていることが、何か道化た、ひょっとしたら笑いを渇望している人に、恰好の話題を提供するのではないかという思いに、 常に付き纏われているのだ。だから、いつでもいらっしゃいとなど言われると、天にも昇る気持になるのだった。

 その朝、新しい黒とこげ茶色のメッシュ服を着た賢二は、十時半ごろ藤沢につき、支線に乗り換え、五つ目で降りた。 杉代と待ち合せるはずだったが、その姿は見当たらず、お嬢さんは、ちょっと買い物に出かけているので、代わりに私が迎えに来たといって仕事着を着た年配の男が、 ねじり鉢巻を取りながら、賢二に挨拶をした。
 彼は当惑したが、こんな小さな駅では、今ごろ降りる若い者は、自分ぐらいしかいなく、何も尋ねなくても判るのだろうと合点した。 男は、額の皺も深く、黒く陽に焼けた、いかにも職人らしい顔をしていた。 長年山野家に出入りしている庭師の源兵衛だと名乗り、仕事用の車に乗せてくれた。 彼の脇に坐り、そのあたりの景色や屋敷の佇まいを見ながら、賢二は、山野家の大きな門の前で降りた。
 お手伝いの女性に案内されて、門を潜ると、小石を敷き詰めた、両側を青い苔に囲まれた細い道が、やゝ曲がりくねって玄関へと続いている。 大きな松の木が、五、六本あり、芝生には先ほどの庭師がもうしゃがみこんで仕事をしていた。
 賢二は、人生とは、彼ら職人のように生きることではないかと思っている。 サラリーマンも、大学教授も、官吏も、みな一様に生活しているが、この職人のように、本当の人生を送っているとは思えない。 腕一本、それにすべてを賭けて“勝負”する。それは板前とか大工とか、そういう職人にしか出来ないことだ。 その他の月給生活者は、何となく、人生を誤魔化しながら生きているような気がする。
 勿論、俺なんか、そのどちらにもなれそうにない……。そんなことを考えながら、しばらく庭師の姿を見ていると、玄関の扉が開いて、 品のいい婦人が出てきた。恐らく杉代の母親だろう。白髪が陽に輝いている。
 「いらっしゃい。川添さんですね。今、杉代が貴女にご馳走しなけりゃって、買い物に出かけてるんですのよ。さあさ、どうぞこちらへ」 「初めまして、川添賢二です。朝からお邪魔しまして……」 「はい、ちゃんと伺っておりますよ。とっても変わってらっしゃる方ですってね、貴方は。杉代がそんなことを言ってましたわ」 「それ程でもありませんが……」「Sさんに英語を教えてらっしゃるそうで、感心ですわね。あの女(ひと)は、ご勉強家でしょう」 「ええ、熱心ですね……。では、お邪魔します」「余り堅っ苦しくなさらなくても、よございますよ。うちは、女ばかりで気兼ねはいりませんから」
 賢二は、中国製の絨緞を敷いた応接間に、独りにされると、杉代に最初に会っておかなくてもよいのかなという懸念が、 杞憂に終ったことを知って安心した。
 ソファに腰掛けている彼の前には横山大観の百号の絵が掛かっている。 背後には、いまは亡き杉代の父山野七蔵らしい肖像画があり、白い髭に紋付羽織袴の姿は、いかにも明治の頑固さと威厳を表しているようだ。 しかし、マントルピースの辺りは、主人を喪って心淋しく、その上の古ぼけたウエストミンスター(時計)も、死への無限の時を刻んでいるかに見える。 久しく使われたことのない、この部屋は調度が豪華なだけに、余計生気を失っていた。

 ノックをする音がして、お茶を持って入って来たのは、杉代だった。 「いらっしゃい。お待ちになったでしょう。急にお電話下さるので、吃驚したわ。お迎えにも行けず、ご免なさいね。少し朝寝坊しちゃったのよ」と、快活に笑った。 口で言う程吃驚もしておらず、賢二はどう応対していゝのか判らない。
 「僕こそ、突然で申訳ありません。試験中で気分的に面白くなかったので、つい貴女に会いに行こうって決めちゃったんです」 「あら、私に貴方のお気分を治せるかしら?」「ご迷惑じゃないかなと思ったんですけど、いつでもいらっしゃいと言われたので……」  賢二は、照れながらも、言い難(にく)いことを一気に喋って、挨拶に代えた。
 「やっぱり、こゝは静かでいゝですね」「昼間はいゝけれど、夜は寂しいわ……」 「あの源兵衛さんは、親切ですね。人間が出来ている……」「そうね。私なんか足元にも及ばないかしら?」 「あゝ、貴女は女性だから、問題外です」「あら、何故?」「女性はすべての枠から食み出(はみだ)しているんです。ですから、比較のしようがないんです」 「随分難しそうね。そのお話、後でゆっくり聞かせて貰いますわ。さあ、お紅茶冷めないうちにどうぞ。 お昼の支度をするんですけど、二階の私の部屋で待ってゝ下さる?」 「そうですね。このお父上に見下ろされていると、何だか恐くなって来ます」 「そうね。この部屋は陰気だわね。こんなの早く下ろせばいいのに。母がどうしてもって、聞かないのよ」
 杉代の部屋は、寝室と居間に分かれている。居間には、本がぎっしり詰まった本棚と、ステレオ、真ん中にソファがしつらえてあって、 背の高いフロアスタンドもある。飾り棚には大きな縫いぐるみの赤い仔熊や仔犬など動物たちが、大人しく遊んでいる。 賢二はそこで、レコードを聞いたり、本棚から何冊か抜き出して、ページをめくったが、大して頭に入らなかった。
 小一時間もすると、昼食によばれた。二百グラムはあると思われるビフテキに、どっさり盛られた生野菜のサラダが見事だった。 話は弾んだが、杉代の母親も交えてなので、自然世間的なこと、とりわけS夫人のことなどが話題となった。 彼は自分のことを、尋ねられるまゝに話した。
 食後、広い庭を案内してから、杉代は、賢二を促して二階の自室に戻った。 打ち解けてくると、気持に余裕が出て、賢二はやっと自然に振舞うことができる。 いろんなものを手にして見た。女性の持ち物は、珍しく興味をそゝられたが、さわることはタブーと思って、それらには触れなかった。
 文学書に交じって、何冊かの哲学や宗教関係の本があった。いずれも少し古ぼけている。 「みんな昔読んだものよ。若い頃、私は夢中だったわ。でも今はもう駄目ね。そういうものは捨てゝしまって、その日暮しをしている……。 何の希望も目的もなく生活するのに馴れてしまって」「貴女のようなお歳になっても、未だ生きる目的が判らないというのは、僕は感動しますね」 「それは、間違っていると思うわ。こんな歳になっても、まだ定まらないのはどうかしているのよ」
 賢二は判断しかねた。彼は、実際それまで二十年間何もしなかったし、また何をしようと思ったこともなかった。 そんなことを言うと、クラスの女の子は、変な顔をしたものだ。そうだ、恋すらも、真剣にしたことはなかった……。 「生きるってことは、本来何の意味もないことかも知れませんね。気がついて見ると、この世に存在しているから、仕方なく生きているというだけことで、 どうしても生きなければ、何かのためになんていうのは、煎じ詰めれば、自分を叱咤激励する口実のようなもので……」
 「でも、生きていてよかったと思う時もあったわ。私たちのように、戦争で青春を奪われた者は、それを取り戻そうと、何かにしがみつきたい、 こゝで死んでは何もならない、という意識が働くのよ。だから、そういう意識のある間は、生きようとする力が随分あったわ」 「……………」「女にとっては、それが親であったり、夫であったり、特に愛する人がいれば、その心の寂しさを癒すこともできるし、 生きる悦びにもなったわ。そういう相手がいれば、女は幸福(しあわせ)に過すことができるのよ」
 「女は女はって仰いますけど、男の場合だって、そうなんじゃないですか。僕の友だちなんかにも、恋人ができて、いずれ結婚するというので、 彼女のために、一所懸命勉強し、良い成績を収め、よい会社に入ろうとするというのです。 つまり、そこに彼なりに生きる目的や歓びを見出しているんでしょうが、そういうのを見ていると羨ましくも思いますが、また可哀そうでもあるんですよ」 「どうして? そんな結構なことってないじゃない。その女の人は幸せだわ」
 「確かに、女の人にとっては、自分のために、そんなにまで真剣なのは嬉しいでしょうし、幸福(しあわせ)でしょうね。 でも、僕にはピンとこない。どうしてかっていうと、その自分の描いた未来図のように事が運べばよいのですが、 いつ彼女が不慮の死を遂げるかも判らないし、また不意に姿を消さないとも限らない」「……………」 「つまり、それまでその男を支えであった当の相手がいなくなったときに、これから先、何のために、何を頼りに、彼は生きようとするのか。 彼女の実在は、同時に彼の実在であったけれど、彼女の非存在は、彼にはやはり非存在なのです。男をにたとえれば、 彼は恋人という太陽がなければ、輝かない存在でしかない……」「男の威厳も何も、ありませんわね」
 「そうなんです。彼はそんな儚いものにしがみついて、満足するぐらい、世界が狭いんです。 でも、そんな男は、結局奥さんの方でもいゝ加減飽きが来るでしょうね。人間は贅沢ですから、どんないゝものでも馴れてくると、有り難味がなくなりますからね」 「そうね。私でも、嫌ですね。男の人は、やはり外で活躍しなくちゃ。女はいつも、ちやほやされる方が嬉しいけど、馴れてしまえば、つまらないでしょうね」
 「貴女は、やはりそういう男性がいゝですか」「実際には、これと思う立派な男性には、なかなかお目にかかりませんわね。みんなコセコセしていて、何の魅力も感じないわ」 「時代が、そうなのかも知れませんが、どれもこれもこぢんまりとしていて、個性がないですね。みんなJISマークつきみたいで」

 彼らの議論は涯(はて)しがない。が、杉代は、思い出したように立ち上がると、キャビネットから、一枚のレコードを取り出して、静かにステレオにかけた。 ジャケットには、アルフレッド・ハウゼの『夜のタンゴ』とある。流れるような、甘美なメロディは、二人を優しく包んだ空気の中に溶けてゆく。
 窓にもたれて聴いていた賢二は、杉代の仕草をじっと見ていた。それに気づいた彼女は、「どうしてそんなに、見つめてらっしゃるの? 恥ずかしいわ」と、頬を赤らめ、 処女(おとめ)のような恥らいを見せた。「今、貴女の顔をじっと眺めていたら、突然ある女の人のことを思い出したんです」
 杉代は、少し顔色を変えたようだった。しかし、すぐに、「よろしかったら、その女(ひと)のことを話してくださいな」と、賢二を促すのだった。



第九章

 賢二の話は、次のようなものである――。
 もう五、六年も前のことになる。今の家に引っ越す前。彼が、まだ普通の少年だったころ、日曜などによく、叔父の家に来る女の人がいた。 どうして来るのか知らなかったが、彼も生意気に、大人の会話の仲間入りしたこともある。
 その女(ひと)は、大分年がいっていたようでもあるし、それ程でないようにも見えた。痩せてはいたが、いつも笑みの堪えないのが印象的だった。 彼は、その女(ひと)が、自分を一人前として扱ってくれることが嬉しかった。その女(ひと)が、好きだった。一緒にいるだけで楽しかった。
 ある日曜日、庭で小さな龍舌蘭を植え替えていると、家の前に車が止まった。あの女(ひと)だと思ったら、やっぱりそうだった。 手に大きなバナナの包みを持って降りて来た。バナナが好きなことを覚えていてくれたのも、彼には嬉しいことだった。
 彼は、日曜日が余り好きではなかったが、今日はその女(ひと)が来るかもしれないと思うと、わくわくして朝から落ちつかなかった。 勉強している恰好(ふり)をしても、上の空だった。来ない時は、どうしたのだろうか。何かあったのだろうかと心配になるのだが、誰にも言えなかった。 来ると、一日が楽しかった。ただ、子供だったので、余り長くは相手にされなかった。
 その女(ひと)は、いつの間にか来なくなり、結婚したらしいという話も聞いたが、よく覚えていない。 しかし、彼はまだ小さくて、外界の目新しいことに、心を奪われる年頃だったので、やがて姿を表わさなくなった彼女の存在は、 障子の向こう側を通り過ぎる、ぼんやりとした影法師のようなものでしかなかった。
 今なら、ちょうど杉代くらいの年齢になっているかもしれない。話す態度、雰囲気などが、とてもよく似ているので、不思議な気がする。

 「そう。その影法師が、もし私だったらどうなさる?」 「もし、そうだったら、こんな不思議なことはないでしょうね。今になって、再び会うことが、予(あらかじ)め決められていたようで……」 「案外、そうかも知れませんわ」と、杉代は意味ありげに微笑んだ。
 その時、ふっと賢二の頭の中に、その影法師が、眼の前にいる杉代にすりかわったように思われた。それは確かに、杉代だった。 大分前のことで忘れていたのだが、そうに違いないと思えてならなかった。
 しかし、かつてのように、甘えること、母性的なものを、前とは違った形で、彼女に密かに期待している、わが心の奥底までは、容易に見通せなかった。
 一方、杉代も、賢二のいう、その女性が、もし自分ならばと考える。そんなことは有り得ないのだが、もし私なら、どうしたゞろう。 やはり可愛い男の子として、一緒に遊んだゞろうか。彼がもっと小さかったら、そうしたかも知れないが、今は立派な大人になっている。 それに第一、私にはそんな経験がないのだから、実際どうしたらいゝのか判らないわ……。
 「さっき階下(した)で、女性は枠から食み出していると仰ったでしょう。あれは、どういうことなの」 「あれは、男が意識的であるのに対し、女性はたぶんに衝動的であるから、計画(プラニング)ができない。 つまり、枠の中に入れておいても、いつ飛び出すか判らないので、同じものとして扱えないということです」 「それは、誰か学者の理論?」「いゝえ、今日こゝで、僕の考えた即興の理論です」「まあ!」「間違っていますか」 「さあ、間違っているかどうか判りませけど、ある程度、真理をついていると思うわ」
 そうはいったものの、杉代は、賢二がこの年頃で、どうしてそんなことまで判るのかと、不思議であったし、またそんな賢二を憎らしいとも思った。
 やがて、陽も西に傾いてきた。小鳥たちも巣に帰る頃となり、賢二は杉代の母親に長居の礼を述べて、彼女と二人、駅までの静かな道を歩き始めた。 京橋でやっているビュッフェ展を観に行く約束をして別れた。

 独り家路につく杉代は、すっかり気分よく帰って行った賢二とは裏腹に、足取りは重く、心も沈み勝ちだった。 何時間も、若い男性と共に過ごしたのは、やはり楽しいことであったし、貴重なことでもあったのに……。 若いに似ず、しっかりした考えを持っている青年。思索的な人間を好む私は、一様に若い人を軽く見過ぎていた嫌いはないだろうか。 でも、彼だけは違うように思えたのは、どういうことだろうか。
 若い男性、いや男の人が、うちに訪ねて来るなんて、最近では珍しいことだわ。 母は別に何とも思わないだろうけれど、私の方はどうかしているんだわ。 彼と話すとき、私はいつも冗談のように、茶化すように話をするのは、どうしてだろう……。
 影法師の女、結婚のこと、男と女のこと、そして、絵の展覧会を見に行く約束までしてしまった。 あの人は、私にだけ喋らせて、現在の自分のことなんか、少しも話さない。 さっきまで一緒にいて、私は一体、彼の何と、どの部分と話をしていたのだろうか。
 あれ以来、男性を受け入れることを拒絶してきた私が、突然彗星の如くやって来た彼に限って、どうして、そのを厳重にする代わりに、 自ら開こうとしているのだろう……。余りに急で、考える暇がなかったからだろうか。それとも“お星さま”に、眼がくらんだのだろうか。 私には判らないけれど……、でも後悔しないわ。

 一週間後、二人は京橋にいた。会場は、雨の日にも拘らず、大勢の人が詰めかけている。 殊に若い男女が多い。賢二は、僕に出来るのは、これぐらいだからと、入場券とパンフレットを買って、杉代に渡した。
 賢二は、早くその会場の雰囲気に馴れるために、一通りざっと観てから、再び元に戻って、ゆっくりと見る習慣がある。 杉代は、何やらメモをとりながら、始めから一つ一つ丹念に観ている。
 ビュッフェの絵は、どれも暗い蒼ざめたような色彩に、生気のない人間の、苦渋に満ちた表情が、執拗に描かれている。 動物たちの残虐な姿、風景画にしても、暗いものばかりである。賢二の好きな、道化師(ピエロ)の絵もある。 うらぶれた人生を、独りで背負っているようなピエロを、それも愛情をもって描いている作者に、彼は共感を覚えずにはいられない。
 『雛鳥を持った女』は、雛鳥の首を締めつけるようにして持った女の、手も足も身体も、老衰の人間のように痩せ細って、 しかも奇矯な声を発しているかに見える。『十字架降下』の、磔(はりつけ)の男を見る女。『魚売りの魚と女』、『裸婦』の、不細工で、醜悪な女。 退屈し切った人生を、なおも生きなければというような『テーブルにひじをかけた女』、『女と鳥』の、怪鳥に犯される女。 それらは、生臭く、醜悪な女の本性を、非情な眼でもって描いている。だが、この作家が、女性を憎悪しているのでないことは、 彼の妻を描いた『アナベルの像』を観た時に判明する。それは、愛するものゝために、筆が鈍っているのだ。極めて人間的な印象である。
 一度観てから、杉代の後を追った賢二は、三階の途中で追いついた。それを待っていたかのように、彼女は小声で、「何だか気持悪いわね」と囁いた。 賢二はしかし、同時代人のこの作家に、共感を覚えているのだ。
 「ええ、でも作者の呼吸が、生々しく伝わってきますね。なんとも表現できませんが、よく判ります」 「それでも、何か救いのない絵ばかりじゃございませんこと?」 「僕の感じでは、作者は、救われないというより、もう救われたいとは思ってないんじゃないですか」 「それじゃ、あんまりだわ。救いを求めて絵を観に来る人ばかりじゃないでしょうけど、展覧会は、観てゝ楽しい方がいゝわ」 「それなら、この『アナベルの像』を、ご覧ください。非情に見えるビュッフェが、こと奥さんの肖像となると、二枚とも、あんなに温か味をもって描いているじゃありませんか」 「……………」
 「貴女の仰る救いというのは、このことかも知れませんが、むしろあれも、他の女と同じように、皺寄せて、苦悩している姿に描いた方が、 よかったと僕は思いますね」「それじゃ、貴方はビュッフェ以上ね」
 四階まで見終わると、やや疲れた二人は外に出て、近くの喫茶店に入った。雨はもう止んでいた。
 「ビュッフェが、ああいう絵ばかり描くのも、それに僕が共鳴するのも、未だ若いからですよ。 恐らく若い時しか、あゝいうものは描けませんからね。年がいってから、自分が道化を演じているかも知れないのに、その姿を描くことは、 悲しくって出来ないでしょう」「それも、そうね」「ですから、若い今はよいですが、もう少し年を取って、彼がどんな絵を描くか、それが問題ですね。 若いというのは、残酷でもよいと思うのです。でも、そこに救いがなければ、誰の共感も呼ばないでしょう」 「私が言った救いというのは、今貴方の仰った意味でゞすわ」「では、僕が未熟だから、貴女の仰ることが判らなかったのですね」
 「そうではなくて、私が年を取り過ぎたのかも知れませんわ。ビュッフェの絵に共鳴するよりも、反撥や嫌悪を感ずるのですから」 「別におかしなことではありません。僕は始めから、そんなのは嫌だとか、駄目だと決めつけられる程悲しいことはないのです。 たとえ反撥されても、一緒に来て下さったことだけでも嬉しいのです」
 賢二が無意識に喋っていることは、ビュッフェの絵の擁護にしても、その他のことも、すべて、自分を理解してもらいたい、という心から発していた。  それは、何度か行動を共にした杉代にも、ようやく判りかけていた。

 その日、杉代はお仕事があるからと、五時前に別れを告げた。賢二は心残りであった。もっと一緒に居たかった。 彼女の家を訪問して以来、一週間というもの、彼は杉代のことばかり考えていたのだ。
 年齢に似ず若々しいこと、個性的なこと、自分が求めていた何かを持っていてくれそうで、そして漠然とだが、自分の気持を温かく受け入れてくれそうで、 そういう安らぎは他の女たち、叔母や昔つき合った絵描きの女子大生や、同級の純子からは、決して得られなかったものが、杉代には感じられるのだ。
 賢二は、自分では気がつかないが、何か母性的なものを求めていたのかもしれない。甘えたいのだ。 しかし、そんな気持を口にする勇気も暇(いとま)もなかった。だが、いまや、杉代なしには生きていけないと思う瞬間がしばしば襲って来るのだった。 それからしばらくして、彼は思い切って杉代に手紙を出した。

 突然お便りするご無礼をお許し下さい。先日はビュッフェ展にご一緒していたゞいてどうも有難うございました。 もっと美しい絵画展だったら、よかったものをと少し後悔しております。
 初めて差し上げるお手紙で、何から書いていゝのやら迷っておりますが、お読みになっても決して笑わないで下さい。
 私は、S夫人の家で貴女にお会いして以来、夜道で出会ったり、喫茶店でお話したり、お宅にお邪魔して、いろいろお話をしていて、 貴女のことが忘れられなくなりました。
 私が貴女に対している時、貴女はいつも和やかで、よく私の話を聞いて下さった。 今まで貴女のように熱心に耳を傾けて下さる人はいませんでした。 そんな人は、この世にはいないものと諦めていましたが、貴女と一緒にいると、私はとても心が安らぐのです。 その時、故郷(ふるさと)を持たない私にも、何だか貴女が故郷のように思われるのです。
 貴女が何度か私の望みを叶えて下さったことを充分感謝しておりますが、これからも同じように、わがまゝな私の相手をして欲しいのです。 私が、貴女のような方に、こんなことをお願いするのはおかしなことでしょうか。 貴女のことを忘れられないなどゝいうのは、許されないことでしょうか。
 あの時の影法師が、どうしても貴女だと思えてならないのです。
 勝手なことばかり書き並べましたが、お返事を心からお待ちしております。  賢二



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