「わが半生の道」 (第一部)

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働きものの父

 明治三十七年十一月三日、私は十日町(新潟県)の小泉に農家の二女として生れた。八十戸ほどの雪国。家族は父(長野徳一郎)母(アイ)姉(ソメ)義兄(林平)である。
 四つ年上の姉は十六歳のとき、肋膜にかかって家族があはてたことがある。昔はよく肺(結核)とまちがいたらしい。じじつ、村にも肺で亡くなった人もあったやうだ。 しかし、当時十二歳の私は田舎者で何にも知らなかった。父は姉の病気を私にうつしてはならぬと、別のところに寝かせた。 私はじっとしておれぬので、姉とまれにけんかもした。姉は弱いし大人しかった。
 新潟は湿気があり、冬は寒いが、夏はむし暑い。母も姉も日光には弱かった。朝も十時頃になると、もう弱っておったやうだ。
 一方、父は元気であった。小さい頃から親孝行であったと人に教いられた。仕事は何でも上手で早かった。朝早く、又日のある間は働いた。 私はよく父に相撲をとってもらった。又天井にも投げ上げられた。かうして元気一杯であったやうである。
 母のお乳の味も知っておる。よくお使いもした。又、人の子供を借りておぶった。そして夕方早く食事を食べさせてもらい、家にかいった。 これは村のならはしであった。家に子もなく人の子を借りて小さい頃から、仕事につくものだとも教いられた。
 百姓はまことに忙しい。毎日手をかければ作物は上出来となる。手をぬかせば、草が生いて実りも少ない。実に正直であった。


百姓の仕事

 父は人との争いもなし、まことに仕事に生きぬいた日々であった。私が十歳位のときに、ひとくは(鍬)ひとくは、広い田を耕やした。田かきは馬を借りねば出来ない。 母の実家は馬を飼っておった。その馬を借りてきて田かきをする。次に初めて苗を植えるのである。
 それで私に他家にやる子だから、何でも出来るやうに教いておかなければといふて、田かきの鼻っとりをさせた。 馬のかほのところにさほをつけて、四角にまはりつゝ、田をならして土を細かくどろどろにするのである。私も父のいふ通りに動いたらしい。
 又男の子を頼んでやってもおった。母も姉も田にも畑にもくはを入れる事もなし。馬を借りて、そのかはり手伝いをする。これは手のおかいしでもある。 実に労働であるが、一度も父の不足は聞いた事もなかった。又蚕も飼ふので、女は家の中での仕事も大切な頃でもあった。男女共に春は忙しいのである。
 人を頼むと、朝食は御はんでなく、アンボといふて米を石うすで粉にして、それをお湯でこねて、アソを入れるときもあり、又、大根の葉をゆでたのを油でいためて、 塩をして味をつけて中に入れるのもある。いろりに火をたいて灰の中に、一度ゆでゝてかはいたのを焼いて食べる。
 火を囲んでの食事は、お米の御はんよりおいしく食べられるのである。一つ又一つ、灰の中から金火箸で出して手にとり、灰を落してお正油をつけて食べる。 これは大豆をやはらかにたき、その汁の中にこうじ(糀)を入れ、豆は半分位に桝の底で動かしながら、つぶすのである。 豆をよくいってからでこなしやすく、塩を入れてしばらく日数がたつとおいしくなるので、手間もかゝるわけである。すべて家で作るので、男女共に忙しく、又なごやかでもある。
 かうして田植えがおはれば、しばらくは百姓の仕事もおはり、次の田の草とりまで、蚕の手伝いや畑の方にまはるのである。 畑から皆できる者、家に背おってかいるものとある。又雨の日のために余分も家におかねばならぬ。 それで葉がしなびたら間に合はづ、きりをかけて、一ヶ所にまとめてむしろをかけて、風にあてないやうにしたり。 又、穴倉と云ふて、床下に穴をほり、そこに入れておくのである。出し入れははしごをかけてあり、四角の穴である。
 三十日か三十五日で蚕はまゆになり、大金が入ってくるのである。玉まゆクズまゆとよりわけて、市場に売り出すとおはりである。
 土地のならはしはどこの家も同じである。かすりのはんてんをき、腰巻をして、実に働きやすく、又美しいみなりでもある。


お正月

 父は村のお宮さんには、正月は一番先にお参りに連れていってくれたやうである。日日よく働き、暮になると、全部一年のおはり、玄関は大戸をしめて人の出入りのないやうにする。 まれに父からお金を借りた人が、かいせないと断りにも来た。
 父は家の不幸のときに、人に土地も全部借金の形に入れたらしいのを、全部働いて元にかへした人であったと聞かされた。 人生はいろいろかはり、決して催促はした事もない人でもあった。
 又お正月はゆっくり休むが、村の大工さんが無二の友でもあったよし。休みには必づたづねておった。その大工さんに家をなほすのも相談して、なほしてもらってもおった。

 肋膜の姉は十日町のおんたけ様とかに頼んで二週間位るすであったが、なほってかいつてきた。私はいよいよ小学校六年生で卒業である。大方卒業である。 高等(小学校)二年まではあったが、数人しか残らない。又十日町には高等三年があった。これは村でまれに一人位はゆくのであるが、田舎に暮らすには余り必要なかった。
 六年生が柘はれば、工場に出る人、又十日町の機屋にゆく人もいる。家の中で機おりも出来るので、全部家にとゞけてくれ、とりに来ての楽の仕事でもある。 一と冬機を織ると百五十円位になった。家にいながら都会の男の人の月給の三倍位になるのである。
 村には婦人会などもやっと出来た頃でもあった。姉は婦人会に入ったが、私はまだまだ子供であった。酒屋のおみよさんが高等二年までいった。 酒井定さんは津田英学塾に入った。榊きくさんは長岡の女学校に入り、一年師範に入り、先生になったやうである。
 家で仕事もなく、官費で師範に入って先生をして暮らす人もあった。夏の休みにかいって来たのを見ると、うらやましくもなった。 友達であるので、「おまいさん学校にいってよかったこっそ」(あなたは学校にゆけてよかった事で)といふた事もある。

 父は家の中の各所にローソクを立てた。三十一日の夜、年おさめである。座敷で角切りといふお膳にお正月のごちそうがのっておる。 これはたしかに一年に一回だったと思ふ。各所に〆なはお明り、飾りのおもちである。おもちを供へる下に敷く紙は、いろいろの竹のもやう松のもやう梅のもやうとおめでたい。 絵を切り抜いたのを頂いて使ふのである。小さい頃ほんとうにうれしかった。八つ頭の大きなお芋のおいしさ、ぼうだらとさき昆布をたいたおへら(タレ)、里芋、とうふいろいろと入れたお壷、沢山あった。
 父は十二時になると、初参りだといふて起こしてくれ、ひしゃくに〆なはは、寒くてこほったときもあった。 「さあ若水を飲んでお参りしやう」と先に立つ、それにつづく。新しいわらぐつも用意して、又わらぼうし。これはすげの入ったのを市から買ってもらふのである。 そして第一番に宮さんにつき、父は村で一番太い大きなロゥソクを買ってきて、お明りを上の方にともした。 たしか五十銭だと聞いた。たいてい二銭位のをあげてお参りするのである。その頃の父の心をたづねもしない、又、教いもしなかったが、感謝の心のお参りであった事はまちがいないと思ふ。

 父は便利なものも一番先に買ってきた。おもちの丸せいろうを買ってきた。みな四角である。 となりのかっか(奥さん)が、一つ三円だと話したら驚き、中に金の棒でも入っておるのかといふた。 次にはなは(縄)ない機械である。値段は聞いた事もなしであった。むしろも、ござも手織りである。 機械なはは米俵を結ぶときので買っておったので、今度は自分でなって売ったのである。たしか一と玉二銭位であったやうに思ふ。


お祭り

 母の里に毎年伊セ平寺にお祭りがある。七月十七日で十七夜ともいふた。高原田であった。必づ連れていってくれ、かいりにお昼をよばれてかいった。 うれしい事であった。又、馬とばせといふて地方から馬を連れてゆき、乗る、走るのである。千手観音様であったと教いられた。
 仁王様の片目がつぶれておる、これは戦争(日清・日露)のときに身がはりになられたのだとも教いられた。ほんとうにありがたい事である。 入口から参道までお店が一杯出ておるので、列をなして沢山の人出である。雪水にラムネをつけて冷やしておる。それを父が買ってくれるのでほんとうにうれしかった。
 次は千手村の市である。これはいろんなものが出て道路で売ったり買ったりのやうであった。それがおはればお盆である。先祖のお墓そうじも大切にし忘れない。 お盆まつりがおはると隣り村の八幡様のお祭りである。花火が上がり、又カサボコ(傘鉾)も出るにぎわいである。
 やがて秋風、蚕もおはりのを飼っておる。まゆを出せば今年のはおはりである。秋のとり入れも始まる。全員朝早く夜も遅く協力一致である、実に平和である。
 使いも全部私の仕事である。又、人は十日町に大根やら野菜を売りにゆく、私もまねしてゆく。一本の大根が一銭五厘であった。 十日町に信濃川があり、秋になると水害、今の台風かと思ふ。川におけをかけてアユをとるのである。見た事もない。
 お箸だけ高いお金を出して買ふ人もあると聞いたが、自分の家の不動産で出来るもので何の不自由もなしである。
 父は又、いろいろ植えた。ぶどうも柿の木に日本ぶどうが出来るが、西洋ぶどうの苗も植へた。 これは前のたな(池の事)の上にたな(木のわく)をかけて、はいづらかしてむらさきのぶどうが沢山出来た。 昔のもゝは枕もゝとか、枕の形によく似ておった。柿もいろいろある。又、栗林もある、梅もある。広い屋敷内に何でも出来るのだ。それを買いに来る人もあった。 父は木登りもした、何でもした。父の偉大さである。


こはい信濃川

 ある日姉と、女二人で十日町の銀行に使いにゆけとの事で、にこにこのたもとの着物を着て出かけた。 橋が出来る事になってはいたがなく、一番川の狭いところに仮り橋が出来た。水は青い、かいりに下を見たらめまいがした。 おそろしさに下駄をぬぎ、はってやっと橋をわたり、おそろしかった。渡し船も出ていた。まゆ市場に売りにゆくのである。ゆれる船はこはいものだ。
 父はにはとりも飼つて玉子を売った。又、よく食べさせてもらった。じやがいものやうに沢山ゆでた。一個が一銭二厘位であった。 父も雪の深い日には、たんぼにタニシをとりにゆきすべり、たな−池の中−に落ち、やっとあがったと話してくれ、ほんとうに安心出来た。神のお救いであったと思ふ。
 父はたばこも吸わない、お酒余り飲まない、全く家のために生れた事と思ふ。四男であって、名は徳一郎と付けられてあった。 母親は又、よい家から来て心の広い人だとも聞かされた。馬も二頭もらってきたともいふ。今も蔵が残っている。


電気がつく

 役場にも使いに行った。父の心の通りに動けた事であった。いきたかったら女学校にもいっていゝよ、ともいふてくれた。 だんだん欲も出てきて、春になっての機織りの代はいらないからと、さっそく女学講義録を注文して一ヶ月分お金を送ったが、いくらも送ってこないやうであった。独学はむづかしい事だ。
 体も元気で朝風が吹くとこはがらず、遠い山にくるみ拾いにこっそり出かけた事もある。昼寝をぬけ出して小川にどぢゃうすくいにゆき、五合位はとれる。 大豆を入れた水にどぢゃうを入れておくのであるが、何のためか知らない。にはとりにやり、玉子を生ませるのである。
 小泉にも電気がつく事になった。天井から長い線である。くるをつけて上げ下げが出来るのであった。それまでは毎日ランプのほやそうじである。 これは手が小さくて入り、又、何か一つ出来る仕事の役割でもあった。初めには電気の玉に付木をもってゆくが、つかぬ。あゝランプではないのだと思った。
 父は病気をした事がない。元気な父であった。母は頭が痛いといふて、よく昼寝もしていた。夏の大根まきは坂を登った上の畑にまくのである。 みじなっはりといふた。たいひを背負ってゆくのだ。又、肥いおけも男の人は毎日かついでの作業も、そうしたものだと思い込んで苦にもせず、愚痴もいはづ、実りを楽しむ、汗を出す姿でもあった。 子も親の姿を見て、ついてゆく日日であった。
 桑もつむ、種をまく。実りのある夏の西瓜を、畑の朝は日光のめぐみ、それをぽんと割ると赤い汁が出る。その場で食べるうまさでもあった。
 かうして、日々の恵みで成長させて頂くのである。親は子を育てると共に、人の道を身をもって教いておるのである。
 春はふきのとうが先に出、葉が出、茎がのびて食卓に。山にはぜんまいが出、採るたのしみ。それを夜なべに、わたをとりゆで、翌朝に日光に干してもむのである。 よもぎも出、これも摘む。冬の食糧にもなり、又すぐ食べられるアンポにもなる、もちにもなる。やがてぜんまいもおはると、今度はわらびである。 これは午後の三時頃がよろしいので採りにゆく。かうして田の幸、山の幸で日々を暮らさせて頂くのであった。
 時には井戸水も枯れる。父は前の稲を考へて井戸も一人で掘ったが、よく水も出た。風呂は井戸ポンブに竹を切ってきて屋根をつき抜けて入れる。 風呂釜は赤金で、口が広く家の中は煙で一杯で、まれにしかわかされない。薪をたき、時間もかゝり、風呂のある日は一人かゝりきりであったのだ。 風呂もわいた家に入りにいったり、又、わかしたときに入りに来る生活であり、なごやかである。

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