「わが半生の道」 (第一部)
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弥彦神社参り
父は私が十九になった事を喜んでくれて、弥彦神杜に姉と参らせてくれる事を考へ、又、家の財産を女の子にも教いておかねばと、山々も境を教いてくれた。
栗も沢山落ちていた。拾いに入った事もないが、人がみな拾ってくれたと思ふ。とても手間もなし、不動産を守る事で充分であった。
山から飲み水をとる人もあって、穴を掘らせてほしいと年貢米一年に三升持ってくる人もあった。
父は全部親が低当に入れた土地も返して頂いた上に新しく二反歩の田も買った。又、村に鉄道を敷くとかで、土地も村のために売った。一坪一銭二厘とかであった。
又、古い家で各所に墓場もあったようだ。又、人の墓守りを今もしておる。
弥彦神社に分家の主人と娘と四人であった。新潟の白山神杜の近くに宿をとり、海の近くであった。東京の大相撲も来ており、砂場をはだしで歩いておった。
植つけもおはる頃から、父は十時頃になるとおなかの具合が悪いと、小じゅはん(十時頃食べる・小昼飯)を食べるとなおるとも話した。
父は倉が欲しくて、下平と云ふところから古い倉を買った。三百円であったやうだ。運んで来て建てまいもした。壁ぬりは倉は十二回とかである。
父は自分で大方やった。無二の友にたのみ、私共には壁土をもたせず自分でぬった。壁板も出来た。
父の一生は希望であり、努力であったと思ふ。一つ心と体でもあった。子として一寸も見逃してはおらぬのである。
私に五年間のそうふ会(相扶会)に入ってくれた、満期もきた、二百円返って来た、お祝いもしてくれた。
こたつは中の間であり、又、座敷にもあった。いろりも中の間から次の間に移った。
夜は稲こぎがおはって、うすひき。まことに人間の労働であった。うすひきは皆で手伝ってひくので、それをとうみ(唐箕)にかけて、その上又、もみをとらねばならない。
米とほしにかけて初めて俵につめるのである。俵あみも冬の仕事である。雪ほりとわら仕事である。
朝五時から父は起きて、にはの石の上にわらをおいて、つちで一こ又一こと打って、やはらかにして、なわにない、又わらじもすっぺもつくるので、
まことに四季それぞれの仕事はたへず、労力である。
又、私共も一寸は遅れるが朝早く起きて火を柘おこして、火鉢に火を入れて機場に登り、とんからとんからと、これも糸の細さを一本づつ織り込んでゆく仕事である。親も子も労働であった。
村の人全部が励む訳ではないのであるが、父は一番励んだ人である。そんな訳でお金の事は父も話さなかった。竹林、しの竹も買いに来た人に売った。まことに安い。
一本は六十銭位であったが、お金箱は昔のまゝであり、銭箱ともいふた大きな箱である。
お金が入ったら、カラリンと投げ込むのである。又、誰でも手を入れて使ふのである。主人だから、又、主婦だからといふ事はない。
入用の金は出し、入った金は投げ入れる、うたがいも又なし、一家の全員は心一つで暮して、なごやかでもあった。
働き又、うまいものを食べる日は、又はら一杯に食べて頼むので、少いとか、多いとかいふ者もないのである。平和である。
貧乏な家もあり、又、豊かな家もあり、困ってじゃうのう(税金)日が来ると借りに来る。父は断わらない。すぐに貸してあげた。
銭箱の前で出すと、とをど(たくさん)銭があるなあといふ。望んだだけ、十円きたからといへば貸してやった。又、家の名で家にも沢山きた。
それを喜んで払ふのである。寺割だ村割だと出費は次々であったが、父は一度も何にもいはづに払わせに、私はいつも使いであった。
まことに正直一本の暮らしの中に育てられたのである。
いよいよ弥彦神杜にお参りで、分家の主人と同年の娘と姉を加へての一泊である。生れて初めて見るのである。白山公園などふじの美しさ。万代橋の広さでもある。
次々と見て宿に泊り、ごちそうが出て寝る事になった。翌日は家にかいるのである。
家から離れ、父も二人の子を初めて参拝に、これは私の十九歳の喜びで、出してくれた父の一心の心でもある。
夕方になって村にかいる。家の明りも見える、父は着がへして風呂に入り、食事も子を待って明りをつけて待つ。
どんなに待ってくれた事かと思ふ。夕食もせず父の立って迎いてくれた姿は今も眼に浮ぶ。子を待って食事もせずに。
待った、遅かったで、大喜びであった。父の待つ心の半分も子はわからないのだ。
父の病気
春も過ぎ父は具合が悪いとの事、仕事は休まず、一寸お腹がすくと悪い、食べたらよいとキカツタの新しく自分で買った二反歩の田にゆき田植へもした。
私もぬかるみの田に鼻っとりもし、腰までずぶずぶと入り、こはかった。
八月になり、本家かぶのご主人が、肥おけをかついだまゝ亡くなった。父はがっかりしたが、本家かぶ同志で葬式にもいった。
人は父の顔色が普通でないと教いてくれた。毎日見る父をそんなに重いとも思はずである。
農閑期、父もゆっくりで休む、人も心配してくれる、医者に見てもらふ。胃拡張といはれたが、まさかと思ふ。これは田舎者の無知である。
日一日と父もかはって来る、毎目背中をさすってあげた。夜は人も寝なければならぬと我慢した。次々に医者をかへた。
手術をしてもつゝみのじやごが腐っての通りで同じ事だといはれた。父は手術してもよい、といふたが医者はとめた。手術によって早くゆくかも知れぬとの事であった。
アンマに毎日来てもらい、父の背中をもんでもらい少しでもらくにと思ったが、アンマも人間である。一時間一円六十銭で疲れて、こっくりをして、もめないらしい。
父ももったいないし、又いねむりをしておってはとやめる事にした。私がかはりにもむ事になった。姉もまれにもんだが、痛くていやだといふた。
さする場所があるのである。毎日、私が父のそばである。父は一言も苦痛はいはない。食欲もなくなり、西瓜、ぶどうである。
もちが食べたいとの事、先生は無理だから、とかしてあげなさいといはれた。十五夜のもちをとかしたが、やっぱりだめ、父は吐き気はなし。
大切の父の体もやせてくる。かなしい、どうする事も出来ないのである。薬をとりにゆく。少しでもきいてほしい一心である。次々に見舞いも来る。父の徳である。
見知らぬ伯父
私共は父には二人の兄弟としか教しいもなし、そう思っておった。ところが、父はおばあさんも亡くなったから、もういゝだらうといふて兄といふ人が来た。
浅川原から五升の酒を背負って、待った父である。やがて来、幾年ぶりかの兄弟であったのかは知らないが、私の十七歳の年であった。
私は長野に一番似ておってかはいゝといった。父は努力で家を建て直したが、伯父は苦しみを忘れて恨み言であった。これは親のした事で、父に同情も感謝もないのであった。
私と姉にはちりめんの半えりであった。伯父は何となくかいっていったが、父はとに角、善根をまいてくれたのだ。
孫もつれてきた。よしおといふ五歳の子であった。文通もなく人の便りと言づけであったのである。子は何も知るはづもないのである。
伯父の心も感謝なしのやうに、子供心に見へた。まれに婦人雑誌が送られて来た。田舎者で読んだ後送って頂いたとも思はない。その月の初めに来るから、これは早く出すのであった。
父の病いは日ましに重くなり、知らせたらとだれかゞ話した。伯父は家から出て、家の物が欲しいと分家の者に話したらしく、財産をわけてくれとか、又仏様にお参りもしておった。
八百円ほど欲しいとかも聞いた。八百円を働く事は田舎では大金であったが、借りていったのである。いろいろ乱れたことである。
あれこれと薬も教いられたが、何も受けつけない。家も父が広げて涼しい部屋に休んでもおった。いくら善良な父でも、世間にはいろいろの心の持ち主がおり、くりかへす事であった。
後とりをもらふ
父も後とりが欲しいとの事で、姉もより好みが多く、来たい人も多く、それはいやであった。分家の人があきんど(商人)で、方々歩く人である。
又にはとりを見に来たといふて様子見にも来た。その人をもらふ事に話が出来た。父の病いが重くて、見舞いの人々も日々多い。
九月に養子を急いでもらった。父は後とりの心配もなくなり、安心してくれた。秋のとり入れもある。
義兄は父なき後の衣類は着せてもらふとの事、母もいろいろ結納の心配をしてはりこんだ。これは長野本家であるからである。かうして、迎いから祝言も二階でした。
十月に入った。父は腹膜炎になって、つらいと云ふ。水をとったらそのまゝかも知れぬと医者はいふたが、気丈の父はいいとの事で、洗面器一杯位、大きな針をお腹にさしてとって頂いた。
これで楽になったといふたが、病気はまた水がたまるのである。分家の者も毎夜来る。
父はしゃっくりが出はじめた。三日位も家の者には二言もいはない。夜も起こさないが、分家の親父には一言「いつ死ぬか」ともらしたそうである。
悲しい事であった。苦しさもかはられない。父の少しでも楽にと、そればかりである。父は徳の人であった。人はいつも離れづ見舞ってくれた。
一度父はいろりにゆきたいと云ふた。横坐りに一度すはった。それがおはりであった。まことに気丈の父であった。愚痴の一つもいはないのである。
きっと神仏にお任せである心と思った。
父の最期
義兄も来、姉は看護もしない。私はつきっきりであった。母は人も来るし、これも大変なことであった。薬も遠くまでとりにいく。何でも出来る事は一心でやった。
日本ぶどうと西瓜だけであった。父は家を片づけてくれと云ふた。これは沢山の米もひいた。
又私に稲を見せてくれともいふた。はぜから一把はづしてきて父に見せた。もう眼は見えないと手さぐりであった。自分が耕やし植えた実りの秋で、それをもっての事であった。
切ない事であった。俵を義兄は車につけて運び出した。
間もなく父は親類を全部寄せてくれといふた。父のいはれるまゝに集ってもらった。義兄もすぐに呼びかへした。全員が床のまはりに集ってくれた。
父は母の両親に「お世話になりました。お見送りしなければならぬが、お先にやってもらへます。勘忍して下さい」といふた。
また集った人々にも「お世話になりました」とお礼をいふたが、子供の事は一言もいはなかった。
やがて手を合せて南無阿弥陀仏ととないてからは、額にじりじりと油汗が流れ、それが父の四十七年の一生のおはりであった。
毎日父と共に寸時も離れづに看護をしてすごした私は泪も出ない。手を合わせての父の最期であった。
一生は短く、努力した父も、神のお召しには人生をさよならである。大正十一年十月二十五日朝九時五十分であった。
兄弟もあったが、一寸私の前で気に入らぬ事をしたので、呼ぶ事をやめてもらった。父は誇りであって欲しいのである。
人も次々に集って葬儀の用意である。さびしい。お見送りである。ごちそうのすしも悲しみの中を独りで家にもちかへる人もあった。
人生は血のつながり、親子の深い悲しみも、他人である人には関係なしであった。
父は相撲が好きで、外の遊びはしない人であった。相撲はどこまでも見にいった。芝居はつくり事である、相撲は自分の力であるからとも話した。
自分の力で生きぬいた事と思ふ。私の体もがっかりして、一ヶ月も休んだ。かいる事のない父である。
人様にはほめられて、次々にお参りに来てくれて、お話をしてくれる度に、父の一生のくらし、新しい泪がわくのみである。
家は義兄の代、母はすぐに全部を任した。母も実にえらい。まはりの恐さに義兄は誘惑される、家を大切に思ふ。よそからの誘惑には負けさせてはならぬと努力である。
母も又姉も何もいふてはならぬ立場である。憎まれ役を私はかって、義兄を誘惑から守らねばならぬ。父の大切に守った後を粗末にしてはならぬのである。
かうして大切な父も土にかへられたのである。
母の入院
家の中はがらりと変ってしまった。朝は遅いのである。柿は出来ても義兄は木にも登れない。全部落ちるのを待つ。又登る人に頼んでもぎとり、それをもらふ訳である。
ぶどうも沢山出来、私は御はんの食べられないほど、木の上のぶどうを食べた。栗林もあっておいしかった。ぐみも出来た。鯉も沢山おった。何の不自由もなしである。
姉は次々に出産である。母も四十七歳のときに子宮筋腫とかで入院をすゝめられた。秋の祭りの浪花節を聞いてからといふた。一年に一度しかない興行である。
いよいよ長岡病院に入院して、義兄と二人で母につきそってゆく。翌目手術である。世間知らづ、叉病人もなく、わからなかった、父の亡き後でもあり。手術室に運ばれた。
麻酔薬の注射も腰にした。こはい事だと思ふ。
義兄がついて手術室にゆく。私は部屋で待つ。秋の葉の散るさびしい頃である。まことに長い事であった。何時間位かゝったのか、母は部屋に送られてきた。
婦長さんが用があったらいつでも私の部屋に来るやうにといはれて教いて頂いた。
母は麻酔が切れた。小用がしたいといふが出ない、真っ赤な顔になって苦しむ。夜のさびしい長い廊下を婦長さんのお部屋に頼みにゆく。
婦長さんも起きて下さったが、疲れてあくびをする。
気の毒ではあるが、又母の苦しみも少しでも軽くしてやりたいのである。膀胱炎を起こすからといわれたが、我慢が出来ないとの事で、導尿をして頂き、次からは出るやうになった。
あおむけに寝たまゝ抜糸まで一週間、腰の痛さ暑さである。手を入れては空気を入れる。インザもあるがこむで無理。代る代るに手を入れかへて、手の甲もはれた。
八月になった。いよいよ抜糸が出来る事になって、横も向けるとの事であった。
苦しさも少しはやはらぎ、二十一目目には風呂も許された。母と一緒に入る。母の体はやせた。母は喜んで入っておる。生きかへった喜びでもある。
お風呂の中で私の体を見た人が、こんなに美しい姿は見た事がないといはれた。自分にはわからない。
「看護婦にならう」
いよいよ病院ともお別れである。いつも下の板張の寝台に寝ておる患者のところを、白い服をきた看護婦が服を一寸あげて棒ぞうきんで掃除をする。その姿に見とれた。
父の亡き後、又母の病気で病める入の苦しさが身にしみた。よし、自分は看護婦にならうと思った。
二十五歳になれば、女も法律で許される。それからにと思ふ、それまでは家の手伝いをする事にした。女学講義録をとって、一寸づゝ暇に読んだ。
ところが義兄が笑った。それで止してしまった。
何にも口に出さづにおったが、山谷のおしのさんが東京からかいってきて、看護婦になっておるよし。又おかつさんもその通りとの事である。
東京には何の伝手もないから頼んで連れていってもらふ事にした。右も左もわからずに、たゞ看護婦になる一心である。
十一月三日御大典の日に親子相談の上、家を離れる事になった。次々に結婚ばなしである。全部断わった。汽車に乗り梨をむいてもらい、落とした。
田舎者で、それを拾ったら、友におどされたのだ、もったいないと思ったが。
小石川のいさし町の看護会の見習生として入れて頂いた。沢山の娘さんがおる。何が何だかわからないが、掃除をしたり、お針をしたりであった。
見習生もおった。食事作りをする人もいた。
これは学校にやってもらっておる人であった。年は若いのである。いつになっても学校にもやってくれない人はかいったり、出て働いたり、これも不思議であった。
井戸の中のかはづである。
いよいよ見習いとして派遣される事になった。これは帝大病院との事。天井の高い暗い広い部屋であった。患者は結核だったとの事。
何も知らず、人に聞いたり見たり、失敗だらけである。
やがて友がやってきて、交代してくれた。初めてなのに結核の重病人で染ったら困ると迎いにきてくれた。別に恐さも怖ろしさもわからぬのだ。
会にかいった。そこへ、東京に住む伯父が砂糖をもって訪ねてくれた。こんなところにおるなと教いてくれた。
病院に入る事をすゝめてくれたが、三年間は長くて三十歳になる。帝大病院である。それで、今のところから出て、本郷にかはり、今度は会員として入ったのである。
家からは旅費と風呂敷に一寸着換えだけもって出かけたのである。それを何とも思はない。
世間の様子も知らないし、又小さい頃から衣服に欲もなし、母や姉が作ってやるといふても欲しくなく、断わり続けたので、別にないのである。
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