「わが半生の道」 (第一部)
「母の手記」トップページへ
前のページへ
不景気、大連にゆく
八王子の会の人が前、大連にいった事があって、こんなに内地は不景気だから、又ゆくとの事で、私も連れていってと頼んだ。
丁度不景気で、大学出は職がなくて困っておった訳であった。家に荷物を持ってかいり、小さい行李一つにして、身軽になってゆく事にした。
家にかいり母は鎮守の森までついてきた。何にもいはない。又私も先を急いだのである。
東京にかいり、友と二人で特急つばめの三等寝台車の客となり、汽車の中で又一人の友にあった。
この人はどこへゆくかも話さなかった。神戸三ノ宮までゆき港にいって見た。船は待っていた。
小さなたこま丸と話されたが、私には大きく思いた。東京駅で見送られておった新婚組も乗った。
海の広さもこはさも考へなかった。黄海といはれ水は赤かった。海の波はあわただしく、酔ふ人も出た。大部屋に寝ておった。
売られてゆく芸者もおったやうだ。いよいよミヤオ島とかいふ島が見え出した。
御主人の待つところにゆく人は念入りにお化粧である。待つ者もない初めての地にゆく事はちょっぴり淋しくなった。
三泊四日の海上生活もいよいよ上陸である。埠頭に働いておる丸い帽子を被った支那人が船の入るのを待っておるのだ。
友は埠頭に、会の人が出迎いておるといふたのだ。会長と手柴さんのやうであった。
馬車に乗り大連、馬糞くさくて鼻につく。馬車と人力車である。本当にいづこの地に来ても、人皆同じである。
御はんも食べられない。一杯がやっとである。私は間食もあまりしないので、食べられないのである。
かうして、すぐ派遣である、馬車や車で。大連は丸いやうであった。見物もしておれない、暇もないのである。
友は仕事がないからといふて、新京に行って見るとの事で一人でいった。
お金が出来る
昭和八年五月三十日に渡満したのである。友とも離れた。一ヶ所に五ヶ月位勤めるので、お金も出来たのだ。
ハワイの正金銀行の頭取の息子さんが嫁をもらい、大連に住み奥さんが腸チフスになって入院。
赤坊の世話に名古屋からお母さんが見えておられる。そこへ私が頼まれていったのである。
洋服だけの生活、寝巻だけ浴衣で、何にもない家の中は広く使われておる。お母さんも洋服だけで、大島の着物一式だけだと話された。
さすがは銀行家である。無駄の金は使はない、使はぬものは買はない理想的な暮らしであった。食事は朝パンに紅茶である。
何かしら母と息子が話があはないのである。別居が親と子を離したのかとも思った。
やがて扶桑丸の二等で、名古屋に赤坊を連れてかいるとの事で、私についていってと頼まれた。昭和九年である。
食堂にはゆかず部屋におった。二等になると大切にしてくれて、食堂に案内してくれる。洋食も苦が手で運んでもらふ事にした。
名古屋についた。広い家であったが、たんすも箱類も何にもなし。部屋はきれいである。炊事場は又便利のものを使っておられた。
押入れの中に行李を入れ、トランクの中に洋服を入れ、一寸も余計の物はなく、手もかゝらずに運びやすいのである。
日本人は食事をきりつめて、死物を沢山もちたい性格である。
熱田様、伊勢神宮にも御主人がつれて案内をしてくれた。お賽銭もあげないのである。実にお金を大切にしての暮らしである。
昔の松坂屋に買物につれていって頂いた。皮の下げるハンドバックを九円で買ったのである。
小泉にゆく事になり、母は初めて、あんなに心配するんでなかったと話した。こんなに早くあへるとは思はなかったといふてくれた。
家は懐かしい、村も懐かしいが、家には一人しかおれないのである。
又大連にかいった。友は新京から電報をくれた。病気で患家に一ト月休養させて頂いて、内地に引揚げるとの事。
日本橋の宿をとって船の旅費も出してあげた。やがて亡くなったとの通知が来たが、お金は失礼した。
友は不幸の人であったと思ふ。親もなく又姉弟はあり東京の江古田にかいったのである。
私は忙しく、毎日を働き通す事が出来、友達が満鉄の消費組合に買物に誘ふのについてゆき、
もみの生地を一疋買ふとの事でお金もないのにと見ていたら、あんた出してとの事で、十二円出してあげたのである。
かへせる人ではないので、そのまゝである。やがて新京にいってコックさんと一緒になったとか。
賢くて、何でも出来る人だが、親もなく病身でもあった。女学校も出ており字も上手であった。
その後はお互いに何の便りもなし、離れ離れてゆく事にもなった。
のびのび暮らす
思いがけない恵みである。名古屋に又かいり、全部の日数は日当をはらふとの事でありがたく頂く。
老人夫婦は息に嫁をもらい、安らかの老後の生活であった。
赤坊を残して滞在中は御主人も人のお世話で、よその娘さんを預かって二ヶ月同居させて、やっとハワイ行の船に上船できる許可がおりたと話しており、
その娘さんを加へて三人の生活であった。
ハワイの正金銀行の支配人であった由、いろいろ明るい方であったと思ふ。きれいの娘さんであった。
かうして送り出すまで家庭教育をなさっての奉仕もなかなか出来ないことである。
大連にかいり仕事は忙しく、遊ぶ暇もない。いづこへもゆかないので会と患家、伊勢町十八番地の近くの浪華通りを夜は歩いた。
店は支那人である。美しい色の幅の広い布に模様、支那服は誠に鮮やかで羨しくほしい心にもなる。
花屋もあり何でもあるが、私は一人身で何にも要らない。
かうして日本人は店を広げ財産も出来、植民地としての幸せである。皆懐かしい同人種である。
実に各地から集まって、四十年もの方もおり、大連草分けとも申しておられた。私は日本の賑やかな東京から移り、うれしい地でもあった。
新潟は生れた地で捨てられないが、といふて、住む所は嫁入りして初めて定められるのである。
それが出来ない心であれば、この地は楽しい地で住み心地よしであった。
市内を回ってみるとまとまった町である。海もあり電車にのり又汽車にのれば、いづこも近くであつた。友とも町を歩いた。よく働き又よく遊んだ。
里の母は無学である。誰れからも懐かしい便りは来ない。自分から懐かしく出すのみであった。
ときおり姉の物、又子供達の物を買って送った。何一つ家から送っては来なかった。
母を思ひ、家を思ふのみである。父の積み重ねで亡くなった後が大切で、自分の力で出来る事をしたいのである。
かうして幾度か夢も見た。家のものを手離す夢であった。その度に案じたが、いはない。これは仏の教いであったと思ふ。
昭和十年、昼間、友とお風呂にゆき、かいりに会長をびっくりさせやうと話して、三人で美容院に入り、
二人は丸まげ私は島田まげにいふてもらって会にかいる。会長は「遅かった、そうか」でびっくり、実に自由の暮らしであった。
これもお金に不自由がなかった賜である。
満妻になれ!?
やがて友が喫茶店に誘った。ついてゆく。男の人がおった。自分の時計を出して見せたりした。何とも思はぬ。二人でかいって来た。
友はその人に又会った由、その時初めて話した。植民地に住む者は満妻をもつのだそうである。
内地に妻子を残して単身である。こっそりと満妻をもつ人が多いとも聞いた。
友は私を紹介したのであった。その人は「誠に申訳ない、あんな心のきれいな人の前で自分の考へがはづかしかった」と聞かされて初めて知ったのである。
それでも世の中を知らぬのでピンとこないのだ。日々教いられるので。無知である。
患家で「なぜ嫁に行かないのか」とおじいさん患者がいふ。「僕が元気であれば放ってはおかない」とも云ふた。
「片輪ではありませんよ」と話した。やがて支店の新京の主人が見えて、ハルピンの眼鏡屋に世話したい、写真をくれとの事で小さいのを渡した。
独身で三十一歳、自分も三十歳になっておっても、今頃まで嫁をもらはぬとは不思議になった。
皆結婚が早いから、一人で一生を暮らす考への私には、そういふ疑いもあった。
患家のおじいさんも五ヶ月で亡くなったのである。
この人は兵庫県の人で昔、家老の家の子を嫁にもらったが、身持ちが悪く金が残らぬとの事で、千円の金を作りたく大連に渡ったと云ふ人であったが、
おめかけさんもあり芸者さん遊びもし、女好きであったとの事。病気中も内地のめかけの所に、毎月八十円を送っておるとの事。
そのお金の捻出は株を売買して儲けて出すのである。毎日株屋から朝電話である。それを聞いて大きな声で繰り返すとちゃんと覚いておるのである。
株屋も毎日来る。高いときに売り安くなると買ってお金は溜ったらしい。
私も色気が出て、一株二円のなまりを百株買はうかとも思ったが、なかなか手づるがわからないままでおはった。
患者が亡くなったので用もなく、会にかいる事になった。
本宅は大山通りである。硝子屋であった。三月のお節句の雛の立派の事。店員も数人、女中二人、子守は車夫の支那人が任されておった。
誠に平和の家であった。大連神社の近くに老人夫婦は住み、ボーイを使っての事、まはりには家作が沢山あった。
旅順の材木屋の未亡人といふ人が家政婦として来た。
お針をして娘を女子大に入れておるとの事。そのときお針をして私も大分わかって手伝った事もある。
いろんな方々に会ふ毎に進歩させて頂ける幸せであった。
断わるつもりが……
七月頃から隣りに住む方とかがお話に来ておった。ところが、私に結婚話との事である。こんなに沢山人もおるのにとも思ふ。
草分けの老人が、日本橋図書館に勤めておる橋本(八五郎・明治二十二年生れ)と云ふ人の細君が亡くなって困っておるとの事であった。
四人も子供があり女中も居つかないとも話しておった。
私には何の関係もなしである。つとめも忙しいのである。毎日毎日、一日三回も来てうるさいからといはれ、断わってきなさいといはれた。
それで稲葉さんが三越に連れてゆくとの事で一緒に出かけた。先方も先に来て、これ又草分けの老人をつれて断わりに来ておったのである。
ジュースを一杯ご馳走になって、いつもの挨拶で「では又」と私が口にしたらしい。それに引っかかった。
「また会ふらしい」となった事を後で知った。私は稲葉さんに義理を立てておはったと思っておった。
ところが、稲葉さんに手紙が来たと持ってきてくれた。
それを友達が見て、何と失礼な事をいふといふていた。私は別に何とも思っていないのである。
又階下にいったら会長がアイスクリームをとって出しておった。本人は何しに来たのか、それも知らないし、また教いもしなかった。
私も別に関係なし、心になしである。
仕事に出て行くので、会には滅多にいない。その留守中にいろいろ話があったらしく、私も子供を見せてもらへましやうといふ外になし。
会長に「一ヶ月ほど同居して様子を見てから」との事で、会長は「失礼な事をいはないで下さい。人の大切な娘さんを預かって一ヶ月も様子を見る、
そんな事は出来ません」と断わってくれた由。女丈夫である。
家政婦を頼んでときどき迎いに来るとの話合いがあったそうで、迎いに来たのでついてゆく。初音町と云ふ所にも初めてゆくのである。
住宅街でだんだんに家も出来ておる。石段を上って家は建ててあった。
二人の子供は風邪を引いたとかでよごれた浴衣をきて、食卓の下に敷くござをもって喧嘩して遊んでおり、押入れは開いたまゝであった。
薄い布団が積まれてあった。又たんすもなかった。家はあるがといふたが、誠にその通りかも知れない。
そんな事も人の事だ。その日はそれでかいってきた。
小母さんにきいても上手に話すのがわからない。又仕事である。かいって来る頃迎いが来た。今度は夜であった。子供は三人であつた。
長男は福井に母親の納骨にいって留守との事であった。電気はスタンドで私のかほの方に向けて、お茶は小母さんが運んでくれた。
福井の豆らくがんとかを出してくれた。固い菓子であった。
さっそく巻紙と筆を出して、住所を書けとの事であり、隠す事もなしで書いた。そうして失礼してかいってきた。
それでも私は何とも思はない不思議さである。
これは次々に他家を勤めの場としておったからとも思ふ。又迎いに来たのだ。今度は先妻の弟と云ふ人もおった。
又福井からかいって来たと云ふ長男も半袖シャツをきて入口でちょこなんと挨拶をした。女中も指宿から来たと云ふ十七歳の太った丈夫そうな娘であった。
同情心から結婚
四人の父子皆、かほのいろが悪い。一人だけ良いかほをしておった。全員を見てこんなにかほいろが悪いのは栄養失調である。
母親がいなくなった子に同情心が起こった。自分も父がいなく、お互へに兄弟のやうに暮らす事もよいかと思って見た。
迷はづにはおれない。大連は住みよい地で離れたくないと思い、断わったら、ここにはおりたくない、二つ心であった。
西田博士が「この頃は長野さんはどうかしておる」といふたとの事で、友も話したらそうかといはれたそうである。
仕事をしつゝ、又肉親の相談相手もなしである。小泉にも手紙は出して見たら、後妻は反対と代筆で云ふてきた。自由結婚も勘当であった家である。
そこへ又、興信所を頼んだと友は聞いており、あんたもとれとの事で、私は知らないので友がとってくれた。
私のことは誠に偽りなしである。一生を通じて正しかった事もわかったのだ。
とうとう返事をしない事は、昔は承知してしまった事である。そこまで考へておる時間もなかったのである。
最後の打合はせにきてくれとの事であった。先妻の弟さんもおり、そのときに「あんたは貧乏くじを引きましたねい」と云へ、
「かうしてもらふ外ないのです」ともいふた。「僕よりも年は下だが、姉さんと呼ばして下さい」とも云ふた。
いよいよ式は九月二十八日との事であった。子供の秋の運動会は二十九日だから、お母さんと皆一緒でいってもらへたいとの事であった。
初めてだから好きにしてきて下さいともいふた。いよいよ仕事も辞めねばならぬ。友はぼんやりわからないでおる私に、いろいろと話してくれた。
布団を買いなさい、三河屋で。式服は鈴木でとの事で、ついてゆく。布団も買った。式服上下帯全部揃いた。
今度は美容院は、一番の東京美容院との事で頼んでくれた。メンスを延してもらう薬を三日分もらったが利かない。
島田を結ふてもらい着物を着るときに始まってしまった。一寸よごしたが着換へである。
たんすも上等のを買った。鏡台は友達が祝ってくれた。そして荷物運びは、先妻の弟さんが運んでくれるとの事であった。
かうして伊勢町十八番地の弥吉ハルさんの座敷に荷物は揃った。
弥吉さんは結婚もしない、そしてこんなことは初めての事であったらしい。沢山の女の人であるから結婚もする。
行李一つで出て行くだけの人もあった。稲葉老人が入って来て、「よくこんな立派に揃いてくれた」と云ふた。
次に「よくいくねい」ともいふた。「おじいさんがゆけと云ふからですよ」といふたのだ。
全部おはって武田さんと云ふ人が見えた。会長は祝いの膳を作ってのお世話でありがたく、荷物は二回に分けて運んでくれた。
弥吉会長と稲葉老人とにつれられて、写真を写すとかで土田写真館に、友達が美容院の人とついてきてくれた。
私も三十歳まで全く自由に暮らし、何不自由も感じた事もなし、田舎者の幸せであったかも知れぬ。疑ふ事もなし。人のいはれるままの人形であった。
二人で並んで写真を写すとき鼓動がした。これで私の人生もおはりか。墓場だなあと思った。淋しいかほであった。
(第一部 おはり)
あとがきにかえて
これは私の母が十五、六年前に書き記したものの一部である。母は今年八十一歳を迎えたが、当時の六十四、五も今から思えばずい分若いといえる。
どのような思いで、原稿を書いていたのか聞いたことはないが、全部で六百枚近くある。これは、その十分の一ぐらいであろうか。
つい先だっての九月二十八日は、母が五十年前(昭和十年)のその日、当時日本の植民地だった満州・大連(現中国・大連市)で、
後妻として“橋本の家に加わった”(本人の表現)日である。
この第一部は、出生からその結婚当日までの三十年間の記録で、もちろん私などの預り知らない時代である。
母は尋常小学校しか出ておらず、しかも新潟訛りが抜けないために、ご覧のように言葉遣いや仮名遣いにクセが出ている。
原稿そのものも読みづらい。改行なしでびっしりと書いてあり、読みながら句読点を打つ位置を誤って、意味をとり違えそうにもなった。
しかし、活字化するにあたって、改行と漢字をやや多くしたぐらいで殆ど手を加えていない。
省略や文意が通りにくいところ、あるいは話がそれることもあるが、いじらない方がかえってその人となりが伝わると思ったからだ。
私が母からこの原稿を預ったのは、もう十数年前になる。東京・杉並に下宿していた時、母が上京して二ヵ月ほど滞在した。
帰ったあとに残された白い、昔の単純な小型トランクを開けてみると、古い手紙類と一緒に入っていた。
だから、預ったといっても、はっきりこれが原稿だ、私の人生記録だというような話はなかった。読んでみたのも、数年前のことである。
これ以降の原稿には、大連時代のその後、昭和十五、十七年の出産、敗戦と混乱、そして二十二年の引揚げ後の苦労、
小浜(福井県、夫の故郷)−新所原(静岡県)−茨木(大阪府)−名古屋と、変転きわまりない生活が記されている。
生きるということは、何がしかの恥をともなうものである。しかし、その証しも必要だ。
本書を刊行するに際して、母なりに抵抗感もあったようだが、最終的には私の提案をよしとした。
母は今でも毎日のように、大学ノートに書き続けている。手紙もまめに書いていたが、近ごろはさすがに少くなった。
これはあまり返事を出さない私の方に問題がありそうだ。
とはいえ、今はただ、母に一日も長く元気でいてもらいたいと願うばかりである。
昭和六十年十一月 調布・国領にて 橋本健午
≪日本経済評論社・刊 限定109部/費用20万円+謝礼2万円≫
前のページへ
「母の手記」トップページへ