「わが半生の道」 (第一部)

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東京の生活

 やがて東京に出て見ても、やっぱり家は恋しい懐かしい。八ヶ月はもつが、八ヶ月になると家にかえり一寸おり、又東京にかいった。 本郷の会は見習生も八人、学校の先生であった入。女学校を出てきた人様々であったが、これもどういふ事で出てきたのかも知らない。
 私は田舎に二十五年暮らして、全く世間知らず、又都会の暮らしであった。長期の学校に通っておる人もあった。 又前に学校はおはった人もおったが、国家試験に通らなかったら看護婦にはなれないのである。
 人の話を聞いたり、又教いられたりしつゝ見習生として一日二十銭の食費を払っての事で、金は考へても見なかつた。心配もしなかった。 これも世間知らずであったが、又ふしぎの事に派遣をして働いた。
 いはれるまゝ、親身になって働くのである。次々にいやともいはずに出てゆき、おはるとかへりをくりかへしておった。 家で父の世話をさせてもらい、次は母の看護であって、いろいろと体験はしたので、役立ったのである。

 家に姉の子が次々生れ、母も子のお産で、心配しておろおろと歩くのみであった。産婆が来、医者が来、そうして何とか無事でもあった。
 長女の和子には産着を作って送ったやうに思ふ。めりんす・下着はネルのときいろ、今でも見せてくれるときもあった。 二女のふじ江も生れたときにはへその緒とか三まはり首にまいておったと、産婆はいゝ、出血も多いともいふて、注射をおいてかいってゆく。
 間もなく姉はあったかくなったといふ。見たら出血である。いそいで産婆のところにいってもらい、おいてあった注射をうった。 産婆がきた、水で子宮も冷やしてあるので、産婆さんがよかったといふて下さった。薬がきいたところに来たのである。 薬がきく事は知ってもいたが、恐ろしさまでは分からなかった。
 かうして生命は助かって安心であった。母の心配を少しでも手伝ふ一心であった。家は出ても、家を思ふ心で一杯であった。

 いよいよ短期の二ヶ月の学校に入る事になった。これもみな人様から教いて頂いたのである。神田小川町三丁目の看護婦学校である。 校長は二木博士、五十嵐先生、又忘れたが、一番人気のある先生の講義を聞くのである。
 お二方共、二木博士の柘嬢さんを欲しく、独学の人との奥方はやっぱり裕福の方を選んで、五十嵐先生のところにお嫁にゆかれたと聞いた。 のちに庁(東京府庁)の防疫課長になられた井口博士となった方である。その二人とも同じ学校に見えておられる不思議さであった。
 井口博士のお話は六百人の生徒も睡む気がさめるのである。私は毎日ひとの黒の袴を貸してもらい、たもとの長い着物をきて学校に人と一緒に通ふのである。皆若い人であった。
 二ヶ月中まさかと思っていたら、「長野さん教壇にきて酸素の吸入の実験をしなさい」との事、何にもわからなかったが立ってゆく。 酸素吸入の口を開き、吸入出来るまでにしたら、よろしいであった。怯いもせずである。
 会員として大部屋のにぎやかなところである。見習生は一室に、一と晩中明りをつけての勉強であったが、会員の方は消燈であった。十時位か。
 友だちが埼玉県の看護婦試験を受けるとの事で、私も連れていってもらへたく、願書を出した。埼玉県庁にいき受けたが、だめだった。 大方の人も出来なかったのである。又やりなおさねばならない。試験は秋と春であった。働きつゝであった。何にも考えずである。若い頃の安らかさでもあった。

 川崎や八王子に仕事にゆき、夜の車に一時間半も乗ってゆくのである。人は夜中でいやだといふ。それで私にまはってくる、いやとは口にした事のない自分である。
 出来る事にいやとはいへない性格である。一番大事なのは雑巾とちり紙で、トランクに入れて服にきかへて出てゆくのである。 遅しと待つ家につく、夜中も寝られないのである。幸いに体は丈夫であった。

 里で用のときは、電報が来る。すぐにとんでかいる。一度は和子が太った子であったが、見たら細くなっておった。 のどが痛いとの事で温湿布をした。昼食を食べて一寸気になり見たら、眼を白黒。 さあ大変となり、分家で雪を糠で囲ってあるのを、いそいでかき分けてもらってきて、次々に和子の口の中に押しこんでゆくうちに、元にかへった。
 驚いたが、神の知らせで助かったのである。心に残る。その後治って丈夫になり、うれしくなった。逆療法であったので、又それで早く治ったのかも知れない。
 家の者とは、外にゆけど、切れる事は出来ない。それで知らせが来る、とんでかいる。一と家の住人である大切さでもある。 日頃は沢山の人も集まる。かはった事が起こったら、他人である。
 家の中は日々平和でなければならぬ。人には情けをかけねばならぬ。受けてはならぬ。なるべく用がおはれば出てゆかねばならぬ身。家をつぐ者は一人なのである。


二つの試験に合格

 いよいよ八王子の方が主になった。伝染病院に二人付であった。友は東京からで交代。「君恋し」のはやったときである。 かごの鳥もさびしかった。東京にかいりたいとの事、又一人でよくなったのである。
 私も試験の準備である。退院した後、二ヶ月勉強する事にした。患者の家で引きとめられた。 家には離れもあり、借家もあり、そこで勉強してくれ、夜だけ泊ってと、机も運んでくれた。弁当を作ってもらっての毎日一人である。
 八王子の米屋で木村屋さん。一人息子一人娘でもあった。奥さんが病人で、府中の大家からお嫁に来たとの事で、倉もならび広い屋敷内であった。御主人もおった。
 腸チフスであつた奥さんも良くなり、後の淋しさであった。七尾といふところに見てもらへと教いられてゆく。受かますといはれた。
 ニヶ月食費もいらずに暮らし、いよいよその日を待つ事にした。会員で机もない、本だけである。一円五十銭で小さな机を買ってきた。便利の東京である。
 食事もお金だけである。夜は外に出て食べてくる。そんなところである。次々に入って食べる。これで皆生活が出来るのである。 田舎生れの私には思いもよらぬ事である。卵を一日二個位のんで、いよいよ今度はうからねばならぬと思った。にぎやかの中でもあった、夜は早い。

 今度は群馬及び東京である。八王子の人もゆくのである。朝早く起きて一番電車に乗って本郷三丁目でおりた道を、両手を広げて通せんぼ、夢中である。 先方に来た電車に乗りたい一心、乗りかへて振りかへって見たらお巡りさんを叩いて通って来た道であった。 上野に五分前に着き間にあった。群馬の試験場に入った、半日書いた。バンを食べて昼からである。頭痛がして食べられない。止めたい。
 止めれば二問でも書かねば、外は百点とってもむだ。がんばらねばならない一心である。又、井戸水の消毒、これは長いなあと思って書き出したのだ。 次は忘れたが、やっとおはって、うかってもうからなくても、今日はおはったのだと東京にかいって来た。皆聞く大丈夫といふてくれたがわからない。
 次は東京だ。その日が来た。府立六中(現都立新宿高校)とかで、八百人もおった。年齢は様々である。
 会にかいったら、群馬から学課のうかった通知がきており、実地の日が書いてあった。勇気が出て群馬にゆき、発表まで二週間であった。 東京府からも通知がきた。次の受験である。その日までに群馬から通知が来て安心だったが、やっぱり欲が出て、東京のが欲しくなった。
 人は一つもうからぬのに、私に欲ばりだと云へ、やめなさいともいふてくれたが、地方のでなく東京のがほしく、次々と病院に行き機械を見て教いて頂いて、待つ事にした。  やがて東京府庁である。ずらりと偉い様方の並ぶところに、次々と通過し、あとはお任せのみとなった。一日に玉子を二つづゝ食べて、いよいよ東京の発表日である。 きたきた。これでやっと本当の看護婦として働ける事になる訳である。


物干から落ちる

 やっぱりうれしく、小泉にいそいでかいる。二貫匁やせておった。家ではもう出てゆかない事と思っておったらしいが、いよいよ働く事に自信が出来て上京した。
 よく働いた。体も元気だったが病人を相手は心が沈む。やっぱり空気が悪いからである。一寸息抜きもしたり、又果物を食べたり、辛い辛い仕事であった。 病気で苦しんでおる人を思へば、何ともいふてはおれん。病人がなほり、家族が喜びである。
 謝礼も頂いた。ほとんど勤めておって、食費も引かれないのである。これは神仏のお加護であったと思ふ。
 川崎病院の外の物干にのぼり、干し物を入れてすべった。丁度三段目が一つぬけておった。まっ逆さまに石の上に。それが両手をついて、頭も打たづ、骨も折らずにすんだ幸いである。
 田舎もので電話は見るがわからぬ。友は自動だから簡単だと話してくれたが知らぬ。見た事もないので、友にかけてもらった。又食事も注文してくれ札を出して頂くのである。
 猩紅熱の病人で、手の消毒である。ブラシでごしごし洗ふのである。爪も短いし、又そのたびごとに洗ふので手もあれた。
 爪の間から、ばいきんが入ったらしく、痛みはれで会にかいった。飯田町の医科大学病院に連れていってもらった。 ところが又指を四本もひょうそう(?*)で次々と染ると聞いてこはくなった。日曜日であり、学生が手術であった。
 麻酔を初めてかけたが、こはくてきかないといふて。きかない事はないといふて手術を始めた。痛くはないがこはいのである。 それで私の体にのっかったり、手や脚を押さへたりで、やっとすんだ。生れて初めてこはいめにあった。友達とかいり電車にのった。
 友達は小石川からかいろうとの事で、そこのところですうっといゝ気持になってわからなくなってしまった。電車を止めてくれて、降ろしてくれた。ほんとうにご迷惑をかけた。
 よその家に一寸休ませて頂いて、お水を下さいとたのんだら、手術の後だから飲んではなりませんと注意してくれた。 一寸坂を登ればよいのだが、気弱の私は歩きたくないといふて、車に乗ってかいった。脳貧血である。それも知らない“看護婦さん”である。 ぶどう酒か何かを飲めばよいともいふたが、お茶を飲ませて頂いた。
 もう病院にはゆけない。それでどうだったか? 伯父が帝大病院の外科の先生に連れていってくれた。 又これが広くて天井も高い。先生も五人ほどおられた。手術をやりなほさねばならぬといはれて、震いてもうこゝにも来まいと思った。
 いつも母と子のやうにしてくれる奥さんが根津ごんげんの家伝薬がよいと話してくれた。そこに行き薬を買ってかいり、毎日はりかへた。医者にこりてしまったのである。


子供の頃の思い出

 いろいろ苦しむ病人を見てもおるしこはい。誰れにも病気はさせたくない。又出来るだけ楽にしてあげたいのである。 しばらくして傷もかわき、はれもとれ、爪もおかしくなったが治った。全くの腰抜けである。父母姉を見て、ますますこはくなった。
 そんな訳で患者には至れり尽せりであったので、何となくお礼も沢山頂いた。物も頂いた。患家は疲れるからといふて食事もよい。 食べられない一心で看護するので、食事は通らない。まことに責任の重い人命のお世話である。かうしていろいろの病院患家と忙しくまはった。

 次には又結婚話である。里の方からもあった。良いところからもあった。一寸も耳をかさないで通した。 昔、私がまゆ市場に従兄弟と二人で見にいった。そこに従兄弟の弟も学校で、同じ家に下宿しておったよし。 秋にきのこがりに来、初めて私が小泉の子である事を知って結婚を申込んだらしい。
 まゆ市場にいったときに見染めたのだと話してくれた。ゆく気もなし、又いってもよいとも思った。 何にもない勤め人で、兄も家から仕送りをしてもよいとか話してもおったが、まことに親類は複雑である。
 私は外孫である。内孫と同じ年でもある。私が出たら家が困ると一寸いふたので、よしゆかないといへ切ったのである。母の立場を考へての事であった。

 村のお寺の寺会もあった。村から二人お給仕に出たやうだ。その中の一人に私もなったのである。 お寺で村の娘さん有志にお作法もあって、その中にも入ったのである。世間知らずで、自分からは進んでゆけないので、人様に選ばれての事であった。

 村の小学校に四月は先生がかわって来る。又雑誌の口絵のやうだともいはれた。それも何か知らないのである。 村で岩田寅二郎さんが、加茂農林学校を出て、先生をしており、村の娘さんに本を読ませる事に努力して、たしか『潭海』と云ふ本らしかった。 その本を読む位で仕事は時間をかけねばならづ、本を読む事もなしである。これが農家の姿である。

 女優さんになったらともいはれた。これもどういふ事をするかも知らない。婦人会も出来た。 都会の学校にいってかいった人は流行の歌をうたい、又お話も上手であった。全くぽかん、ぽかんである。

 学校にはまれにお話に来る。南極探険をした人も見えた(注1)。紡績会社に働きにいった人もお盆にはかいってくる。 あか模様の腰巻をして顔の色は白いので羨しくも思った。これもどんな仕事か辛さかも全く知らないのだ。

 (注1)母の遺品の中にあった十日町市立吉田小学校『百年の歩み』(昭和49年10月発行)による「百年間の学校行事を辿って」の「大正四年三月」の項に「この年から尋常高等科卒業記念写真を撮ることとした」とあり、 続いて「同九月白勢南極探検隊長を招き、その実況の講話をきく」とある≪“白勢”は“白瀬”の誤記か。1912(明治45)年1月28日、白瀬中尉は日本人初の南極探検に成功≫。 さらに「同年十一月十日大正天皇御即位大典奉祝式を挙行し十六日は奉祝旗行列をなす」と記されている。

誘惑の多い東京

 家に好きしておいてもらいる幸せの身には何にもわからぬづくめであった。これは明治であり、又大正であり、全国開けておらないのである。
 看護婦になった人は余りないのである。八ヶ月住むと、田舎恋しやでかいった。自由の職業でもあった。又上京とくり返し、信越線は十六時間である。 そのときはそれでよかったのだが、上越線が出来、十二時間となった。清水トンネルも出来た。
 東京で静かな正月を病院でした事もあった。まれにかいると、いつまでも一人でおる事を心配してくれる人もあった。何にも思はづ平気であった。 川崎だ、荏原だ、蒲田だ、八王子だと各所に忙しい日々であった。
 まれに誘惑もあったが、交代して自分を傷つけづ、又人にもつけたくないのである。口外しなければ、誰れも知らない。 交代を年寄りは察しておる看護婦もおった。これは長年の勤めでわかるらしかった。次の患家にゆく事である。
 こんな訳で東京におると、嫁入りの世話をする人が多い。東京も狭いなあと、田舎者の世間知らずも、東京の水道の水を飲んでわかってきたのである。
 中野の安田様のお家敷にいった。奥様が病気であった。まことに広い住居、庭である。子供も合計六人位おった。女中を一人づつつけてあった。 奥女中炊事二人車夫夫婦、大家族であった。かうした上流の婦人の日々は大変である。 連れ子嫁入りして出来た二人、先妻の子四人。自分の母親には家を持たせて女中をつけての事である。
 かうした暮らしの中は大きいだけである。瓦斯水道から色々払へがおこる事を拝見した。

 船の中で暮しておる人の敷布は刺子であるが、心は清い。
 女医先生が診る。七十三歳であった。私を見て「あんた一生奉仕の出来そうな人だが、私は上野の山下に二十名収容の孤児院を作りたいが協力してくれぬか」と頼まれた。
 でも私はこんなに新潟に八ケ月でかいりたくなるし、又姉の代母も考へる。又生れ故郷の懐かしい野山も忘れられない……。


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