メモ…「母校沿革史」検討の参考として     (その2)

5.旧制から新制へ 高槻中・高校の揺籃期(1)

 「創立十周年回顧」(高槻中學校/高槻高等學校・編1951年10月16日)はB5判、わずか32ページの冊子であるが、簡潔にまとめられている。
 だが、表題などの異同を見ると、創立からわずか10年の間に、大きな変化があったための苦心の後がうかがえる。
 表紙…創立十周年回顧  高槻中學校/高槻高等學校
 目次…高槻 高等學校/中學校 回顧十年
 本文(見出し)…高槻中學校高槻高等學校回顧十年

 すでに間近に迫った開戦前夜ともいうべき昭和16(1941)年4月、旧制中学校(5年制)としてスタートした母校だが、生徒は工場に動員され、 戦場に送られた先生の中には犠牲者も出た。 そして、昭和20年の敗戦で進駐したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の教育政策(六三三制)により、同23年に新制の中学校と高等学校に生まれ変わる。
 これはひとり母校だけが遭遇した問題ではなかったが、これまでの5年制から3年制の中学校と高等学校を併置し、6年間の一貫教育が始まる。 なお、男子のみであることは、当初から変わっていない。ともあれ、戦中も戦後も“私学”の独自性を守るため教育方針を変える意思は、吉川にはなかった。

 では、目次にある項目を並べて見ると、次のごとくである。
 1.(イ)學校創立/(ロ)校舎建築/(ハ)創立当時の職員
 2.戰時下の学園/(イ)学徒動員/(ロ)職員の應召戰死/(ハ)校舎転用
 3.終戰後の学園/(イ)学制の改革/(ロ)学校自治会/(ハ)PTA/(ニ)校舎一部の貸與
 4.(イ)開校以來の入学志願者及入学許可者表/(ロ)開校以來の卒業生/(ハ)開校以來の職員一覧表
 5.本校の現况/(イ)現職員/(ロ)各学年生徒数
 *十年の回顧を機に特に思出される事ども……吉川 昇

 吉川はすでに各地の学校での教授生活は長かったが、新設学校の校長(責任者)となるのは初めてであった。 開校にあたって生徒募集や入学試験のことなど、この「創立十周年回顧」で次のように回想している。

 これについては京阪電車が車内に上品なポスターを掲げてくれたり、標柱を立ててくれたり、並々ならぬ後援をして下さつたことは忘れられない。 このポスターは慥か三年間もその時期になると出してくれたように覺えている。 募集は三月十五日から一週間であつてお借りした大阪高医の門衛詰所(今はない)では、受付第一日は開始前に門外から東への列が八丁畷をなお北に曲る盛況で、 驚きもし心強く思つたことであつた。
 結局受付人員一、〇四九名。入試日二十七、二十九日。試驗場は大阪高医を拜借した。 試驗係が足りないので、学科の方で灘中学から二人、身体の方で茨木高女から二人御世話になつて二百六十名を選抜、 これを五組に分けて四月八日磐手小学校で開校式を兼ねて入学式を擧行、翌日から授業を開始した。
 その頃を思えば自分の学校のようにはぐくんで下さつた当時の高槻町当局、及び大阪高医の御芳志、あれこれと感謝に堪えない。 また生徒が電車内で他の中学校生にいじめられたこと、高槻高小生に道をはばまれて先生が救出しに出かけたようなこと、 いまからはむしろ懐しい思い出である。

6.旧制から新制へ 高槻中・高校の揺籃期 (2)

 初期のころの、学校や吉川校長の指導はどのような状況だったか。
 「教室、廊下の床を乾いた雑巾で磨いた。同級生が机をナイフで傷つけ退学処分になった」(旧2期生)、 「戦時中は兵隊が校舎を半分占領。牛、馬、豚なども飼育されていた」(旧3)、 「ALL木造校舎(クリーム色の板張り)。…廊下は米糠袋でカラブキ。よい艶が出て顔が写るぐらいに磨かれ、普通は校内はほとんど裸足、運動場は大半いも畑」(3期)、 「昭和23年次の高中は特別教室はなかった。設備も水呑み場は井戸で、昼食時にはお茶がなかった」(6)、「冬寒くて震えていた」(7)などと記憶は生々しい。 また、「当時のものとしては普通の施設と思う」一方、「施設は何とか揃っていたが、貧弱だった」と感じる3期同期生もいた。
 英語も担当した吉川校長について…「卒業式の告示の言葉は今も心に残る」(旧1期生/次項7に関連)、 「厳しい中にも生徒を思いやる心情を持っておられた。物事の本質を正確にとらえて教え、そして進むべき方向を示してくださった」(旧2)、 「男らしく、真面目。生徒にも厳しいが自分にも厳しい人だった」(2)、「教えは精神論で、英語の授業では間違って答えるとすぐさま拳骨が飛んだ」(3)、 「『真面目に強く上品に』を強制された」(5)、「立派な教育者で、自分の教育理念をしっかり持っておられた。吉川校長のもとに教職員がまとまっていたように思う。 後年の学校と組合の対立は考えられない」(6)などという当時の様子を伝える(以上、08年秋の槻友会創立40周年記念・第20回総会を前に、初期の卒業生から募集したアンケート回答集より抜粋)。

 ついで、(子息も卒業生という)2回生の思い出話を掲げておこう。
 私は第二回生で、当時無名に等しい本校に入学しました。というより行くところがなかったからで、私に限らず仲間は皆同じようなことだったのです。
 初代校長は当時灘中学校の副校長であった今は亡き吉川昇先生で、独特の教育方針で、私立中学校としてはとても考えられない程の厳格さで、 しかも徹底して生徒を鍛え上げて行くやり方でした。 例えば、学校を中心にして、半径一キロ位のところは登・下校とも全部駈け足、電車内では空席があっても坐れない。 上級生には挙手の礼をし、上級生は下級をいぢめない、などで、これに違反すると退学処分の対象となり、とりわけ、学校の机や椅子、壁面への汚損傷などは即刻退学となった。
 学校での授業も大変熱の入ったもので、休憩時間はほとんどなく、前の時間の授業がそのまま次の授業時間に食い込んで、次の先生が廊下で待たれることは毎度のことであった。 始業式や終業式も極めて短い時間で、その時間を授業に振り向けられていた。 つまり、始業式が数分で終り、すぐ授業が始まり、終業式も放課後行い、全校生徒が一斉に駈け足で下校し、一糸乱れぬ行動を取らせられていました。
 (「本校創設期の想い出」白井武彦(保護者会会報『輪』第36号1983年12月より抜粋)

 吉川校長には「忘れられぬ思出など」という回想記もある。
 ○うちの学校について話す限り自分はいつしか国宝的存在になってゐる。 /○京阪の有田邦敬社長が紀元2,600年記念を思立ち社内の牲川角之助氏の勧めによって昭和16年創立せられたのが本校である。 これが具体化せられたのは現理事長藤堂献三氏当時の高槻町長礒村弥右ヱ門氏によってである。 そしてそれらの人々や役員たちは一切を委せるから立派な学校を作ってもらいたいと言ふのが唯一の希望であった。(中略) /○教育の方針としては「真面目に強く上品な日本人」を育てることであり教育とは信念に対しての強制であると信じ邁進したつもりである。 /○学校については官公立ではあり得ない、私立にして初めて可能な理想へ志した、そして価値があるなら自ら知られる筈と信じてプロパガンダは一切行はず又どちらへも頭は下げなかった。 それで結局その見込が立たないと分れば当然の帰結として自分はやめる覚悟、これを自分では「壮烈な戦死」と考へていた。 これには先生達の協力をまたねばならないから父兄や生徒には強かったが生徒といふ荷物をせおってる弱味で苦しい事がよくあった。(後略) (「槻友会報」創刊号〈昭和43年7月13日〉より)

7.初代…藤堂理事長と吉川校長

 藤堂理事長は学校経営の責任は持ったが、こと現場(教育)に関しては吉川校長にすべて任せていた。 それを裏づける吉川の言葉は、まだ幾つもある。たとえば、第1回卒業式訓辞(昭和20年3月29日)で、卒業生に話した後、保護者に向ってしみじみ語る……。
 本日の式ハ形式一切をやめまして 皆様の外には本校のことを親身となつて思つて下さつて 今日の日を心から喜んで下さる方  即ち本校そして真にありがたく思つてゐる方のうち 昨今の状況の下最寄の方のみに御列席願ひました。
 本校ハ御承知の通り紀元二千六百年の事業として お氣のあつた方々が理想的の中学をとて建てられたものでありますが  しかもその方々ハ 直接教育に携はる私共が十分力を揮ふ事の出来るやうにとのみ考へられ 一切表にお現はれになる事なく  只管固唾をのんで痩蛙奮闘の後援に これつとめてゐて下さるのであります かゝる明朗な仕組の学校ハ公私を通じ おそらく天下にまたあるまいと私ハ信じてをります
 これを思ふとき私は日夜微力に歎じつゝ ぢつとしてゐられない気持にて 心より感謝感激してゐるものでありますが  この点皆様も私と同じ心持をもつて戴かなければならないと思ひます この事ハ卆業生についても同様であります  その方々ハ所謂縁の下にてと申されますけれども 私としましてハ 皆様にその方々を此の機会に御承知おき願はなけれバ  どうしても気がすまなひ そして その中で 唯今ハ備さに創立の御苦心をなめられ その後もずつと蔭となり日向となつて特別の御苦労を重ねて下さつてをりまする  お三人だけ こゝに御紹介させて戴きます 皆様にも卆業生にも初めての御名前があらうかと思いますが お忘れにならないやう願います  それはこゝに出席下さいました
    藤堂献三氏 礒村弥右衛門氏 牲川角之助氏
 御列席下さいました方々に申上げます 時節柄誠に御迷惑とハ存じながら 今日のかしまだちを心から  しんみり見送つてやつて戴きたいとの心可ら 厚かましくも御出ましを願いました 長時間に亘り恐縮に存じました  これで式を終ります ありがとう存じました  昭和二十年三月二十九日 (「吉川 昇先生遺訓集」(高槻高等学校・中学校創立50周年/槻友会第11回総会記念・槻友会沿革史委員会 編集/高槻高等学校同窓会 発行・平成2年10月28日)より、以下同じ)

 昭和22年3月の卒業式でも、吉川は同じように、保護者に向って話す。
 …本校ハ気のあつた人達が一つの楽しみに理想的の中学をとて建てられたものでありまして  一切を学校に委され御自分達ハ所謂縁の下で唯創立の願にそふやうとのみ その生立ちを喜び見護つてゐて下さるのであります  かゝる仕組の明朗な学校ハ公私を通じおそらく天下にまたあるまいと信じてゐます この點ハ皆様も私達も卆業生も共に感謝しなけれバなりません  そしてそのうちにも特に創立以来ずつと中心となつて苦労を重ねて下さつた方を 御本人にハ御迷惑かとも存じますが  さうしなけれバ私の気がすみませんので 此の機会に紹介させて戴きます それハ理事長の藤堂献三氏  それからそれぞれ監事と理事とを願つてゐました 牲川角之助氏と礒村弥右衛門氏とであります …以上お三人 どうかお忘れなきやう願います  卆業生も忘れてハならない 

 さらに、現存する式辞の草稿は、もう一つある。
 …けふは本校のことを親身に考へて下さる方のみに ご迷惑とは存じながら 元気のよいかしま立ちを見送ってやって戴きたい処から  お出ましを願ひましたわけでありますが そのうちに創立以来本校の今日ある礎となってゐて下さる三人の方があります  それはこゝにおいでの理事長藤堂献三氏 今こゝにおいでではありませんが 牲川角之助氏 礒村弥右衛門氏であります  この方々あって始めて 明朗にして 他に多く類ない 強い本校が出来上がってゐるわけであります  保護者であった方も 卒業生もこのお三人の名を忘れないやうに願ひます これで式を終ります  長々ご列席願ひまして誠の恐縮に存じました  昭和二十五年三月六日
 《二人が不在なのは、勅令第二百六十三号第一条による「教職不適格者」とされたため》

 *なお、藤堂理事長による同趣旨の発言は、“16”の中ごろに掲載しております。

8.母校の自己紹介、その“沿革”をたどる

 では戦後(1945年以降)、母校はどのように“自己紹介”をしてきたのだろうか。
 印刷(公刊化)された学校(入学)案内や刊行物にある文章から、校長・理事長名の記載と沿革や教育方針などを掲げる。

1、「高槻中学校入学案内」…タテ19×ヨコ31cm。写真は八丁松原越しの校舎全景

(昭和30年3月に受験する際、私(橋本)の手許にあったのもの。“出願期間”の日にちが修正されていることから、何年か前のものの流用と思われる。まだ、旧漢字仮名遣いも多い)

 記載事項は、一、募集人員 應募人員と考査の結果とを考慮して決定/一、出願期間(省略) /一、出願手続考査料五〇〇円、他は省略) /一、考査 イ 筆頭試問 (国語、算数、理科及身体検査) ロ 期日  ハ “開始時間”  ニ 筆頭用具、辨当、上草履を用意すること/一、合格者發表/一、その他 イ 入学金 二〇〇〇円 ロ 学園費 一ヶ月 一一〇〇円  これ以外にはPTA会費諸活動費一切徴収しない ハ 猶本校の内容その他については本校生の家庭に良く聞きただされたい   ニ“参観懇談の日について”  (尚高等学校の方は募集しません)

 そして、少し間をおいて、参考/本校の方針 として、
 一、眞面目に強く上品な日本人を育てる
 二、大学入学の志望者を對象として義務ヘ育に留まらず、後の高等学校の課程と密接に連繋して学科の内容及びその進度を取捨按排し六ヶ年一貫した教授を行ふ
 とある。さらに後半、上下二段に、37名の職員の「担任学科」「出身校その他」「氏名」が就職順に並んでいる。 筆頭は「英語」「東京高師/文検高教合格」「吉川 昇」である。

2、『大阪の私学』(大阪府私立学校審議会 大阪府総務部教育課1958年発行)

 高槻高等学校 併設 高槻中学校
   校長 吉 川  昇
 学校法人 高槻高等学校  理事長 藤堂献三

 沿革 一、昭和十六年中学校として創立。/一、昭和二十二年新制中学校設置。/一、昭和二十三年新制高等学校設置。
 教育方針 一、真面目に、強く、上品な日本人を育てる。/二、大学入学の志望者を対象とし、学科の内容及び、その進度について高校及び中学を密接に連繋し、六ヵ年一貫した教授を行う。

3、『私学の創立者とその学風―日本私立中学高等学校連合会三十年史』(日本私立中学校高等学校連合会 1977・11)

 高槻中学校/高槻高等学校…写真:校門を背に、校舎(管理棟と高校校舎)
 学校法人名 高槻高等学校/創立者 藤堂献三/創立年月日 昭和15年10月16日
 /理事長 田中忠彌/高校長 松山凌三郎/中学校長 松山凌三郎
 創立者と沿革
 皇紀二千六百年(昭和一五年)にあたり、北摂地方の父兄の要望にこたえ、大阪医科大学理事長藤堂献三氏が、 高槻地区の有志と相はかり多数の人々の協力のもとに創設した。 そして、昭和二三年四月、学制の改革によって、高槻高等学校と高槻中学校とが併設せられ、今日に至っている。
 建学の精神と学風
 「真面目に、強く、上品な国民」を育成するをもって目的とする。
 教育の特色
 大学進学を希望する生徒を入学させ本校中学校・高等学校六ケ年一貫の教育によって、それぞれ大学の研究生活にたえるにたる、 知、徳、体、を涵養することをもって、本校教育の主眼としている。

4、『私立学校の特色 日本私立中学高等学校連合会創立四十周年記念誌』(日本私立中学校高等学校連合会 1987・--)

 高槻中学校・高等学校…写真:学校正面と理事長および学校長の顔
 法人名 高槻高等学校/創立者 藤堂献三/創立年月日 昭和15年10月16日
 /理事長 田中忠彌/高校長 中村幸市/中学校長 中村幸市

 本校は藤堂献三前理事長(元大阪医科大学理事長)が、北摂地方における中学校設置についての強い要望に応えて、 大阪高等医専(現大阪医大)・京阪電気鉄道株式会社及び数名の篤志家の協力を得て、昭和十五年十月現在地に創設した高槻中学校(旧制)にはじまる。
 学校設立の趣意書によると「光輝ある紀元二千六百年に当り、財団法人高槻中学校を設立し………… 教育の普及徹底によりて、国運負荷の大任に堪ふべき人物を錬成する。」と述べて、国家・社会に役立つ人物の育成を建学の精神として発足した。 爾来、教育の努力目標は、誠実・剛毅にして礼節を体得するにあると訓え、質実にして品格ある人材を、多く世に送って来た。
 古来、高槻は京・大阪の丁度中間に位置しており、時代の要請に応じ、重要な役割を果してきた所である。 本校の創設者らは、高槻が「東海道本線および新京阪線(現阪急京都線)に沿ひて交通至便、大阪市より僅々十八分にて達す。」(趣意書に)という利点を十分に承知し、 設立当初より、北摂地方のほか、京都・大阪からの通学の増えることを期待していた。 今日本校生徒約千六百名のうち、六割のものが京都、兵庫、滋賀の他府県から通学していることは、本校の大きな特色である。
 第二の特色は中高一貫教育を新学制施行の昭和二十二年の当初から、忠実に実施して来た、数少い学校の一つである。 中学校第一学年に入学した生徒は、そのまま高校一年に上り五クラス程度の小規模な中学校と高等学校を併設し、入学時より六年先を見通した教育を行って来た。 近年、中高生の急増と中高一貫教育への社会の強い要望に鑑み、中学高校ともに各学年六クラス編成にしている。
 本校生は、すべて大学進学を希望するものであり、従って中高一貫の特色を生かし、大学進学を重視した先取りの教育課程を課して、基礎学力の充実をはかっている。 他方、道徳教育、クラブ活動も大切にして、調和のとれた全人教育にも十分配慮している。 特に、中学時代にはできるだけクラブ活動に参加して、体力・気力を練り、実践力を養うように心掛けさせている。
 普通科の男子高校として、進路志望達成に職員、生徒ともに努力を惜しまないのは当然のことで、「進路の手引き」(第一・第二集)を作製し、 これをテキストに進路指導を行って、進路の選択に悔いを残さないよう指導に時間をかけ、更に保護者にも年に二度、三度と進路講演会を設けている。
 また、近年教育環境の整備につとめ、昭和四十八年に中学校舎を、同五十五年から六十年にかけて、高校校舎・管理校舎・体育館・武道館・クラブ部室棟を増改築して、 必要な施設を完備し、学校の面目を一新した。

 1〜3には「真面目、強く、上品」が掲げられている。しかし、“3”の「創立者と沿革」は全体に舌足らず、字数制限でもあったのだろうか。 一方“4”は長文であり、趣旨は『50年史』(1990年)の「刊行のことば」に引き継がれている。 なお「財団法人高槻中学校を設立し…………教育の普及徹底によりて」の“…………”とあるのは『45年史』にある“趣意書”を受けての省略なのだろうか(後掲“19”参照)。

9.「沿革」には何を盛り込むべきか

 母校の『45年史』p22に記されている「沿革」は次のとおりである。
 沿 革
 昭和15年 紀元貮千六百年を記念して、藤堂献三は「国運負荷の大任に堪ふべき人物」を錬成するため、 醇朴清新の田園都市高槻に財団法人高槻中学校を設立した。
 これはまた地元における入学難緩和の一助ともなった。
 本財団法人高槻中学校の設立には、藤堂献三・坂野鐵次郎・佐竹則蓊等から多額の私財の寄附を仰ぎ、 財団法人大阪高等医学専門学校(現大阪医科大学)並びに京阪電気鉄道株式会社等から財政援助を受けている。

 これは、『45年史』が作られた昭和60年の記述で、「紀元貮千六百年」という表記や「錬成」「醇朴」も“趣意書”(正しくは「設立理由書」)そのままである。 さらに、どのような教育がなされたのか。文意は次の内容しか盛り込まれていない。
 ア)いつ、だれが、どこに、何のために中学校を設立した。/イ)それは、少し役に立った。/ウ)設立の際、複数の人間や他の財団や電鉄会社からも多額の援助を受けた。
 さて、その後はどうなっているのか。『50年史』や『60年史』に、その記述はないが、『45年史』につづく、理事長田中忠彌による“刊行のことば”「創立50周年をむかえて」および同“60年”を読めば、 創立当時の寄付金の額をはじめ、卒業生の数や入学者の増減など具体的数字が羅列され、かつ校舎の新改築に力を注いだことが分かる。 反面、教育内容や学生たちの進路状況などについては希薄との印象を受ける。

 現在はどうか。インターネット「学校案内―高槻高等学校・中学校 公式ホームページ―」にある「あゆみ」……。 タイトルの印象としては、“人物よりはモノを作る”ことが伝統のように見える!?
   あゆみ 常に未来を見つめる学校づくりの伝統が受け継がれています。
 本校は、藤堂献三元理事長(元大阪医科大学理事長)が高槻地域の父母の強い教育要望に応えて有志と相はかり、多数の方々の協力を得て、 昭和15年10月現在地に創設した高槻中学校にはじまります。
 昭和23年の学制改革後は、高槻高等学校と高槻中学校を併設して、大学進学をめざした中高一貫の教育を忠実に実践し、教育効果の向上を図ってきました。
 昭和55年高校校舎、57年管理校舎、59年体育館・武道館、60年クラブ室を増改築、平成12年中学新校舎が完成、さらに14年に図書館を増改築し、 図書・総合教育センターを新設するなどの教育環境の整備に努めてきました。 旧制中学時代からの進学校の良さと個性重視の教育を伝統として受け継ぎ今日に至っています。

 では、参考までに吉川昇の前任校灘中学の「沿革」をあげておこう(同校HPより)。
 灘中・高等学校は昭和2年10月24日、灘五郷の酒造家両嘉納家及び山邑家の篤志を受けて旧制灘中学校として創立されました。
 創立に当たっては、嘉納家の親戚で、当時東京高等師範学校(現筑波大学)校長兼講道館館長であった嘉納治五郎先生を顧問に迎えて尽力いただき、 校是にも柔道の精神『精力善用』『自他共栄』を採り翌3年に開校の運びとなりました。
 灘校の教育の基本を確立したのは、嘉納先生の愛弟子として初代校長に就かれた眞田範衞先生で、先生は灘校の『教育の方針』を定めるとともに、 自ら校歌・生徒歌も作詞されました。
 戦後、灘中学校は旧制中学の優れたところを引き継ぐべく、中高六箇年一貫教育の灘中学校・高等学校として再出発し、 全国的なレベルにあったスポーツに加えて、学業でも昭和40年代には全国屈指の進学校へと躍進を遂げてきました。 一学年あたり200名そこそこの小さな学校ですが、創立以来のリベラルな校風と学問への高い志の下に質の高い教育を目指しています。

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