メモ…「母校沿革史」検討の参考として     (その3)

10 編集「後記」が物語るところは

 これまで検証してきた『45年史』における、編集責任者の言を聞いてみよう。
  後 記
 本年、創立45周年を迎えるに当り、新校舎等建設事業の完成を記念して、高槻高等学校45年史が発刊されることになった。
 編集の方針としては、現存する資料に基づいて、本校の創設と発展のあとを、教育条件の整備を中心にして辿ることにし、個々の業績・思い出等は割愛した。
 資料の収集には永い時日をかけたが、未だに凡てが判明したわけではない。しかし記載した事実は凡て実録に基づいている。
 創設当時の資料が最もよく揃っており、終戦前後のものは、殆んど入手できなかった憾みがある。 資料のうち、その取扱いの判断に迷う場合は、文部省や大阪府等と取り交わした公文書の記載を優先した。
 本誌《史?》をまとめるに当って、多くの方々のご助力を得た。 ことに写真の多くは卒業生のアルバムから、また新聞からも収録し、資料・原稿の提供には教職員の助けを受け、 なお編集に当っては大阪医科大学の協力を得て、成松正治庶務主任の指導・助力を受けた。しかし、遺漏・誤記を免れまい。 今後の年史において訂正して行きたい。
 ここに、改めて各位に深く感謝の意を表する。
    昭和60年8月31日  編 集 中村 幸市/定政 熊雄

 この「後記」に関連して……。ふつう、年史は10年、20年というように節目(10年ごと)に出されるもののようであるが、 20年も30年、40年もなかったのは、どんな理由からだろう。 いきなり45年史というのはオカシイわけでもないが、その理由を述べるのが、年史の要諦ではなかろうか。 学校の“歴史”は日々続いており、それを語らなければ“校史”としては、あまり意味がないと思われる。
 この「45年史」の“本校の年表”欄にあるのは理事や教職員の就退任に、中学高校別の卒業入学の人数だけであり、 その横にある「当時の背景」は国内外のトピックのみで“学校での背景”はない。 ただし、「50年史」の目次を見ると「紛争の嵐の中で―昭和30年代後半から昭和40年代後半にかけて―」とあり、 その本文の見出しが「紛争の発生」「生徒数の激減」に「財政の悪化」「漸く安定化へ」となっている……。

 「後記」に戻って、「創設当時(1)の資料が最もよく揃っており、終戦前後(2)のものは、殆んど入手できなかった」とある。 (1)は昭和15〜17年ごろ、(2)は昭和20年前後をさすと思われる。もっとも、(2)は多くのものが消失(焼失)したから仕方がないと、 “終戦直後の混乱”などという日本人の諦念に期待するフレーズで言い換えられる時代でもあった。
 それはともかく「記載した事実は凡て実録に基づいている」と断っているが、これはドキュメントを作る際の鉄則であり、わざわざ口に出していうほどのことではない。 まさか、その前の「個々の業績・思い出等は割愛」したと連動するわけではないだろう。 あるいは「教育条件の整備を中心にして辿る」ことにしたから“割愛”したのかもしれない。
 だが、45年の歴史を誇る学校(=教育)が、“ハコもの”だけで語れるものかどうか。

 もう一度「個々の業績・思い出等は割愛」について…前述(1)は「よく揃っており」、(2)は「殆んど入手できなかった」そうだが、 終戦前後のものが、ア)まったく無かったのか、イ)入手する努力をしなかったのか、ウ)存在は知っていたが、 それを公表すると“ハコ”の存在が空しくなる、からだったのろうか。
 また「その取扱いの判断に迷う場合は、文部省や大阪府等と取り交わした公文書の記載を優先した」という表現も歯切れが悪い。 事実を率直に述べたのかもしれないが、わが国ではお役所がイチバンであり、“取扱いの判断に迷う”ことなどないのではなかろうか。

11「国運負荷の大任に堪ふべき…」の出典

 学校に限らず、設立趣意書は常に時代を背景とした、時の政府(お役所)に気にいられるような趣旨をならべるのは当然のことで、 後代の人間がその事実を否定することはできない。とはいえ、時代状況に応じて見直すのは必要かつ責務でもあろう。
 母校の石碑“建学の精神”は設立“趣意書”にある文章から、「國運負荷の大任に堪ふべき人物を錬成する」(『高槻高等学校45年史』p22)を借用したものといえる。
 だが、この「國運…」は藤堂理事長のオリジナルとは決めがたく、高槻中高等学校職員組合編「私たちが綴る 高槻高校の六〇年(1)」(2004年2月25日発行/p19) に記録されるように青少年學徒ニ賜ハリタル勅語にその根拠を見ることができる。 ただし、これは昭和23年の国会決議で失効したモノのひとつである(次項“12”参照)。

 ついで、昭和15 年12月24日の大学向け文部省訓令に、さらに具体的な文言がある(後掲)。 それにより、“大学”はどのように対応せざるを得なかったのか。たとえば、
 (1)「…大学においても前記の教育目的を果たすことが求められ、1940年12月の文部省訓令では、大学教授に研究者としてのみならず教育者としての責務を果たすべきことが強調され、 『国体ノ本義ニ則リ教学一体ノ精神ニ徹シ』『師弟同行ノ間ニ学生ヲ薫化啓導シ学徳一体ノ修練ヲ積マシメ負荷ノ大任ニ堪フベキ指導的人材ヲ育成スルニシカルベシ』と説かれている。 また右翼陣営による大学批判も激しく、大学の教育は変化せざるを得なくなった。…」 (当時の、「金沢医科大学」に関する書籍(pdf)の一部から引用。なお、医科大学の教育内容の制度的変化は医薬制度調査審議会の答申による、ともある。 ――「第3章 戦時体制から新制大学の発足に向けて」p296)

 (2)「…曩(さき)に文部大臣が我々大学に職を奉ずるものに向って訓令を発する処があり、(中略)。 我々教職にあるものは須く国体の本義に則り教学一体の精神に徹し愈々教育者たるの自覚を振起し師弟同行の間に学生諸君を薫化啓導し、 学徳一体の修練をつましめて負荷の大任に堪ふべき人材を育成致し度いと思ふのであります。…」 (当時の、「長崎医科大学」に関する書籍(pdf)の一部から引用。――「第九章 長崎医科大学」p783)

 2件とも医科大学の例である。中学校である母校は対象外のはずだが、申請は昭和15年7月30日、設立認可は同年10月16日、ともに文部省訓令が出される日より早い。 大阪医科大学理事長兼務の藤堂理事長は事前に知り得る立場だったのか、偶然だったのか。

 上記のように、大学が対応を迫られた文部省訓令は、次のとおり。
 「◎文部省訓令第二十九號」…官報 第四一九一號 昭和十五年十二月二十四日 火曜日
 二九 大學教授ハ國ヘノ本義ニ則リヘ學一體ノ精神ニ徹シ學生ヲ薫化啓導シ指導的人材ヲ育成スベキ旨ノ訓令
 帝國大学總長/官公私立大學長
 大學教授ノ學生ヲヘ授シ其ノ研究ヲ指導スルニ當リテハ國家ニ須要ナル學術ノ蘊奥ヲ攻究スルト共ニ 常ニ國家思想ノ涵養及人格ノ陶冶ニ力ムベキモノニシテ大學教授ガ研究者タルト同時ニヘ育者タルノ責務ヲ有スルモノナルコトハ言ヲ俟タザル所ナリ
 仰《抑?》々ヘト學トハ本来一ニ帰スベキモノニシテ之ガ分離對立ハ諸弊ノ源由ヲ成スモノト謂フベシ大學ヘ授ハ須ク國體ノ本義ニ則リ ヘ學一體ノ精神ニ徹シ愈々ヘ育者タルノ自覚ヲ振起シ師弟同行ノ間ニ學生ヲ薫化啓導シ學徳一體ノ修練ヲ積マシメテ 負荷ノ大任ニ堪フベキ指導的人材ヲ育成スルニ力ムベシ
  昭和十五年十二月二十四日 / 文部大臣  橋田 邦彦

12 参考資料「青少年學徒ニ賜ハリタル勅語」「教育勅語失効に関する決議」

◎資料1「青少年學徒ニ賜ハリタル勅語」

 國本ニ培ヒ國力ヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトス任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ  而シテ其ノ任實ニ繋リテ汝等青少年學徒ノ雙肩ニ在リ  汝等其レ氣節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今ノ史實ニ稽へ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシテ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ  各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ氣風ヲ振励シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ   昭和十四年五月二十二日

◎資料2「教育勅語失効に関する決議 1948年6月19日 衆議院本会議」

○山下榮二君 議事日程追加の緊急動議を提出いたします。 すなわち、松本淳造君外三十四名提出、教育勅語等排除に関する決議案を、委員会の審査を省略してこの際議題となし、 その審議を進められんことを望みます。
○議長(松岡駒吉君) 山下君の動議に御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(松岡駒吉君) 御異議なしと認めます。よつて日程は追加せられました。
 教育勅語等排除に関する決議案を議題といたします。提出者の趣旨弁明を許します。松本淳造君。
    〔松本淳造君登壇〕
○松本淳造君 私は、各派共同提案であります教育勅語等排除に関する決議案提出にあたりまして、その趣旨を弁明いたしたいと思うものであります。
 申すまでもなく、永い間わが國民の精神を支配していました教育勅語等を排除するというのでありまするから、 その影響するところはかなり甚大であると思うのであります。 從つて、この問題につきましては、すでに文教委員会等におきましても数回にわたる会合をもちまして、 きわめて慎重に審議いたしたわけでございますが、その結果、本日首題の通り、教育勅語等を排除するという決議案提出に至つた次第であります。 なおこの教育勅語等の等でございますが、これは教育勅語に類する、主として教育関係の勅語、詔勅、これらを意味するものでございまして、 すなわち陸海軍軍人に賜りたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜りたる勅語等を指すのであります。 この点、あらかじめ御了承おき願いたいと思うものであります。
 まず主文を朗読いたします。

 教育勅語等排除に関する決議
  民主中和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。 これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。 しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、 今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。
  思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、 且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に從い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、 その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
  右決議する                        
                (中略)
○議長(松岡駒吉君) 採決いたします。本案は可決するに御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(松岡駒吉君) 御異議なしと認めます。よつて本案は可決いたしました。
 この際、文部大臣より発言を求められております。これを許します。文部大臣森戸辰男君。
    〔國務大臣森戸辰男君登壇〕
○國務大臣(森戸辰男君) ただいま本院の御採択になりました教育勅語等排除に関する決議に対し、 私は文教の責任者として深甚の敬意と賛意を表するとともに、一言所見を申し述べたいと思います。
(後略)


13 学校創立者と“ことば”の解釈

 08年11月、第20回槻友会総会懇親会の翌日午後、何十年ぶりかで母校を訪問した。
 驚いたことといえば、省線(現JR)高槻駅もさることながら、その周辺も様変わりはなはだしく、 その昔、商店街を通って、田んぼ道を歩いたイメージ忘れがたく、であったが、駅で人待ち顔の芥川小学校の同窓会幹事らしい方に、 「お宅のOBではないんですが」と断り、「高槻高校へはどうやっていくんですか」と聞いた。 私の持参した「高槻中学校入学案内」(前掲“8”,/b>参照)によると、昭和30年ごろは高槻駅から徒歩15分だったが、 いま20分と母校ホームページにあるからだ。彼はいやな顔もせず、バスに乗りなさいと教えてくれ、母校にたどり着いたのは5分後ぐらいであったか。
 そして、立派な校舎群に、ここはどこの大学かと驚いてしまったまま、出会ったのが玄関前の銅像に石碑、石塔の威容さであった。

 さて、石碑「国運負荷の大任に堪ふべき人材の錬成」の文言に関し、現学校長菅沼常生は次のような説明をしている(保護者会報「輪 WA」第88号2000・12)。

  学校創設者の胸像の設置について
 学校の前庭の桜の木の間に、本校創設者藤堂献三先生の胸像と小さい石碑が設置されました。これについて説明したいと思います。
 昭和15年に本校が創設されて以来60年の歳月が経過し、本年創立60周年記念事業を行うに当たり、その一環として設置されたものです。 先生が地域の強い要望に応え、旧制中学校を設立されたのが本校の発祥です。 学校設立の際、石碑に刻んであることば「国運負荷の大任に堪ふべき人材の錬成」を建学の精神として掲げられました。 去る9月19日除幕式を行いましたが、その後生徒諸君が胸像の前に立っているのをよく見かけます。 この石碑も見ていると思うので、これについて考えていることを述べたいと思います。  《注:設立申請の「趣意書」の文言は“人物”であって“人材”ではない…》
 私は藤堂先生にお目にかかったことはないし既に故人となっておられるので、そのことばについて先生ご自身からお聞きする術もないが、 昭和14年に旧制高校に入学していたので、当時のわが国内外の情勢については不十分ながらも、ある程度、肌に感じて知っています。 生徒諸君は社会科の授業を通しての知識はあると思うけれども、当時の世相を知らないので、この「建学の精神」をストレートに理解しにくいのではないかと思います。
 当時日本はA(米)、B(英)、C(支那)、D(オランダ)四カ国の包囲網にとり囲まれ、国の発展の糧とすべき諸物資の原材料の入手に困っていた。 昭和6年に満州事変が、同12年に支那事変が起こり、国を挙げて苦難の打開に努めていた。 そのような時期に学校設立の要望を受け、その実現に努められた先生にとっては、将来の日本の運命を一身にひき受けられるような気概と力をもった若人が一人でも多く輩出してほしい、 との願いを以て、高槻中学校設立の決心をされ、建学の精神とされたと思う。錬成という語にも意味があると思います。 錬とは金属を真っ赤にして鍛えることで、日本刀の制作はその典型である。 剣豪、宮本武蔵が家訓として、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古は練とす。」と述べたというが、鍛錬とは、心と身体を十分に鍛え抜くということである。
 生徒諸君が、藤堂先生が「建学の精神」として掲げられたこのことばの意のある所を充分に汲みとり、その実践に向けて勉強に、運動に努力精進するよう切望します。

 ところで、母校が開校した昭和16年の4月から、小学校は国民学校と改称された。 それは子供たちを小国民といいかえ、戦争に駆り出すために“小国民の錬成を目指す”ものであった。 また、“春の選抜”行進曲は昭和13年愛国行進曲、14大陸行進曲、15紀元2600年奉祝歌、16国民進軍歌と続き…中断し、 再開は22年「剣と槍」であったという。 《元は“皇国民の錬成”》

14“知徳体”/「教育理念」「教育目標」など

 学校報『高槻』にある佐藤理事長(第2号)、菅沼校長(第8号)、佐藤理事長(第8号)、岩井教頭(第9号)の発言に共通する、 藤堂初代理事長の言葉とされる「知・徳・体」は明治以来のコトバであろうか。灘中学の顧問だった嘉納治五郎の著作にもよく出てくる。
 歴代の理事長や校長らは、「知・徳・体」について、どのように考えているのだろうか。学校報『高槻』から抽出してみよう。

 佐藤博之理事長(第2号2005・11・30)「理事長に訊く」(抜粋)
 …高槻の未来像についてどのようにお考えですか。
 理事長「…初代理事長藤堂献三先生が示された知・徳・体の理念をバランスよく成就し、前途有為な人材を育成することこそが、 過去から,一貫として続いてゆく高槻の未来像であると思います。(後略)」
 …高槻の生徒に望むことは何ですか?
 理事長「先に上げた知・徳・体の理念をバランスよく身につけてほしいということですね。 (中略)その上で私や校長が旧制高校で経験したような麗しき師弟関係を生徒諸君にも味わってほしいと思っています」 (聞き手…学校報委員)

 佐藤博之理事長(第8号2007・12・6)「第2回 理事長に訊く」
 …正門前に建てられた石碑(注:「先賢夙に教学を拓く」)について教えてください。
 理事長「本校の設立の理念を大事にし、その源すなわち創業の精神に触れてもらいたいと思っていました。 本校設立の理念とは知・徳・体をバランスよく成就し前途有為な人材を育成することです。(中略) 先賢の理念は長い歴史の内に確立されてきた高槻の校風の原点に当たるものです。 この校風すなわち本校の精神的慣習に誇りを持ってもらいたいと建てました。

 菅沼校長(第8号2007・12・6「巻頭言」)…
 校門を入ってすぐ右手にある藤堂献三先生の胸像と建学の精神を啓示した石碑に加えて新たに「先賢夙に教学を拓く」と刻まれた石碑が建立されました。 その由来をよく尋ねられることがあるので説明したい。 /先賢(藤堂理事長はじめ先人たち)がこの地に本校を設立するに当り「知・徳・体」の錬成成就を教育の理念として掲げました。 /その目標に向け着々と成果を挙げてきましたが、運動場の狭隘なことがかねてから大きな問題となっていました。(後略)

 母校ホームページにある「学校長からのメッセージ」は、どういう教育をするのか、どのような生徒(人材)を求めているのか抜粋しておこう。
 …これからの時代に必要とされる人材は、志を持ち、自分自身の能力を最大限に発揮できる人物にあります。 /高槻中学・高等学校の使命は、人格を陶冶し社会に貢献できる人物の育成にあります。 次世代のリーダーとして持つべき知識・情報・技能・思考力などの「知力」と、倫理観・責任感・判断力・行動力などの「人間力」を身に付けて、 国際社会で活躍できる人材をこれからも育成してまいります。/…目的意識を持ち、意欲的で感性豊かな生徒諸君の本校への入学を期待します。

(その2)にもどる (その4)につづく


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