”書くこと”人間のあやまちについてのおじさんへの返事 (国語の教科書にある文章に関しての答え)

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1958.2.2 中三ノ三 橋本健午

 おじさんは、人間のあやまちについて、色々お話して下さったが、いずれも同感です。
 僕等はあやまちとはどんな事か、それは知っています。ところが、あやまちを悔いると云う事はなかなか出来ないのです。

 先日の漢文の時間に学習しました。それは夏目漱石の『愚見數則』と云う文章の中で「生徒は、どこまでも教師の云ふ事に従ふべしとは云はず。 服せざる事は抗弁すべし。但し己の非を知らば翻然とし恐れ入るべし。此の間一点の弁疎を容れず。 己の非を謝するの勇気は之を遂げんとするの勇気に百倍す。」と云うところがあります。

 又、論語学而篇には「過則勿揮改。」と、云うところがありました。これなども、おじさんの云われる通り、 人間は誰だってあやまちを犯かす《犯す》事はあります。だが、それを悔い改める段になると手こずります。 又、改める場合に、自分はあやまちを犯したなと思うと、直ぐあやまるのが良いと思います。 これに時間をかけますと、ついいやになり、はっきりしないまま終わるのが普通だと思います。 (注:《犯す》など、《 》内は、2,3年後の修正。以下同じ)

 漱石の云われるように、改める勇気は大変いります。何事にも勇気は必要ですが、それが悪いため《こと》に使われるのはこまります。 咋年の暮には、少女が相ついで殺されましたが、その中に加害者である少年が自供したところによりますと、 人に云われて勇気(自信)をつけるために、殺したと云うのです。成程これも勇気かも知れませんが、そんなのは《それは》、 僕は違うと思います。

 眞《真》の勇気と云うものは、正義のためにあるものだと思います。だ《です》から、あやまちを改める場合でも、 正しくなるのだと思うと、たやすく出来そうですが、普通一般の場合は、友達同志でも、自分が間違っていると思えば、 直ぐあやまるのですが、あやまれば、相手は「ざまあ見ろ」とか何とか云って、自分が勝った? 事を誇ります。
 又、近くで見ていた者も「なんだ、あいつうそばかり云うじゃないか」と云う事になると、一遍で信用が無くなりはしないかと思います。

 要は、あやまちを犯した者は直ぐあやまり、その相手もそれを快く認めたら良いのです。 そんな事で一々けんかをしていたのでは、今後何年か付き合わねばならぬ友達であるのに、仲間割れをします。 こう云う事はどちらにとっても不快です。しかも、そんな事位で仲間割れをするようでは、男らしくないです。

 おじさんは、人間が人間本来の状態に無い場合、種々様々な苦痛や悲しみを感じると云われますが、 人間本来の状態で無い場合でも、喜びや楽しみと云うものはないでしょうか。 又、それは苦痛や悲しみの場合だけを考えるのでしょうか。一寸これは、僕には解かりかねる所です。
 "やさしい愛情を受ける事なしに暮していれば、ぼくたちの心は、やがて耐えがたいかわきを覚えてくる"

 これは、現在の日本の現状《状況》ではないでしょうか。戦争で両親や兄弟をなくしたり、貧困のために親に捨てられたりして、 保護されている僕達と同じ年頃の少年少女は沢山います。朝日新聞には、時々「この子らの親をさがそう」と写真入りで、 不幸な子供達が報道されます。それから、二三日後には、一組か二組は必ず親が見つかり、喜びの写真が新聞に出ますが、 そんなの《そういう記事》を見ると、本当に良かったなと思います。

 その半面、都市には青少年の犯罪が目立ちますが、大低《抵》中流家庭の子で、性犯罪が多いと云う事です。 これなどは、家庭もそう悪くなく、殆ど不自由なく暮しているのですが、そんな人間が悪事を働くのはどう云う事でしょうか。 家庭にめぐまれ、自分の自由な時間が多くなりますと、それを利用して遊ぶのです。 此頃は、青少年の成熟が早いと云われていますが、そんな事で性犯罪が多くなるのだと思います。

 その自由な時間に勉強でもしたら《すれば》、良さそうなものですが、一端《旦》悪の道に入り込むと、 なかなか元にもどらないのです。だ《です》から、始めに注意さえしてい《お》れば、悪の道へも入りません。 僕等はそれに気をつけたら《れば》良いのです。
 漱石曰く『墨を磨して一方に偏するときは、中中平にならぬものなり。物は最初が肝要と心得よ。』

 欲望や虚栄心をいだくのは最も情けない事だと思います。
 虚栄心とは、自分を外見上美しく見せようと云う心ですが、これは女に多いと思います。美貌は皮一重と云われています。 流行を追うのも、その一種ですが、これには僕等の友達や大の男にもあるのです。服でも自分に良くあったものなら良いのですが、 何もかも流行を追って、自分の個性を生かせなくなるのです。

 昨年、浜村美智子なる女性が、『バナナボート』とか云う歌をうたって世に出ましたが、《した。》 その時のカリプソスタイルは、髪をだらんとたれて《たらして》いましたが、世の若い女性はそれを一《逸》早くまねして、 日本中にカリプソ娘が出来た《出現した》と思います。ところが、あれが良く似合うのは浜村芙智子当人だけで、 他に一人もいないと思うのです。それは、自分の個性を考えず、ただまねをするだけだからです。
 自分の個性を生かした人が、真に美しいと云うのです。また、そんな〔個性のない]人間は日本には一人もいなくてもいいのです。 そんな人間が減ったからと云って、国政がかたむくわけでもなし、かえって世の中が安定して好結果になると思います。

 以上、色々自分の思っている事を云わせてもらいましたが、何が一番大事かと云う事は、人間各々の心の持ち方にあると思います。 心の持ち方次第でどうにでも《良くも悪くも》なると思います。ただしっかりとした心をもち、自制心があれば良いと思います。
 なお、おじさんの云われる王様の事や健康の事などと同じようなものは、僕も尾崎紅葉の『金色夜叉』の感想文に書いてあります〔後掲〕。

 問題の趣旨に対し、それを全うしたかどうかは解かりませんが、それにそうように書いたつもりです。
                  昭和三十三年二月二日

 *先生の赤ペンによる評「よく出来ておりました。(K)」

○『金色夜叉』の感想文 昭和32年12月20日作(15枚)
 お宮も……財力で人間の優劣を見るほど下劣になってしまったのである。人間の愛情と云うものは、 金で買うことができないほど貴いものであるから、いやしさにも程がある。……
 貫一は……金をためるだけでは何の為にもならない。何も使わないのなら、社会福祉に貢献するのがいちばん良いと思う。 金持ちを一人無くすより、貧乏人を百人無くす方が、いかに尊いか。財力の大きい者にはわからぬ問題である。 (昭和60年2月ころ抜粋)


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