小論文の提出があり、私は「活字に弱い日本人」をテーマに四枚ほど書いて、梶山に見てもらった。 論旨はよいが書き出しにもっと工夫をと、次のような例示をもらった。《次の「謹告」から「橋本健午」までは、カッコでくくる》
謹告
映画女優 岩下志麻
右の者と、私は一切、関係ありません。
慎んで、ここに広告いたします。
本人 橋本健午
たとえば、右のような広告を、有名な女優の名に注目し、次に、大新聞に掲載したとする。
これを読んだ人は、たいていその新聞が大新聞であることに安心する。だが、私は、岩下志麻という女優を、まだ見たこともないし、ファンでもない。
しかし、読者大衆は「おや、この男は、どんな人間だろう」「どういう関係なのだろう」あるいは「篠田監督との仲は、どうなんだろう」と、
おそらく、様々な想像を巡らすだろう。そうなれば、私の計略は、まんまと成功したわけだ。(以下、略)
授業は毎週火・木曜夜、三時間で二講座が持たれた。第一期は何かと話題になり、テレビでの講義も放映された。受講生は男女合わせて六十名。 大学生中心に若い人が多かったが、十七歳の女子高生から六十歳の自衡隊関係者まで、職業はマスコミ関連ばかりか多種多様であった。 講座のお終いごろには、論文「大宅壮一論」の提出を求められ、これも十枚書いて、事前に目を通してもらった。 一期の卒塾生のうち二名が、その六月出発の「東南アジア考察組」に加わった。
考察組とは前年九月、文化大革命さなかの中国に大宅氏を団長として取材行動したのがはじまりで、いずれも梶山は随行している。
その後しばらく、雑誌では「考察」の二文字を冠したタイトルの特集・ルポがはやった。
「日本考察(1)黒い霧の下に(広島)『週刊読売』四十二年一月六日号 レポート
「大宅考察組の66〜67日本報告」『サンデー毎日』四十二年一月八日号 座談会
「大宅マスコミ塾を考察する」『週刊朝日』四十二年三月十七日号 コメント、など
ついでノンフィクション・クラブの一員、大森実氏が「太平洋大学」を開いた。
第一回は四十三年六月、ギリシャ船マルガリータ号をチャーターした大がかりなものであった。
梶山は同年九月、第二回のアメリカ行きのとき、帰途途中のハワイから講師として乗り込み、この見聞を題材にして「小説・太平洋大学密閉集団」を『小説宝石』十一月創刊号から連載することになっていた。
締切日は帰国予定の日だったが、台風に見舞われたマルガリータ号はあと一歩というところで洋上を右往左往し始める。
とても間に合わないと思った担当の藤原剛氏(当時、現・角川書店)は、急きょヘリコプターを飛ばし、原稿を吊り上げるという、前代未聞のことをやった。
現場に立ち会っていた私は、無事原稿が届いてホッとしたものの、肝心の梶山はまだ船の上である。
船がいつ竹芝桟橋に着くかはっきりしなかったため、翌日の夕方七時、ランチで迎えに行き、大森学長や梶山らはやっと上陸することができた。
大宅氏にしろ、大森氏にしろ、若い人を育てたいという気持ちが強かったのだろうが、長続きさせるのは難しい。
有名人を知り、安直に世に出たいという若者との間に隔たりもあった。彼らの不満は、どの講師の話も中身が薄いというのだから……。
それでも、大宅塾は一期三か月間で、九期までつづき、若き日の植田康夫(現・上智大学教授)、飯塚昭男一『選択』編集長)、大下英治(作家)、
南川三治郎(カメラマン)氏らが学んでいる。卒塾生は四百名以上、その同窓会は大宅氏の命日(十一月二十二日)に、「大宅・梶山まつり」という追悼会を、
最近まで毎年続けていた。
当初、季節社を発行元にするはずだったが、区は違うものの左翼系の同名の出版仕から、有名作家が主宰では営業妨害になりかねないと抗議があり、
やむなく創刊直前の六月、梶山が自ら社長となり季龍社を設立した(青山の自宅が事務所)。
第一号(八月号、七月七日創刊)は、「知られざる大宅壮一・偉大なる野次馬の盲点」(座談会)を特集、また「文壇葬儀係は坊主も値切る」(対談・榎本昌治.梶山季之)など、
他にみられない内容を満載した百四十ぺージ、五万部を刷った。
執筆者は、随筆に柴田錬三郎・遠藤周作・吉行淳之介・黒岩重吾・川上宗薫とあり、他に野坂昭如・生島治郎・五木寛之・江国滋・陳舜臣・田辺茂一と豪華な顔ぶれ、
ポスターは山藤章二と、梶山の交遊の広さがうかがえる。印刷は凸版印刷、広告は電通扱いである。
梶山季之責任編集とあるが、実際に切り回していたのは高橋呉郎編集長である。
「『三土会』のメンバーで、たまたまフリーの身は私ひとりだった。
私もゴシップは嫌いなほうではないし、当初は季刊誌ということもあって、二つ返事で編集を引受けた。
ところが、数日後、梶山さんと打合わせをしているうちに、いつのまにか、季刊誌の構想は月刊誌にふくれあがった。
梶山さんの辞書には、『小ぢんまり』とか『要領よく』とかいう言葉がない。
なにごとにつけ、やるとなったら、とことんやらないと気がすまない」ため、氏は「簡単に巻き込まれた。
『儲からなくてもいい。出すからには、いい雑誌をつくろう』という梶山さんの爽やかな心意気に惚れ込んだ」という(「『噂』発刊のいきさつ」『積乱雲とともに』)。
かくして、滑り出しは何かと話題になり、しばらくは順調に見えたが、青山の編集部とでは連絡不十分であり、市ヶ谷の自宅の一階を改造して移動。
さらに川上哲雄(信定)さん、亀山修君らが加わるなど人も増え、ガレージを改造して、十一月に『噂』発行所とした。
経営が法人から個人に替わったのである。
編集会議は昼食会をかねて、二階の食堂でたびたび開かれた。
ときにビールやワインも出て、話が脱線しかかることもあったが、より良いものを作ろうと議論が続いた。
梶山は対談や座談会に顔を出したほか、巻末に当初は「営業日誌」を、四十七年新年号から「噂の屑籠」として連載を開始した。
定期購読者も千名近くになり、発送には毎月季節社の社員も動員して袋詰めし、自家用車で牛込郵便局への運搬もした。
しかし、なかなか部数を伸ばすことができず、累積赤字も数千万にふくれ上がった。
その最中に、書店側との“トラブル”も発生している。『サンデー毎日』に連載のエッセイで、「『噂』について」を書いたところ、
さっそく、『全国書店新聞』(日本書店商業組合連合会発行、旬刊)に、抗議の投書が載った。
曰く、「拝啓 梶山季之さま 『噂』がうれないのは、書店のせいではありません」(四十八年五月二十日号)で、
「荷を開かずにすぐ返品する書店がある」などと書いた誤解を指摘した上で、売れないのは“噂“というタイトルのせいでもあるという。
これに対し、梶山はまた同エッセイで、誤解や勘違いについてお詫びし、よい本や雑誌を売ってほしいと要望すると(「誤解について」)、
また同新聞は「再び梶山氏の“書店論”をめぐって」(同八月二十日号)で、友人の間室絆氏(岩手・北上書房)はじめ三人の書店主からの投書が掲載された。
小売店の立場をやや理解したことを嬉しく思うが、もう少し流通問題など、ことの本質に迫ってほしい、という意見に代表されるが、
一方で「(作家には)小売書店の内情に目を向けようとする人は少ない。読者の反応は気にするが、流通段階に目を向けてくれる人は滅多にいない」(間室氏)という現実も述べられている。
それで梶山は、お返し?に『噂』同年十月号で、「“倒産知らず”の書店経営にも悩みはある」と、戸田寛氏(清水・戸田書店)ら新風会(地方有力書店の会)のメンバーによる座談会の司会をし、
本を売ることの難しさ縁の下の力持ちをテーマに、大いに語ってもらっている。
自ら、創刊三周年を前に、こんな“『噂』ご購読のお願い”を書いた。
「この世の中には、事實が存在しながら、そのことが活字にならない(或いは活字にさせられなかった)場合が、かなりあります。
しかし、その隠された部分のために、事件なり人物なりが、誤った儘、後世に評価されると云う危険が生じるわけです。
それで活字にならなかった話の雑誌―『噂』を一九七一年七月から、發行いたしました。
ご一讀いただけると、ご理解いただけると存じますが、右顧左べんせず、あくまで中立の精神を貫いて、古きものを活字として残しておくと云う態度を堅持して居ります。
一人でも多くの方ヾに讀んでいただきたいと存じまして、『噂』を別便でお送り致します。もちろん無料ですが、ご高覧のうえ、ご購讀を賜われば幸甚でございます」
しかし、思うようにはいかなかった。
「亡くなる前年、『噂』の編集方針について意見を聞きたいからと、『はち巻岡田』へ何人かで呼ばれた時、高橋呉郎さんの顔がチラついて辛かったが、
いっそこのさい休刊したらどうです、と提案したことがある。『噂』の負担が梶山さんの作家生活を追い詰めているのではないか、と思ったからだ」と、
大村彦次郎氏(当時、講談社)は述懐している(『積乱雲とともに』)。
暮れのことで、豊田健次(文藝春秋)、新田敞(新潮社)両氏も同席し、同じような感想を洩らされた。
この三人は日ごろから梶山のよきご意見番、相談役であった。
また、田辺茂一氏は『噂』の評価として、「一言で云えば編集が、楽屋裏の専門誌であり過ぎたと云うことだ。玄人が読めば面白いが、
素人には、乾き過ぎて、甘さが不足だった。意地悪い解剖も少かった。(中略)エゲツなさが足りなかった」。そして、さらにいう。
「梶山は作家としての才能に恵まれたが、ときによると、それ以上に、企業経営のそれが、もっと上回っていたかも知れない」と。
しかし、病身になって性急となり、ついに倒れてしまった。
その無念さを思うにつけ、同氏は何らかの形で衣鉢を継ぎたいと思ったという(「つらぬかれた侠気と反骨精神」『追悼号』)。
このときの右記のメモと、私の手元に残っていた録音テープは夫人に返したが、死の一年前とは思えないような若々しい声、快活な笑い声を聞くと、今でも不思議な気がする。
この日を第一回として、何回か話を聞かなければ、ソウルにも行って……などと抱負を語り、韓国に何度か遊んだときのこと、夫妻で訪ねたときの思い出などを話している。
やがて、梶山は民族の血って何だろう? と二人に問いかける。
日本にいる韓国人二世は母国語を知らない。ハワイにいる日系二世も日本語を喋ることができない。ならば、エスペラントでも採用し、仲よくしたらどうなのかと思う……。
しかし、何かあったとき、話す言葉は同じでも、必ず対立するのは、民族の血のせいではないか。いったい、民族の血とは何なのだろうか?
この重い問いかけには、不思議なもの、謎というしかないなどと、だれからも明快な言葉がない。それだけ難しく、大きなテーマであった。
話は一転して、柳氏が夫人に「韓国系の顔ですねえ。玄関でハッとしましたよ」という。
夫人もこれまで、同じようなことをいわれたことがあるらしいが、すかさず梶山が「オレは銀座では韓国の皇太子で通っているんだッ。仕方がないか」と、まぜっかえす。
さらに二人は、梶山が宏壮な邸宅(三階建ての季節社ビル)に住むことができるのは、奥さんのお陰だ。
こういう徳のある奥さんのことを韓国ではマンミョヌリ(長男の嫁)というんですよと、しきりに夫人をほめそやすのだった。
日本でいう、内助の功とも、糟糠の妻とも違うニュアンスの言葉だった。
分が悪くなった梶山は、「徳というより、毒がある」というと、柳氏が「毒もトクと発音するんですよ」とやり返す。
やがて梶山は「ご馳走さまでした」とおどけていい、途中から降りだした雨の中、二人をハイヤーに押し込み、そそくさと銀座に出かけていった。
一年後の告別式(五月十七日)には、この二人を含む総勢二十五名の作家、映画・新聞関係者などが連名で寄せた韓国からの長い吊詞(弔文)に、
梶山の事績が記されている。
「一九六三年の春先、あなたが初めて韓国に来られた時、故大宅壮一先生と御一緒でしたが、私共が知っている限り、正式に招請で、韓国に来られたのは、
韓日正常化以前には、貴方が最初の日本作家でした。その後、度々韓国に来られ、“僕に何ができるのか? 力の限り努めるつもり”といわれました。
そして、ついに一九六五年貴方の名作『李朝残影』を韓日合作映画第一号として振り出すべく、藤田潔社長企画、松山善三脚本で、
こちら側と、仕事を進められました。だが、当時のむずかしい状況の下で、何分努力を積んだのでしたが、韓国だけの上映になってしまいました。
しかし、この一作が『李朝残影』ならぬ『梶山残影』として韓国に永遠に浮彫りされていることを忘れてはなりません。
それだけ評判の良かった作品でした」。
梶山は政治的な行動は取らなかったが、心から日韓関係を心配する人だった。
二度目の訪韓をした四十年の四月三日に、東京で日韓交渉が前進し、漁業・法的地位・請求権の合意事項について仮調印が行われた(基本条約等の調印は同六月二十二日)。
国内に反対意見も多かったが、梶山は神戸新聞の求めに応じて「忘れてはならぬこと」と題した一文でこう書いている。
「日本人は日本が韓国でなにをしたか、ということを忘れている。むかし韓国で暮していた日本人ですら、忘れている。それが日韓会談を長引かせた原因だ」として、
李承晩ラインの存在が九州の零細な漁民を救っている。
靹国の漁民も李ライン死守を叫ぶが、これがなくなれば、またぞろ大手漁業会社が出てきて、「今後が問題だ。日本のこすっからい商人たちが、ふたたび韓国を経済的に侵略しないかと不安である。
日韓会談に反対していた韓国の人々が恐れていたのは、三十六年間の日本統治時代の恨みもさることながら、国交回復後の、日本の政治的、経済的な侵略であった」。
だから、今こそ日本人は「隣国にヒューマニスティックな暖かい手をさしのべて、新しい産業を興すような働きかけをすべき」と結んでいる。
何ごとも止むに止まれぬ気持ちの表われ、他人がどう批評しようが、それを気にする人ではなかった。
実は死の直前、五月一日の午後、梶山は夫人と私を前に、季刊誌として出す抱負を語り、あらかじめ出しておいた私の企画案を、これはいい、
あれはダメと、いつになく何時問も熱心に検討していた。
その決意は前年夏ごろからあり、また年賀状でも表明していた。
上部に“季刊うわさ『噂』”と新しいロゴをおき、
「今年も、あなたにとってよい年でありますように心からお祈りしております。
昨年春、休刊しました小雑誌『噂』は、新しい年を迎えて、再スタートさせたいと思っております。
その節はどうか、よろしくご支援下さい。
噂たち 春迎えたり 去年の雪 / 雪消えず 年を越したる 噂かな
一九七五年一月一日 梶山季之 『噂』発行所」
季刊で出すからには、じっくりと時間をかけて、腐らないもの、文学(文壇)だけに限らず、広く、そしてあくまで庶民的なもの、
つまり、普通では残らないものを残しておくという方針と、金と人を使わないでやろうということで、再スタートの第一歩を踏み出したばかりであった。
秋ごろ発刊予定で、一週間後の八日には、専門家に見積りを出してもらい、梶山に報告することになっていたのだが、そのとき梶山は香港で病床にあった。
その日(一日)、ワインを飲みながら、季刊『噂』の構想を語ったあと、梶山はいつものようにテレビの時代劇を見ていた。
小一時間後にのぞいてみると、先に作った巻き物(目次の荒いもの)に、具体的な書き入れがなされているではないか。
ふだんなら、明日もある、明後日もあるという感じで、催促でもしなければやらなかったのに、これはどうしたことかと不思議に思った。
もう一つある。「このごろ、妙に(新聞の)死亡欄が気になるよ」といっていたことだ。
その幻の季刊『噂』、第一号用の「巻き物」を抜粋して掲げておく。(敬略称)
○巻頭随筆 昭和二十年秋、四〜五枚
(各界より八名、うち外国人三名。季刊なので、春・夏・秋・冬別のテーマ)
○対談 亡き作家の想い出 (現役の老編集者、きき手は文芸評論家)
○匿名座談会 評論家を評論する(第一回は推理作家、四名)
○尾崎秀樹連載対談
○連載もの 陳舜臣 澤村三木男 無着成恭 他
○ゴーストライターについて
○庶民の生活 日記、地方別、終戦後
○タブー 各国のもの(旅行者の座談会)
〇ゴシップ 文士のクセ、食物、趣味他
○記録室 懐しの対談・座談会(「大宅文庫」資料より)
(以下、略)
作家であることはもちろん、最後まで編集者の気持ちを持っていたのではないだろうか。
先輩作家の柴田錬三郎氏は、「梶山季之の壮絶な死!」(『週刊プレイボーイ』五十年六月二日号)で、次のように記している。
「君は、独力で、商業誌が活字にせぬ記事をのせる月刊雑誌を発行し、すでに世間からも文壇からも忘れられた轄軒不遇〈かんかふぐう〉の作家の業績を掘り起こして、数千万の借財を背負うた。
しかもなお、五体を病魔に冒されつつ、さりげないていで、すべての人と、談笑した。
生きて甲斐のない自暴自棄の表情も態度も、誰一人にも見せなかった。
君の人生は、権威に対する闘いに終始した」
残った私たちとしては、後始末をしなければならない。
前年の月刊『噂』の休刊の時には、千名近い定期購読者に対し、一人ひとりきちんと残金を返却した。
およそ百万円だったが、間違いなく返すのに、三日がかりで何度もチェックした。
また、このとき関係者に、次のようなお詫びの手紙を出した。
「前略 ずい分長い間お待たせして、この秋には季刊『噂』として、再スタートする予定ではありましたが、
ご承知かと思いますが、梶山が先月始め、旅先の香港で急死しまして、残念ながら、もう刊行することが不可能になりました。
(中略)長い間のご購読を感謝しますとともに、お詫び申し上げます。 一九七五年六月 噂発行所」