一方、人の死となると、突然の場合が多いだけに大変である。しかし、義理堅い人で、仕事を中断してでも通夜に駆けつけた。
青山斎場などで行われる高名な方の本葬は、大勢の会葬者があり一種のお祭りともいえる。
四十五年十一月、大宅先生の告別式のときは文士劇の最中で、このときばかりは夫人が行かざるをえなかった。
私が代理で行き、初めてお会いするのが黒枠の中ということもたびたびである。四十七年四月の川端康成氏のときがそうだった。
「川端康成先生が自殺なさった。
その自殺の真因は、誰にも判らない。ただ私には、退行性鬱病的な、発作的なものであるような気がする。(中略)
私は、このニュースを、東京女子医大の消化器センター病室で聞いた。
毎年一回の健康診断である。
ワイフが、近頃、私が痩せて来たと云うので、胃ガンではないかと心配し、ヤイノ、ヤイノと云って抛り込んだのである。
その結果、皮肉なことが起きた。(中略)この入院中、なんと喀血してしまったのである。(中略)
喀血は三日つづき、やっと小康状態を保った矢先に、川端先生の白殺事件である。正直に云って、私にはショックであった。(中略)
文士となった以上、私にだって、書き残しておきたいライフワークがある。(中略)
矢張り書きたいものは、書きたいのである。そうでないと、死んでも死にきれぬ。血を吐きながら、私はそう思った(「川端先生の自殺」『噂』四十七年六月号)。
もう一つ、父勇一氏がガンで亡くなったのは四十八年暮れ。
その春には京王プラザで、母ノブヨさんとの結婚五十年を子供や孫たちみんなで祝った際、私たち季節社や『噂』発行所の者も便乗して、
最初の言葉がオ・メ・デ・ト・ウで始まる五本の祝電を打ったばかりなのに。
東京女子医大に入院中、梶山は何度か見舞いに行ったが、酸素テントの中の無言の父親を見て言葉もなかった。
かつてフジテレビそばに三階建ての季節社ビルを建設中、毎日のように監督にきていた、元気な姿はもう見当たらない。
病院は歩いて数分のところだったが、やるせなくなったのか、梶山の足もだんだん遠のいた。
そして、都下小平の主を失った家での通夜には人影も少なく、寒空のなかの梶山は妙に沈んでみえた。
いちばん多く書いたのは「花不語」(花は語らず)であろう。単純明解なところが気にいっていたようだ。
この言葉は平成三年六月、広島市中区アステール・プラザ隣接地に、文学碑として建立された大理石に刻まれている。
文芸評論家の吉田煕生氏によれば、梶山にとってこの言葉は「俺は自分では自分のことはいわないよという意味」(前出、インタビューで)だとのことだ。
ちなみに、この文学碑のために梶山ゆかりの出版社や個人からの寄付が多数寄せられ、式当日には東京からも多くの関係者が参加し、
黒岩重吾氏、安藤満氏(文藝春秋専務、現・社長)らが挨拶をされた。
次に多いのは、「親子は他入」で、これは田辺茂一氏流か。かつての美季さんの言葉を思い出す……。
「裸にて生まれて来たに何不足」は人生訓か、わりあいある。
このほか、店の名や人名を織り込んで、五七五や七七を詠んだものもあり、贈って喜ばれたようだ。
長いものでは、「私ほど友と妻に恵まれた/男も珍しいだろう。さしたる/才能もなく、自由奔放に/生きれたことを幸福だと/思う」
(一九六九年一月二日 伊豆遊虻庵にて)とか、こんな物騒なものもある。
「あなたは人を/殺したいと思った/ことはないだろうか」
日付は不明だが、右上に「二十七日庵」の落款がある。これは私のいただいたものだ。
ある夏、私は友人と八丈島に遊んだ時、ハブセンターの建物の中で、突然“スケベ人間 季之”という色紙にお目にかかった。
何枚か他の人のと並んでかけてあった一枚だが、現地で即興的に書いたのだろう、落款などはない。
案内の老人は何を照れるのか、それを“ベケス人間”と読んで、ひとり悦に入っていた。
なお、山口瞳氏によると、北欧にはその名も“スケベニンゲン”という地名があるそうだ。
色紙のほかにサイン本とか、贈呈本に挟む紙に一枚ずつ異なる言葉と署名をという注文もあった。
こういう数の多いときに、「梶山季之」の直筆サインのゴム印を押すのは、主に私の仕事であった。
色紙を商品として一度も売ったことがないのに、古書展で売りに出されたことがある。
四十六年五月のことで、目録に「花不語」三千円、となっている。
驚いたのは値段よりも為書(ためがき)があることだった。
特定の人に贈呈したのに、どんな事情があるか知らないが、売りに出すなんて失礼ではないか。
梶山はすぐ引き取るようにという。
調べてみると、デパートで催すこの古書即売会は入札制で、いくら本人のものでも事前に取り戻すことはできないという。
出入りの古本屋に相談すると、必ず買い戻せるようにしますから、初日に会場へきてくださいとのこと。
朝早く行ってみると、開店前なのに、七階の会場までの階段は長蛇の列。本当に買い戻せるのだろうかと、手にするまでは不安であった。
持って帰ると、梶山は何も言わず、すぐ押入にしまい込んだ。
時には小学生の美季さんにせがまれて、岡崎友紀らタレントに、頭を下げて書いてもらったこともあったが、意外に手間のかかるものだった。
岡崎さんによると、
「某雑誌のグラフコーナーで“会いたい人”というようなテーマで、先生は私を選んでくださいました。
というのも、先生のお嬢様が、その頃私のTV番組等をよく観て下さっていて、お嬢様の希望でそうなったとか。
当日、奥様とお嬢様をお連れになった先生は、どう拝見しても、コワイ先生というより、甘くて優しい良いパパというイメージしかなく、
少々固くなっていた私は、内心ホッとしたことを覚えています」と、このあと写真撮影のため銀座に出て、梶山から大きなスカーフをプレゼントされた彼女は、
その日の梶山一家のむつまじい様子を語っている(「グッチのスカーフ」『積乱雲とともに』)。
父親は愛娘には弱い、の図である。
その後、たまに為書のない色紙が売りに出されたが、五十六年秋に横浜では八千円の値がついていた。死後は、値段も少しは上がるようである。
この年齢のことを人から聞かれたとき、梶山がせっかくボカしているのに、助手の私がバカ正直に答えてはブチこわしである。
いろんな説がありますので、ご想像にお任せしますというしかなかった。
酒場などで“韓国の皇太乙”などといったのも、ソウル生まれ、『李朝残影』など朝鮮ものを書いているというほかに、
ミスティフィケーション、ひとを煙にまく座興としては格好のものだったのだろう。
いずれにしても、どこか神秘的な部分があったほうがよいと思うので、深く追求したことはない。
ごく単純に、年上の、といっても数か月だが、夫人と一緒になったから、何となく照れて、自ら年上であるかのように“詐称”していたのかもしれない。
今となっては確かめようもないが、あけっ広げだった梶山が残したナゾの部分、つまりミスティフィケーションが、私たちに対しても見事に成功したといえよう。
何年か前から、正月二日の誕生日に“遺書”を書き改めていた。
どなたかが毎年書き直すというのを聞いてからだそうだが、その昔、肺結核で胸に空洞を持ちながら上京し、三十まで生きられればいい、
それまでに珠玉の短編を書こうと決意していた人だ。
また、四十七年に再度喀血しており、恐らく、強弱の差こそあれ、常に予感めいたものがあったように思う。
前述のように、四十八年末に父勇一氏をガンで亡くしたのも、かなり響いていた。
薬ぎらいで、めったに飲まなかった。
ところが、いつも持ち歩く鞄の中の、万年筆や原稿用紙、文鎮など“七つ道具”を入れた黒皮のケースに、救心丸を忍ばせていた。
あるとき心臓が苦しくなり北里研究所付属病院へ行って、舌下錠をもらったこともあるという。中年男性に多い、たぶんに神経性のものらしかった。
前に述べたように、四十九年秋、私はヨーロッパヘ、夫人や美季さんと一緒にお供した。
旅の先々で梶山は、ワインやウイスキーをかなりのピツチで飲み、また早く酔っていたようだ。
日本を離れ、仕事もほとんど持っていかず、家族と一緒の旅行は、どれだけ気が休まったことだろう。
それも手伝って、いい気持ちで酔っていたのだろうと思っていたが、そのころすでに、肝臓が弱っていたのかもしれない。
それはともかく、この旅行で、夫人や美季さんに、美しいニースやモナコ、コートダジュールを見せたいという長年の夢を適えたことと、
美季さんをスイスの高校に留学させるといっていた、そのスイスにも家族三人で行くなど、のんびりとした、水入らずの旅行だった。
これだけで・死の予感というわけにはいかないが、私を急きょ連れて行こうなどといい出したに至っては、義理堅い人とはいえ、
何かを感じていたとしか思えない。
香港で急死したのは、それから半年後のことである。
夫人と美季さんは急ぎ飛び立ち、生前に間に合ったが、私も死の翌日すぐに飛び立つことができた“伏線”がここにある。
遺体引取りなどの手続き、また、夫人らの力となるためには、だれかが行かなければならない。
私が相応しかったかどうかはともかく、身近ですぐに飛べるものがほかにいなかった。
前年に初めてとった数次旅券が、はからずも役に立ったのである。
それは、香港で倒れるちょうど半年前であった。最後に医者に行ったのが、十月三十一日で、それ以降はがんとして拒否していた。
そして、翌五十年一月早々、今度は夫人が心筋梗塞の発作に見舞われ、北里研究所付属病院に一か月以上も入院した。
ハリの先生の予冒が当たったということか。いずれにしても、社長が不在の季節社は何かと慌ただしかった。
ちょうどそのころ、梶山自身は『積乱雲』の書き出し、取材や執筆場所などで悩んでいたようだ。そして、気弱になっていたのだろうか。
身近雑記風の小説「負け犬」には、こんな表現がある。
………
捨て犬か、迷い犬か知らないが、その犬に向かって話しかけている自分。
淋しさを、それで紛らわせている。
一匹狼でありたいと考えながら、所詮は群をなす野良犬でしかない。
いわば、負け犬だ。
躰に傷こそ負ってはいないが、なにかに頼ろうとしている。
遠吠えして、口惜しがっている負け犬のようなものであった。
〈いつから、こんな淋しがり屋に、なったのだろうか?〉
彼は、米を研ぐ手を止めて考え込んだ。
そして、父の死からだ……と思った。
父の臨終ぶりを目のあたりに見たことが、彼に大きな心の変化を、もたらしたのだろうか。
それとも、死が怖くなったのだろうか。
………
<そうだ、ここで東京へ帰ったら、負け犬になる!>
と思った。 (『小説新潮』五十年四月号)