その日、枕元に置いた電話が鳴ったのは午前7時前。ホンコンからの、先生が亡くなったという夫人の声は疲れ切っていた。
昭和50(1975)年5月11日のことである。そのころ東京はエリザベス英女王夫妻の初来日でわき立っていたが、
一方、春闘が長びき国鉄が4日間もストップ、国際電話もストでなかなか通じず、市谷の留守宅で連絡や指示を待つのはつらかった。
45歳。働き盛りである。突然の、しかも外国での死はテレビニュースで報じられ、日曜日にもかかわらず、
朝から大勢の方がかけつけて来られた。
翌日に私もホンコンに飛び、夫人や美季さんと現地での仮通夜をすませた。
14日に先生は遺体として帰国、16日に自宅での通夜、17日に告別式(芝・増上寺会館)、
千名を越える参列者と最後の別れを告げた。
七七忌は自宅で行われ、百か日(卒哭忌)には、新刊『稲妻よ、奔れ!』(新潮社)をお世話になった方々に発送するなど、
数か月が慌しく過ぎていった。
ことし、はや13回忌を迎えるが、この間の「5月11日」を追ってみると――
翌51年、昼に瑞泉寺で一周忌の法要、夕方、新橋第一ホテルで「梶山季之君を偲ぶ会」が開かれる。
52年(三回忌)はやはり瑞泉寺で行われたが、8日には先生の故郷広島のホテルでも"しのぶ会"が催され、
東京から夫人や美季さん、そして田辺茂一先生ら15名ほどが出席された。
私も会場で、地元のテレビに「スーパーマンのような……」と、先生の印象を述べたことを覚えている。
12月には京橋で、絵や色紙を中心とした「梶山季之遺作展」があり、あまり知られていなかった一面に接して驚く人も少なくなかった。
このころの私は全くのフリーで、手伝いにはいつでもかけつけることができた。
53・54年、市谷の自宅(当時は空き家、のち人に貸す)へ生ビール、寿司、鳥料理などを持ち込んでの"しのぶ会"となり、
それぞれ百名前後の方が集まられた(会費3千円)。
とくに54年は韓国大使館から寄贈された先生原作の映画『族譜』の映写会をかね、
多くの人々には初めて韓国映画をみる機会となった。
55年はごく内輪の会を四谷荒木町の山塞で行う(会費5千円)。
56年(七回忌)。9日に瑞泉寺での法要、11日に新橋第一ホテルでパーティ、参会者は約260名にのぼった。
この日、先生にゆかりのある各界の方に執筆ねがった『積乱雲とともに―梶山季之追悼文集』が季節社(社長は夫人)
から出版された。
また、先と同じ遺作展が5月広島、7月尼崎の2か所で開かれている。11月には、先生が亡くなった当時、
中学2年生だった美季さんの20歳を祝う会があり、父親代わりの大人たちはその成長ぶりに一安心するのだった。
57年から「梶葉忌」と名づけられ、昨61年まで、毎年同じ場所で"偲ぶ会"が開かれる(京王プラザホテル、会費5千円)。
少しずつ新しい人も加わって、いつも50人前後の方々が、故人を肴に夜遅くまで歓談する会となっていた。
そして、ことしは夫人と美季さんにより、京王プラザホテルの大きな会場を借りて、「梶葉忌」が行われる予定である。
この「梶葉忌」の由来は今東光氏が先生に贈った戒名「文麗院梶葉浄心大居士」からで、「びようき」ではなく
「かじのはき」と読む。
偲ぶ会の名称にはいくつかの候補があった。私の手帳53・4・18のメモによれば、広島関係者は「残影忌」 (初期の作品で直木賞候補作『李朝残影』から)、山口瞳氏は「積乱忌」(いくつかの書き出しだけを遺した幻の大作『積乱雲』から)、 そして、柴田錬三郎、黒岩重吾両氏は「梶葉忌」を推しておられる、とのことだった。
ところで、今先生は52年9月に79歳で、柴田先生は53年6月61歳で、田辺氏は56年10月に76歳で、 瑞泉寺の豊道師は昨年(61年)10月に72歳で鬼籍に入られている。
没後、これまでに先生の作品は、83点が10の出版社で文庫に再録された。エッセイなど初めてまとめられたものは―
作家は死んでしまえば、やがて忘れられるという。とくに本書のような、 その時代の風俗・流行を主要テーマとするような作品(作家)は"時代遅れ"となり、より早く忘れ去られると思われていた。 ところが、右にみるかぎりでは、先生はまだ"健在"のようである。
本書が書かれた昭和43(1968)年当時は「ゲバルト」と「ノンポリ」が同居し、ミニスカートが大流行、 新宿を中心に「フーテン族」が出没し、シンナー遊びがはやり、「アングラ」がもてはやされ、 「ボイン」が新発売のパンティストッキングをはき、「ハレンチ」で「サイケ」な社会となり、 性風俗もやや自由奔放の感があった。
一方、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの公害病が発生、カネミ油症事件も国会で問題となり、 第1・第2次羽田事件が起こる。原理運動は世の親を嘆かせ、東大・日大での大学紛争は長びき、成田空港阻止集会も開かれる。 しかし、三億円事件、参院にタレント議員が大量進出、GNPは世界第2位となり、明治100年記念事業も各地で大々的に行われ、 世はまさに「昭和元禄」時代でもあった。
このような時代背景で、先生の作品も各誌編集部の要望?を受けて、性風俗小説(『ミスター・エロチスト』など) や艶笑エッセイ(『体験的艶書』など)がかなり書かれている。 タイトルにも『サイケの世界』『昭和元禄女大学』『はれんち作戦』『夜のヤマトダマシイ』 などと流行語が取り入れられ、『銀座祭り殺人事件』など、進行中の行事に場を借りたものもあり、 まさに積極的に"時代"を活写したといってよい。
先生が"健在"なのは、この『美男奴隷』もそうだが、いま概観した20年前の、物価を含めた世相、風俗、 流行などがよく分かるように、あとになって"資料的価値"が出てくること、もう一つは"時代の先取り"であり、 これが今の読者にも新鮮に映るからではないだろうか。
また、先生の作品は、性は普遍であることを時代風俗とともに伝え、読者は主人公とともに悩み考える、
「私も、かくありたい」と空想の世界に遊べるわけである。
ところが今や、性非行・性体験の低年齢化をはじめ、"SMプレイ"などアブノーマルな世界も進行するばかりで、
エイズ騒ぎもどこへやら、現実はこの小説の比ではないだろう。
このほか、当時の作品には『小説防衛庁』『幻の五社協定』『道路を食った男』『小説金嬉老―俺は半島人』などの硬派的、
社会事件を扱ったものも数多くある。
『皇太子妃スクープの記』も同じ年だが、これは『小説・皇太子の恋』(昭和33)や『ミッチィ騒動記』(昭和34)にみるように、
皇太子妃が決まるまでの宮内庁とマスコミの駆け引き、スクープ合戦のウラ話である。
今また、浩宮殿下のお妃選びをめぐって同じような状況になっていることは興味深い。
事件といえば、今年3月、20年ぶりに和解が成立したカネミ油症事件が43年10月に表面化した。
"黒い赤ちゃん"が生まれるなど、悲惨な公害事件で、西日本一帯に1万4千人の患者が出た。
私は梶山グループの先輩と、10月下旬の1週間、北九州の現地や県・市衛生局、大阪市立大など10か所近くをまわり、
取材原稿を提出したが、なぜかこの事件を題材にしたものは書かれなかった。
同じ年の12月、東芝府中工場のボーナス3億円強奪事件(時効成立)のときは、梶山グループも色めき立った。 日ごろ穏やかな先生も、取材の指示や進行状況のチェックに厳しい態度で臨み、先輩たちも緊張して耳を傾ける…… 私は、何か近寄りがたいものを感じたのだった。
先生が亡くなったのは45歳のときである。人生80年時代に、何とも勿体ないという気がするが、
一つの運命・寿命というものであろう……と他人ごとのように書いている私自身、間もなく45歳を迎える。
せめて長生きして、足かけ10年、助手として身近にいたものとして、何か先生のことを書き残さなければと思う。
先生の13回忌にあたる今年は、私にとっても一つの区切りであり、思い出を書き残すことは私にできる唯一の供養ではないかと思う。