『男を飼う』は、週刊明星(集英社)に1968(昭和43)年6月30日号から翌年7月27日号まで、55回にわたり連載された小説で、
変わった"性癖"をもつ男を次々と奴隷にする若い女性の物語である。
舞台は東京の赤坂、六本木や茅ヶ崎だけでなく、アメリカのロサンゼルスやビバリーヒルズなどと広がり、
俳優、ヘアデザイナー、画学生そして、富豪の女性にマフィアなど、登場人物もさまざまである。
このころ梶山先生は、女性セブン(小学館)に『苦い旋律』、それから派生した『浮世さまざま』、
さらに『青い旋律』とレスビアンの生態を扱い、女性自身(光文社)では、男を次々と征服する女が主人公の
『美男奴隷』を連載している。
男性週刊誌では、『と金紳士』(週刊文春/角川文庫)で、食欲と性欲は人間の二大本能との自説から、
男の夢を次々に実現させる破天荒な男を描くほか、『出世三羽烏』(漫画サンデー/改題『野望の青春』同上)、
『色魔』(アサヒ芸能/徳間文庫)、『濡れた銭』(週刊サンケイ/角川文庫)などを、ほとんど同時に執筆している。
月刊誌の連載、単発ものを含めると、毎月書く原稿は数百枚にも上った。当時、38歳前後だった先生は、まさに男盛り、
脂の乗り切っていた時代であった。
以前、『青い旋律』(集英社文庫、1988)の解説でも触れたように、昭和42、3年ごろからの日本は、
「昭和元禄」などといわれた太平の時代で、経済的に豊かになった半面、それに反発するかのように、
若者たちを中心にさまざまな流行現象が現れては消えた。
東京オリンピックの年(昭和39)、銀座に現れたのが、ロングスカートに大きな紙袋をもった若者たちで
「みゆき族」とよばれた。41年になると、舞台は原宿に移り、深夜に自動車の騒音をまき散らし住民に迷惑がられたのが
「原宿族」である。
エレキブームはその前年からで、ビートルズの来日(41年6月)で拍車がかかり、
ザ・タイガースやザ・スパイダースなどのグループ・サウンズが全盛となった。
ゴーゴー・バーや喫茶店があちこちにでき、その音楽に合わせて踊りまくるゴーゴー・ガールも出現し、
サイケデリックな音楽や絵画が流行した。
やがて「フーテン族」の間で、ハイチャン(ハイミナール)など気分が高揚したり、
幻覚作用をもたらすクスリがたちまち広がり、彼らは新宿駅前のグリーンハウス(芝生)で一日ゴロゴロし、
夜はダンモ(モダンジャズ)を聞きながら、その夜の相手を物色し乱交に近いセックスに耽るというありさま。
また、表面的にアメリカ人の格好をまねただけの「ヒッピー族」も現れ、
ベトナム戦争帰りの米兵からLSDなどのクスリも"輸入"されて、こういう方面ではいちはやく国際的となっていた。
そのような時代を背景に、先生は人間の欲望、とりわけ心の深層に潜む性的なものを、
冒頭にあげたような小説の形で表現し続けてきたのである。
ホモ、レスビアンやサディズム、マゾヒズム、フェチシズム、ゴムマニアなど、
だれにでも多かれ少なかれ潜んでいるものである。なにが正常で、なにがそうでないかということはなく、
だれにも正常な部分と、そうでない部分がある、という問題提起である。
子供のころにお医者さんごっこをしたり、よってたかって異性にいたずらをしたり、 からかったりという経験をもつ人は多いだろう。たいがいは、そういうこともあったなァですんでしまうものだが、 大人になっても女性の下着、パンティストッキングを盗んだり、電車の中にかぎらず痴漢・痴女がいるのは、 ときどき報道されるとおりである。
しかし、ここに描かれているように、芸術家、実業家や政治家など、特殊な仕事をするか、ストレスのたまりやすい人たちに、
多いというのも事実である。とくに、映画関係者はアメリカだけでなく、日本人にもみられるようだ。
じっさいに先生はアメリカにも飛び、ラスベガスでルーレットをするなど遊びも怠らなかったが、
そういう現実を目のあたりにして、精力的に取材もし、また、洋の東西を問わず古今の文献・資料にもあたり、
人間の深層に潜むドロドロ、モヤモヤしたものを、読者に代わって、白日の下に晒すという作業を続けてきた。
これを逆に見れば、先見性、見通しのよさである。
時代の先読みというか、ちょっとした現象を見逃さず、それを小説に取り入れる。
生前、ポルノ小説家、色豪作家などといわれながらも、上記のような作品を書き続けたが、今となっては、
さして珍しいことでもなくなっている。
一例をあげれば、今は男が化粧する時代、男性化粧品や、専門の美容院も珍しくないが、
「男だって、美貌を持った青年は、その美しさを強調してよい筈だった。女だけに化粧が許されてよいものだろうか?……」と、
第1章で、登場人物に語らせている。
また、現代のスポーツは多様化しており、海に潜るスキューバダイビング、空を飛ぶスカイダイビングは当たり前になっているが、
すでにこの小説中でそれぞれ登場しているのも目新しい。
先見性は生来のものらしく、小学5年生のころ、ある友人に「キミは将来新聞記者になるよ」と予言したり、
自分は小説家になると決めていたという。
昭和41年秋から助手をしていた私も、だれだれは役員になる、社長になるというのを聞き、
現実にそうなった例をいくつか知っている。
先生は、また日ごろの勉強も怠らなかった。
すでに蔵書の大半がハワイ大学図書館に寄贈されたが、風俗関係の資料は書籍・雑誌を含めて8百点ぐらいあった。
そういう文献の裏づけを取っているから、20数年後の今日でも読まれ、単なる風俗小説で終わっていないのではないか。
一方、小説は残っても、時代とともに消えていったものもある。
やはり第1章に出てくる、「店は、地下二階にある。……地下一階のところに、再びドアがあった。
それを押すと、はじけるような、エレキ・バンドの音楽が、不意に鼓膜を強く打つ。あの強烈な音楽のリズム。
そして熱狂的なステップ。人いきれと、マリファナの烟。……」と紹介された、赤坂にあった店は「MUGEN」(ムゲン)。
文中では「夢精」とあるが、現代のディスコやライブハウスの草分け的存在で、若者ばかりでなく、
有名人にも人気があった。改めて調べてみると、オープンは昭和43年5月というから、この『男を飼う』の連載が始まる直前である。
いかに先生が流行に敏感であったかということが分かる(閉店は62年2月)。
もう一つ、BG(ビジネス・ガール)が現代ではOLに、女中がお手伝いさんに変わり、国際線は羽田ではなく成田に、 8ミリはビデオに取って代わられている。しかし、これが時代を活写した風俗小説の真骨頂。 ただ古くさいと決めつけられない所以であろう。