”書くこと”ある風景「女からの電話」

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ある風景「女からの電話」

1966(s41)/2/3橋本健午

 戸を開けて、中に入っていくと、いつもの「あら、いらっしゃい」という耳慣れた声が聞こえない。 奥にでもいるのだろうと、ママに軽く会釈して、カウンターの隅に、一つだけ取り残されている椅子に腰かけた。

 新年そうそうで、店は混んでいる。夜の九時といえば、まだ酔いも中くらいだが、学生や教授相手のこの店では、 もうかなり酔って、大声を上げているものもいる。
 知っている顔はいない。まもなく約束した丹波がくる頃だが、これでは席を見付けるのに一苦労しそうだ。

 ママともう一人、中年の女がいた。ついこの間まで、若い女もいたが、好い人が見つかったからといって、 辞めてしまったそうだ。
 いつもの酒を注文した。女は、客の好みをなかなか覚えようとしない。贔屓ならば覚えるのかもしれないが、 私はその女をあまり相手にしなかった。彼女は、むしろ丹波と気が合っていた。

 私が浮かぬ顔をしているのを見てか、人に気づかれないように、近づいてきた彼女は、お酌をしながら、小声で、 「あなたの電話番号を教えて頂戴」と言った。
 それが、どういう意味か、私はすぐに理解した。
「Kちゃん……、暮れで辞めたのよ」
 私は思わず、"やっぱり!"と、大きな声を出してしまった。店に入ったときから、なぜかそんな予感がしていたからだ。

 そして、帰省する前に、丹波が言っていたことを思い出した。――Kさん、お前に向かって、もう一度来て欲しいと言ってたな。 あれは、ただ事ではないぞ。幸せもんだな、お前は。あんなKさんに惚れられるなんて……。ああ、俺も帰るのを延ばして、 明日もう一度来るかなあ――と。

 私は、とたんに酒が不味くなり、いささか不機嫌になる自分が分かった。教えるべきかどうか、少し躊躇したが、 住所と電話番号を、差し出された伝票の裏に書いた。手が震えていた。
 どうして、黙って辞めてしまったのだろう。なぜその前に、ひとこと言ってくれなかったのだろう……。 私はもちろん、暮れに彼女に会いに行った。しかし、店は混んでいて、思うように話もできず、短時間で別れ、 むしろ不快感を抱いてしまった。
 わざわざ店の外まで送ってくれはしたが、その時でさえ、辞めるような気配は、何もなかった。なのに、どうしてだろう……。

 独りで、そんな思いに耽っていると、いつも上機嫌な丹波が入ってきた。
「やあ、ご免、ご免、遅くなって……。ちょっとそこで美人に会って、と行けばいいんだが、麻雀やらないかって、 友達に誘われて、断っていたところだよ……。どうしたんだ、そんな詰まらなそうな顔をして」
 ちょうど空いた隣りの席に、座るか座らないうちに、丹波は捲し立てるのだった。

「あなたの饒舌は、まったくムードを壊すわね」と女が遮った。
「おれも同じ酒、それ大関だろ。それに、湯豆腐と毛ガニ。これは本場ものだよ、お前も食うだろ。ママ、二つだよ」
「一人前で沢山だよ。どうせ綺麗には食べれやしないんだから」
「あれ、俺は北海道だよ。毛ガニなんか、ガキの頃から、食ってんだよ」
 ママは、ああ、あなたは北海道だったわねと、笑って向こうへ行ってしまった。

「おい、静かにしろ。毛ガニと同じく毛むくじゃらなお前は、口数まで多過ぎるぞ」
「今日はどうしたんだ、何かあったのか」
「大ありさ、驚くな、……Kさんが辞めちゃったんだよ」
「ええ、何だって?」
「今、俺の電話番号を、彼女に教えたところだよ」
「一体、どうして辞めてしまったんだ。それ、本当か? 俺はもう、ここへ来る楽しみがなくなるじゃないか……。 Kさん、東京にいるのかな」
「………」
「いつ電話が掛かってくるんだ。電話があったら、俺にも知らせてくれよ」
 丹波は、二、三杯、立て続けに呑んだ。
「あまり無理するなよ、お前が気にしたって、始まらないんだから……」


 それは場末の、都電通りを少し奥に入った、どの道からきても、質屋の前を通らねば辿り着かない、小綺麗な"T"という、 小料理屋だった。
 私たちが、そこへ通い始めてから、もう二年近くになる。安月給取りの大学教授や、近所の旦那衆、 酒の味も分からないくせに、やたらと飲みに来る学生たち。

 同じ学生でも、俺は違うんだという意識が、私にはあった。多くの客は、酒と新鮮な肴を求めてくる。私も例外ではない。 しかし、Kさんがいるからこそ、自然に足が向いたのだ。酒だけで満足するのなら、何もその店でなくてもよい。 そして、それだけで満足するのなら、人間の心を必要としない、などと粋がって……。
 丹波も、私と専攻は違ったが、情趣を解する心は、いくらか持ち合わせていた。 だからこそ、私は彼を誘ってよくここへ来たのだ。

 カウンターに十人ばかり、二階の座敷に二組ほど入れるくらいの小さな店で、夏は焼き鳥、冬はおでんをメインにやっていた。 季節季節の味もそろえ、こも被りの銘酒があるだけで、別に客に媚びを売るわけでもない。 安いのが、取り柄といったところである。

 人を選り好みするくせに、誰に対しても愛想好くする、四十すぎのママと、女の子が二、三人、いつもいた。 女の子はよく替わった。ママもそうだが、こういう世界に入るのは初めて、という女たちばかりだった。
 それでも、酒と料理と、ママさんの棘なき減らず口を求めてくる客が、ほとんどであった。彼らの大部分は、 ある程度の地位と廉恥心とをもった紳士たちで、雰囲気といえば、最近めっきり薄くなったという酒の味と同じで、 淡白なものだった。

 一時、あまり若くはない、玄人肌の女がいたことがある。粋なのだが、それを十分発揮することもできず、 いくらもしないうちに辞めてしまった。
 ある夜、酔いにまかせて、彼女の家まで送っていったことがある。女は道々、"T"では物足りない、 かといって華やかなところでは、稼ぎも大きいが出費も大きいから、残るものは同じであると、くどくどと話していた。 送り届けると、お茶でもという女の声を後に、私は踵を返した。酔っ払いの女を、抱きたいとも思わなかった。


 丹波の顔は、数杯飲んだだけで、真っ赤になる。いや顔だけでなく、体全体が赤くなるらしい。 それに引き換え、私はまったく変わらず、青くもならなければ、赤くもならない。 変わると言えば、ある程度の量が入ると、 口が軽くなって、いくぶん陽気になるのだが、今夜は一向にその気配がなかった。

「お前、そんなにしょげてたってしようがないよ。Kさんがいなくなったわけでもないし、そのうち電話が掛かってくるだろう」
「うん、それもそうだ」
「しかし、急にどうして辞めてしまったんだろう、何かあったのかな? ママさんに訊いてみようか」
「なんだ、お前のほうがよっぽど気にしているじゃないか」

 丹波は、私を観ている。どこか神経質そうな、そして時々、甘えん坊のような仕種をする私を。 それが、Kさんの眼に好もしく写っているということも、知っている。弟のような、可愛らしいものとして、 私を遇している彼女を、それが、さも当然であるように、私たちの関係を見ていた。 尤も、"関係"などというほどのものは、何一つないのだが……。

 何かがあるとすれば、私に対して、他の客とは違った待遇が、いくらかあったということだろうか。 たしかに、私は彼女のお気に入りではあった。お酌を受けているとき、隣りの五十面をさげた男に、 嫉妬の眼指しで見られたこともあった。ただ、それだけのことであった。自惚れたところで、高の知れたものである。
 いわば、カウンターの、向こうとこちら側の、ある種の均衡にすぎない。そのカウンターがなくなれば、均衡も、つまり、 二人の関係も消滅することになるではないか……。

 十時近くになると、自然に客が入れ代わる。何気なく後ろを振り向くと、いつ来られたのかN教授の姿が眼に止まった。 相変わらずの、大法螺を吹いている。連れは"何十年来の親友"という人たちだろうか。割り込んだら、さぞかし驚くことだろう。

 その後、まもなく店を出た。かなり呑んだと思うのだが、少しも酔いがまわらなかった。
 丹波の案内で、暗い裏通りを歩いて、コーヒーを飲みにいった。そこでも、Kさんのことばかり話題になった。 とはいえ、確かな情報は、何もないのだった。

 丹波と別れて、もう終電も過ぎてしまった都電の、レールの上を歩きながら、私はアパートに帰った。
 考えて見れば、私の独り善がりかもしれない。どんな事情があれ、Kさんが辞めたことと、私との間には、 何の関連もないのだ。こじつけてみても、十幾つも違うKさんに対するほのかな恋情のようなものが、 私の感覚を鈍らせていただけではないのか。

 本当に連絡するつもりで、電話番号を知りたかったのかもしれない。しかし、ひょっとしたら、 Kさんにも"好い人"が見付かったのではないだろうか。
 そうだとすれば、いつまで待っても、電話は掛かってこないだろう。………(了)


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