「父と大連・満鐵…」トップページへ
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編者橋本嘯天(八五郎)は、1912年(明治45)4月、24歳の時、南滿洲鐵道株式會社〈滿鐵〉へ出向を命ぜられ、ただちに瓦房店《遼寧省》小学校、
つづいて本溪湖《奉天省》小学校の訓導(=教師)となっている。
《なお、半官半民の企業体、滿鐵が大連に設立されたのは1906年(明治39)、資本金4億4千万円、従業員は3万6千人を擁していたという。1945年8月の敗戦とともに消滅。》
訓導であった父だが1918年には満鐵讀書會「讀書會雑誌」の編集に携わっていた。
友人あて書簡に「小生の雑誌は、小生の関係して以来稍々面目を変えてきたので大分面白い材料が寄つてきます、こんな事は人知れぬ苦心なのと同時、
人の知らぬよろこびです。」(1918・9・30)とあり、同誌に掲載された他の方の文章を含め『滿洲より母国へ』の「付録」として巻末に収録されている。
自ら著者ではなく“編者”と記すゆえんであろう。
《父はその後、1922年(大正11)3月末に〈滿鐵〉人事課勤務を命ぜられる(職員俸給34円)…)
本書『満洲より母国へ』(発行=東亞印刷株式會社營業部(大連市近江町)/定価壱円五拾錢1922年4月2日発行)は、
仕事をはじめさまざまな見聞から痛感したことを書き記したものと思う。その「序」に次のように記す。34歳の時である。
ちなみに、このころ所属は〈滿鐵〉社長室社会課に替わっている。
序
滿洲の名を聞いて、多少の感興をもつ人。
その知人、その愛する者を、滿洲に住ませてゐる人。
嘗て此の野に血を流した忠勇の士の、父たり子たる人々。
本書はさういふ人達の一讀を願ひたい。従來滿洲紹介の著書といへば、殆んど其の國際的地位と、 其の資源と、若しくは植民地としての経営方針などといふ方面に限られて居た。 けれども夫れらは、専門家ならぬ者に、手つとり早く滿洲を了解せしむるに便利でなく、 殊に滿洲に於ける何等生活の、内面的事情に就ては、全然何等の記述もなかつた。 本書は特に此の点を重視して、滿洲の一般を概説するかたはら、聊か在滿邦人の日常生活を序して見たのである。 幸に滿洲に縁故ある人々の前に、我々の生活の一面を髣髴せしめ得るであらうか。
大正十一年二月 大連に於て 編 者
ついで、「目次」を列挙しておこう。
総説…日本と滿洲の関係/位置、地勢、面積など/暑さ寒さ/高粱と大豆/羊と豚と/林業/鉱産(付車窓から見た沿線の鉱産地)
沿線各地…滿洲の咽喉大連/旅順今の昔/金州城の斜陽/熊岳城の砂風呂/娘々廟は大石橋の名物/遼河口の営口/湯の湧く湯崗子/ 鞍山の製鉄所/遼陽の白塔/滿洲の中心地奉天/撫順の大炭鉱/鉄嶺風景/豆の都開原/四平街は四*線の分岐点/蒙古口の鄭家屯/ 公主嶺の農事試験場/長春は我が勢力範囲の尽頭/吉林は木材の集散地/哈爾濱(ハルピン)は滿洲の北口/山中の温泉五龍背/筏に名高い安束県/ 沿線の戦跡(戦跡案内)
滿洲の生活…運動熱/小盗児/結婚/行商人/日支親善/滿蒙開発/生活改善/社宅生活/社宅雑感/滿洲の家庭/滿洲の社会
巻末の「付録…松花江の民船(横瀬氏21ページ)/滿蒙旅行談片(編者5ページ)/馬賊の銃殺を見るの記(吹本氏11ページ)/ 島原女(春日井氏7ページ)/新所帯日記(英子氏22ページ)
今でいう文庫サイズのこの本は、当時の流行なのかどうか、つまびらかではないが、前後に広告(1社1ページ)が載っているのが目を引く。
まず、表紙側には「合資会社 高田商会大連支店」(営業品目…電気諸機械 一式など、20品(項)目を掲げる)、
そして、本書の印刷を請け負った「東亜印刷株式会社/東亜印刷株式会社大連支店」には、大きく“資本金壹百万円/創業十有九年”とある
(本社は東京市京橋区鈴木町12番地とある)。
ついで、口絵写真が1ページに二枚ずつ12ページ続くが(後述)、“大連第一”と謳う「浪速洋行」は「和洋雑貨をはじめ、欧米化粧品類の豊富なること大連第一。
不断新流行品を輸入致し居り候 御用命願上候」と分かりやすいが、社名は会社のある浪速町に由来したのか。
ついで、三菱と三井財閥が妍を競う? 形で並ぶ。三菱商事と三井物産の大連支店で、前者が「輸出入貿易業/三菱海上火災保険株式会社代理店」といえば、
後者は「輸出入貿易業/船舶保険代理業」を謳い、所在地はともに山縣通、という具合である。
次は、「株式会社 川崎造船所大連出張所」に対し、輸出入商「合資会社 湯浅洋行」で、英語で“Importers & Exporters/YUASA AND COMPANY/DAIREN.”とあり、
所在は山縣通にある。
そして、ようやく、鷲だか鷹だかが大きく翼を広げた“ニツポノホン”マークの下に、本社が神奈川県川崎町にある「日本蓄音機商会…大連支店」で前半は終わり、
やっと本文「総説」に入るのである。
後半の広告は6ページにわたり、「三星洋行」…洋酒食料品直輸入商、ついで「満洲特産株式会社」は“資本金壹百万円”とあり、
取扱業務は「一、大豆、豆粕、豆油、雑穀その他重要物産輸出貿易業、一、大連取引所 重要物産部/銭鈔部 取引人」のほか、
かなり小さな文字を連ねての広告となっている。次の「満洲塩業株式会社」の営業課目は「原塩、粉砕塩、洗浄塩、再製塩、製造売買及ビ附帯事業並ニ回漕業」となっている。
さらに、「大連起業倉庫」は“一般倉庫業・保険代理業”であるが、真ん中にあるのは“満洲特産物輸出商/大連重要物産取引所取引人”として「新正洋行」と連記されている。
残る二つ「満洲電気合資会社」は左上に電燈危惧材料など五つの営業課目を掲げ、右側には出張所:鞍山…、支店:奉天…、本店 営業所:大連市…、
工場:大連市…と記述に工夫を凝らしているようだ。そして最後に「合資会社 鈴木商店大連出張所」は「輸出入、貿易、船舶、保険代理業」が中心だが、
左横に「鈴木油房(ベンヂン抽出法)」とあるのは“特許”でもあったのだろうか。
口絵写真は、本書の理解に役立つ目的で挿入されることが多いが、それにしても1ページ2枚ずつ12ページというのはかなり多いほうだろう。順に、
旅順白玉山頂の表忠塔・遼陽の白塔/奉天北陵・奉天宮殿玉座/奉天城外の街路・金州城壁/満洲婦人の挽臼・支那人の旅行/
熊岳城の砂風呂・大連の氷すべり/鴨緑江鉄橋・鴨緑江採木公司貯木池及製材工場/支那人木挽・支那客馬車/大連満鐵本社・大連山縣通/
撫順炭鉱大山坑・大連埠頭構内大豆豆粕の野積/千山龍泉寺側面・大石橋迷鎮山海雲寺/旅順関東庁・哈爾濱(ハルピン)キタウスキヤ街/
支那人野菜行商人・満鐵社宅 とある。
最後に奥付であるが、「大正十一年三月二十八日印刷・大正十一年四月二日発行」の『満洲より母國へ』は定価金一円五十銭とある。
真ん中上段に“不許/複製”とあり、編者は大連市近江町ム区55番地に住む橋本八五郎であり、発行所は広告主でもある東亜印刷株式会社営業部で、
住所は編者とまったく同じである。しかし、この住所はいま私の手元にある書簡に記された、わが父のそれ(A区八)と同じではない。
というのは、どういうことだったのだろう。
念のため、昭和6年6月に発行された「大日本職業別明細図−信用案内 第234編−関東州」(東京交通社)にあたると、
「東亜印刷」は紛れもなく近江町に存在するが、区番までは分からない。官庁や学校その他法人、商店が主で、一般人の表記はまったくない。
さらに、そのウラにつく「旅順 大連市 金州」大日本職業別明細図(職業別索引)の「印刷業」には他の二つは記されているが、
「東亜印刷」は見当たらない。
ところで、このころの書籍はみなこのように作られていたのだろうか。
表紙から奥付まで、口絵を含み、目次に、序があり、本文となっているのは、従来どおりであるが、ノンブル(ページ番号)は、
今とちがい“白ページ”は計算外となっているようだ。最後のノンブルは“268”だが、口絵写真に前後の広告ページを加えると(計26)、
合計294ページとなる。
「沿線各地…旅順の今昔」
旅順へは、戦跡見物以外の人は、僅かに関東庁の役人達が往来するばかりである。
戦跡訪問の絶えないことは、春から秋の末頃までの各日曜日には、其の筋の許可を得た戦跡案内人が、一二駅手前迄出迎へて、
列車中で案内の特約をする程の盛況であるに依つても知られる。まことに旅順の名は、今壮年以上の日本人には、深刻な記憶を喚起させ、
青年以下の人々に対しては、新しき教訓を与へている。抑々満洲に日本人の活動して居る所以を考へれば、
当然日露戦争―から旅順にまで連想が運ばれねばならぬ。併し富士山の絶景を仰ぐ者は、山下の農民にあらずして、却つて他地方の人であるが如く、
旅順見物の感慨は、在満邦人よりも、内地からの旅行者に切なるものが多い。
汽車を下りると、停車場の軒を圧して白玉山が峙ち、山上には有名な表忠塔及び招魂社がある。
山上に登つて海陸の状況を大観すれば、その地形といひ、その防備といひ、実に難攻不落であらうとは、何人の頭にも浮ぶ。
殊に其の港口には、今尚黄金山砲台が厳然と構へて居て、例の閉塞船の作業が如何に決死の挙であつたかを想像するが、其の狭溢な水路を見ると、
成程乾坤一擲の勇を奮つて、敵艦を港内に封じ込まうとは企てさうな事である。
戦跡の最も著名な所は東鶏冠山と、二〇三高地で、敵味方共に悪戦苦闘の跡は、二十年後の今日も尚歴然たるものがある。
案内の支那馬車は、どの山上にも通じるが、我が郷里の連隊は此処で苦戦した、我が兄の戦死したのは此処といふ場に立つ人々は、何れも涙を催さぬはない。
此の同胞苦戦の跡を、馬車を駆つて見学するのは勿体ないと云つた者は、我々の案内した内地の旅行客の中にも随分多い。
関東庁、関東軍司令部、工科学堂、博物館等は皆新市街方面にある。皆露人の残した建築物を利用したので、是を見ても彼等の計画の如何に大規模であつたかゞ分る。
嘗て帝政時代、重要な一官人が此の地を訪ふたことがある。我が官憲に問ふて、『貴国では、我々の残した以外に何物を加へられたか』と言つたとか。
併し旅順の現況は、全くさびれ切つて居る。若し世説の如く、関東庁が大連に移転されでもしたら、旅順は滅亡するに至るのである。
そこで当局は当地の発展策として、大連に直通する大道路を開通し、此の地を住宅地として、設備するといふ説もある。
今既に夏季は好個の海水浴地として、内外の避暑客を集めて居る。当年軍国の都、今や将に人の平和を楽しむ地と成りつゝある。世の変遷の亦急ではないか。
【お断り…再録にあたり、漢字表現について原文に忠実を期そうとしたが、わが機器および能力の限界で、中途半端な結果となっております。以下も同様】