滿洲より母国へ〔編者:橋本嘯天〕その2 2009・07・28 橋本健午

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満洲の生活

 日本人が満洲に於てどんな生活を営んでゐるか、そして、彼等の社会に内地と異なつた特徴があるとすれば、それはどんな点であるか。 編者は之を紹介するために、次に掲げる数題目を選んで見た。之によつて、満洲生活の内面が、幾らかは窺われやうと信ずる。

運動熱

 満洲の冬は長い。最南端の大連、旅順でさへ、十月末から四月迄、凡そ半歳足らずの間は、氷滑(スケート)をのぞいたら、戸外運動は出来ない。 日本の様に所謂気候温和、風光明媚な土地に生まれた我等にとつては、この冬籠りは可なりな苦痛であつて、殊に子供のある家庭では、 小学校へ行つて居れば兎に角、まだ学齢に達せぬ幼な子のためには、此の室内蟄居を余儀なくせらるゝ期間を、新鮮な空気、日光、思ふさまの運動、 それらが不足しはせぬかと、細心な注意を以て健康に顧慮する。それ故に氷が溶けて土が軟らぎ、アカシヤ、ポプラの梢が緑に染まる日が来ると、 今まで屈して居たゞけに、人の心は自ら戸外へ向ふ。日本人は満洲に生活して、初めて春への感謝を経験する。
 杏や梨は、其のありかと、其の数とは少いが、内地の桜に比してよい。菜の花もなく、紫雲英《ゲンゲ》畑もなく、飛ぶ蝶も少いが、 山ふところに懐かれた支那部落の、花をかざして居るのを見ると、彼らが現代に遠い生活をして居るだけ、悠揚迫らぬ感じは、 内地の田舎に於けるよりも湧き易く、一種の親しみを覚えるのである。
 併しかういふ行楽は、普通の青年の特に好む所ではないから、彼等は青年相当の運動競技を要求する。 誠に各地に於ける運動会、殊に野球、庭球の流行することは、内地人の想像の外である。 先年満鐵会社の野球、庭球の選手団が、内地にまで遠征したこと、而して其の実力が内地の各チームに劣らないことは、競技界の認めた所であつた。
 春から秋まで、野球グラウンドは大小の試合ある毎に大多数の市民を誘ふ。 午後二時、西公園に野球があるといへば、大連では其の日の午後は雑貨屋からも用聞きが来ず、大会社へ電話をかけても用の達せぬことが多い。 それだけに市民の野球知識は驚くほどで、婦人も小児も、あらゆる階級を通じて選手の噂、勝敗の批評を試みる。 大試合のあつた夕は、ひいきチームの敗戦にふさぎこむ主人、共同浴場でまでも通を振りまはす婦人は珍らしくない。 横須賀の芸者は軍艦の動静を、福井の遊女は羽二重の相場を、其の道の人より早く委しく心得てゐるといふ話を聞いたが、 大連の芸者が野球を解する事から推して、固より当然の現象だらう。関東長官や満鐵社長の名を知らぬ子供でも、野球選手の名と、 各々のモーションとを喋々する。
 野球、庭球以外の運動競技も、内地のお祭りと、盆踊と、東京ならば、相撲と両国の川開を一緒にした程に賑ふ。それ程運動には熱狂する。
 日本では諏訪湖だけが有名な氷滑(スケート)は、満洲到る処に普及して、すでに女生徒間にも行はれやうとしてゐる。 池や水溜りのない土地では、水道を注いで、コートを造る。大連、奉天の競技会、殊に安東に於ける鴨緑江上の大会は、全満選手の血を湧かす。 電灯を設備したコートも数箇所あつて、どんな厳冬中の夜間でも、そこには寒威を征服せる人の活躍を見る事が出来る。
 運動がこんなに盛んな理由として、
  一、前記の如く自然を相手の行楽が出来難いこと。
  二、運動盛りの青年が多いこと。
  三、気候、風土に対抗するため、運動の必要を感得してゐること。
 などを数へることが出来やうか。

小盗児

 小盗児はセウトルと読む。強盗、馬賊に対して鼠賊の謂である。 これがまた日本人の住宅の隙を窺つては、手あたり次第に、しかも頗る機敏に物を掠めて行く。 非常な金目な物を盗まれるといふではないが、日用品を片端から持つて往くので、其の日の用に事を欠く。 之が随分と奥様泣かせである。『人を見たら泥棒と思へ』といふ諺の真理は、満洲へ来て味はれる。
    ×  ×  ×  ×
 魚類、野菜、果実、豆腐等の日用食料品は総て、其他どんなものでも、春秋の清潔法の箒や石炭まで、行商人は総てといつてもいゝ程支那人である。 勝手口から『野菜(ヤサイ)不要(プヤオ)?』『魚(サカナ)不要(プヤオ)?』と用をきく。 どこの内でも、毎日の様にガスの傍に置いたマツチがなくなることがある。それは、いつも信用して買つて居る野菜売が、 一寸したすきにそのダブダブした上衣の懐に入れるものだといふ事がわかる。何でも手近なもの、包丁でも、石鹸箱でも、洗濯盥に浸した靴下でも、 手当り次第に捻ぢこんで、何食はぬ顔をして居る。野菜車のアンペラの陰に友禅モスの子供の着物(勿論日本製)を見つけた時には、 その恥知らずの図々しさに驚いた事もある。又毎日、数知れぬ屑屋が、古着、古道具を買ひに歩く。何時でも耳を澄ますと、どこにか、 『ボロ、ワタ、ボロー』の声が聞える程多い。それが中々臭い。夏になつて干し物が多くなると、彼処でも此処でも『浴衣を盗られた』 『毛布を盗まれた』『私の家ぢや子供のおしめをすつかりとられてしまひました』と口惜しがる。 大抵この屑屋が、油断を見すましては、巧みに盗んで、その商売籠に入れてしまふ。
 いつであつたか、夜着の綿をとられた事があつた。迚も手の届かない程高く上げてあつたが、その竿の下には洋傘の古い柄に、 竹ぎれをつぎ足したものが落ちて居た。それは、高い所のものを引かけて盗むのに便利な道具であつた。 又或る時妻は、ヒヨツト勝手口の戸をあけた所、乾した毛布を挟んだクラスピンをとつて下において、今や毛布を卸そうとする所であつた。 びつくりした。先方もびつくりした。それでも、駈け出しもしないで、ノソノソとどこかへ去つたが、こちらはあきれて、 暫く下に落ちたクラスピンを見つめて居たと語つた。
 冬は又、彼らはよく石炭を盗みに来る。それは大抵夜半のことで一トンの石炭を三晩に運び去られた話なども、よく耳にする。 尤も倉庫には厳重な鍵をかけるのであるけれど、どうして開けるのか、巧みに開けては盗み去る。 木炭を盗まれた所、薪、薪割の斧を盗まれた所、無難なといふ倉庫はない位。又近頃煮た魚を鍋のまゝ盗られてしまつた話を聞いた。 その人は、『蒸らしておいた御飯を、お釜のまゝ盗られた方があります。もういゝ頃だと思つて、ガスを消しに行くと、火はそのまゝで、 お釜がないので、一時ボーとしてしまつたといつて居ましたが、其の時私はをかしくて仕様がなかつたのでした。 ところがこんどは、宅の番でした』と、をかしい様な、口惜しい様な顔をして居た。
 大連の支那人街の一部に、随分広い場所を持つた市場がある。そこへ行けば、衣食住に必要な品物は、新しい物古い物、 多くは下等品だがどんなものでも無いといふ物はない。しかも非常に安い。 それもその筈、こゝは前に書いた様にして盗んで来た贓品を売捌く所なのだから。少し金目な物を盗まれると交番に届ける。 交番でも、盗まれた方でも、先づこの泥棒市場へ探しに行く。さうして手に帰ることも少なくない。 こんな風だから『支那人を見たら泥棒』と思ひたくなつてしまふ。 『いつもいつも、こんなに泥棒せられて居て、日支親善も何もあつたものぢやありませんわ、主人があの日支親善のポスターを壁にかけろと云ひましたけど、 私、真平だつて取つてしまひました』と言つて居る奥様があつたが、全くこちらがいくら親善々々と叫んでも、又叫ぶことも必要だが、 其の実の挙らないのは、一つは斯かる無恥な支那人が多いからである。

結婚

 日本の満洲経営以来、十七八年にしかならないので、最初の第一年に生まれた子供が、そのまゝ育つて居るとしても、今漸く結婚期に達したか、 達しない位であるが、現在の満洲には、その後、子供を連れての移住者、特に男子にありては、相当年齢に達しての単独渡航者、 学校卒業生の就職者等で、今日の満洲には男にも女にも、結婚の好期にあるものが頗る多く、動もすれば、婚期を失はうとする者も、ない事はない。
 茲に青年があつて、其の配偶者を求めようとする。彼等は多くの場合、父兄と共に居らぬ。習慣の為めか、かゝる事を先輩に相談することを好まぬ。 それも先輩のあるのは宜いほうで、そこまで打明ける人を持たぬ者が多い。そこで彼等は郷里の父兄に頼む順序となるし、 父兄の方でも本人にも増して心配して居るのであるが、郷里とて一概には云へぬが、見聞の狭い地方になると、其の満洲に関する唯一の知識は、 日露戦争後、出征軍人のもたらした土産話に過ぎないので、その後二十年近くを経た今日も、満洲は依然として昔の儘だと信じてゐるので、 娘の本人も、娘の父兄も、その縁者も、決して満洲行きに同意せぬ。 『此方にだつて無い縁談ぢやなし、なんの満洲三界にまで往かんでも』といふことになり、その縁談は容易に成功せぬ。 中央の学窓を出たばかりの青年が、満洲で働くこと三年、又は五年、漸く生活の基礎を固めたからと、求妻の為め郷里へ帰つたが、 郷里では何人も満洲行きを肯じない。で、手を空しうして戻つて来たといふ話や、互いに相思の間であつた男女が、女は内地に止まり、 男は満洲に来て、さて数年の後約束を履行しようとすると、女の方から断つて来るといふ風な話は、時々耳にする所である。
 女を内地に求めるには、以上の如き困難が伴ふ。そこで之を満洲に求めたら如何といふことになるが、どういふ訳か、 満洲の男は概して満洲育ちの女を嫌ふ。彼等の心情はすさんでゐる、温良貞淑でない、虚栄心が強い、といふのである。 日露戦後間もなく渡満した人々には、一攫千金の夢を事実にした者もあらうから、それらの家庭に育つた女子の、 金遣ひが荒からうと恐れをなすのは、今日の安月給取りの男子にとつては無理からぬ処である。 たとへ財産家とか、実業家とかの娘でなくても、一般に植民地気風といふものに、全然感染してゐないとも限らぬ。 だから若し男子に求妻者があつても、女の男を選ぶ標準が遥かに高くなつてゐるから、到底成立しないと云ふのである。
 そこで女の為めに説をなす者がある。満洲の女が高く止まつて居る限り、男はその相手を内地に迎へる。 仮に現在の満洲に青年男女が略々同数居るとして、その男子が妻を内地から求める数だけ、満洲の女が過剰すると想像される。 女も男に対抗して其の相手を内地に求めるといふであらう。又事実内地に嫁した例も随分多い。 が女の内地行きは内地人の満洲に関する知識の乏しいことゝ、一般に生活が満洲より苦しいことゝで、それは、男が内地から妻を娶る以上の困難を免れまい、と。
 また男子の為めに言ふ者がある。満洲に生活する以上、満洲の社会と気候とに順応することは絶対に必要である。 満洲で成人した女は、少くともこの点に於ては、即ち満洲生活者にとつては極めて大切な点に於て保証せられてゐるのではないか。 単に想像上の杞憂から、かゝるつよみを有する相手を顧みず、之を遠く内地に求めようとするのは何であるか、と。
 現在満洲には五個の高等女学校と、十個近くの普通及専門の男子の学校がある。彼等は将来内地と満洲の何れに配偶を得る運命にあるだらうか。

行商人

 予の故郷は、今でこそ汽車も開通したが、子供の時分にはどちらを向いても、一日以上車に揺られなければ汽車のある所までは行きつけなかつた。 それ程に辺鄙な土地であつたけれど、緞子、繭紬を売つて歩く支那行商人はいつも一人二人は入り込んで居た。 その本場であるその国へ来て、それが多いのは寧ろ当然の事であるが、日本人相手の行商人の多いことには驚かざるを得ない。 中には日本人の使役としてゐる行商人も少しはあるが、それは、日本人に限られた、朔日十五日の、榊、お飾餅、土用の丑の鰻の蒲焼といつた風な物で、 日常必要な野菜、魚、果物、豆腐、菓子等の食料品から、箒でも塵取でも、バケツ、金網の類、緞子、繭紬は言ふに及ばず、 編物が流行すれば毛糸、洋服がはやればレース類、春秋の大清潔には、石炭を売りに来、もつと驚いたのは、石炭泥棒のはやつた冬には、 倉庫の錠前を売りに来た事であつた。
 誠に便利で、人手の足りない満洲生活、殊に冬の外出は全くやりきれないところを、一歩も外に出ずに日々の用を達して行かれる事は、実際有難い。 が、その行商人たるや、狡猾な事お話にならない。正価の三倍も四倍もの掛値を言ふ。不正な衡《はかり》を使ふ。 そして目方をごまかす。古いものでも腐つたものでも混ぜて売る。うつかり信用したら、馬鹿を見る事が多い。
 いつだつたか、一貫目二十五銭といふ白菜を、五貫目七十銭に値をつけた処、売れないといつて三間程歩いて、 こちらの気を引いて見たが、それでもこちらで黙つて強く構へてゐたら、とうとう売つて行つた。 彼らがこちらの気を引いて見る時、それに屈しないのが買物上手で、かゝる例は毎日ザラにある。 ところで向ふの衡は剣呑だと思つたので、自分の衡を持出してはからせ、確かにある五貫目より強いと思つて買つたのであつたが、 念の為めに今度自分の手で衡つて見ると、四貫あるかないかであつた。 彼等が衡の提げ革を持ちながら、小指で竿の端をおさへて目方をごまかすことを観破する迄には、満洲の主婦は大分経験が入る。 そんな不正な事をしても、平気で翌日また売込みに来る厚かましさ。その話をすると、『あなたの衡で、あなたの目の前ではかつた。 あなたはそれを見て居ていゝといつたではないか、私は知らない』といふ意味の事をいつて、今日は買はないかと、なおも押売をする面憎さ。 腹は立つが、来る支那人も、来る支那人も、それと同様なのだからたまらない。 腹を立てゝ買はなければ、食べずに居るより仕方がない。魚売でも、繭紬売でも、百人が百人ながら、この寸法なのだから、 結局、こちらもできる丈け狡猾に出なければ損となる。
 これは行商人ではないが、毎日何十人かわからない程、呼んで歩く屑買も、少しの油断も出来ない。 前の反対に秤目をごまかして、軽く計り、値段も半値か三分の一位から云ひ出して、それで売らないかといふ。 こちらが腰を強くして居ると、チビチビと上げて行つて、相当な所まで行く。そして此の辺で買ひたいと思へば、二日三日は続けて来る。 少し金目な、洋服の古手とかいふ様なものになると、三人でも四人でも仲間を作つて、立ち代り、入れ代り執拗に買ひに来る。 何食わぬ顔をして『ボロを売らないか、古綿はないか、古洋服は高く買ふ』と来る。それでも『無い』といふと、 『古い洋服はもう売つたか、私は高く買ふ』と念を押す。こんな風に、何人も何人もが幾日もかゝつて、ジリジリ値段を上げて行き、 どうしても売らさずには置かぬといふ熱心さ、この根気には負けて、面倒くさくなつていゝ加減に売つてしまふ。
 いつであつたか、古新聞紙を売つたことがあつた。その交渉が面倒臭いので予め目をかけておいて、当時の相場で勘定して売つてしまつた。 彼はその時衡をもつては居たが、それではからずに、こちらの言つた目方で金を置いて去つた。 不思議に、少しもこちらを疑ふ様子がない。彼らには珍らしい態度なのに感心して、好い気持ちで居た所、 ものゝ小一時間もたつたと思はれる頃『先刻の新聞紙はあなたが言ふ程の目方がない』といひ出した。 彼れに対するさつきの好感は、忽ち裏切られてしまつた。『そんな筈はない』といつても、『ぢやも一度計つて見よ』といふ。 計つて見ると成程目方は足りぬ。成程うまうま彼の姦計にかゝつてしまつたのであつた。 彼はその新聞紙の幾何かを彼の仲間にでも預けておいたに違ひない。ほんの僅かな金高、十銭になるかならずの金高ではあり、 売る時、彼の目前で計らなかったのがこちらの手落、言ふだけの金は返してはやつたが、その仲間と、赤い舌を出して笑つてゐる事であらう。
 今でもその屑買人は、何食わぬ顔でときどき買ひに来るが、顔を見ても返事も出来ない。
 大連では日本人の手で行商人組合といふものが経営せられた。 売り歩くもの、買ひ歩くものに、それぞれ色分けの腕章をつけさせ、それに番号をつけた。 例へば、屑買ひは赤白、野菜売りは緑白といふ風に。
 そして、その腕章をつけて居ないものは不正なものと見做され、付けて居る者で、不正な行為をしたものがあつたら、組合の方へ届出る様にとの事である。 良い思付ではあるが、まだ実効がある様に聞かぬ。

日支親善

 我々が内地にゐて、満洲を視察してきた者の話を聞いた事がある。その中には、日本人が支那人をいぢめつける話が加へられるが常であつた。 車から下りる。車夫が賃銭をやかましく請求するからと云つて、横づらを殴る。汽車に乗つて自分の席近くに支那人が来る。 『汚ない! 彼方往け』と打つ。視察者にはそれが不合理で不憫に思はれてならぬから不審がつていると、 『いや斯うして置かねば付け上がる。彼等は斯うして押さへて置かねばならない』といふ、古く住む者の答弁であつたといふ事である。 是に類似した談話は、幾人かの口から語られた。
 日本が満洲を経営した最初の頃は、所謂戦勝の余威を肩に来た日本人中には、かゝる暴行を敢てした者が必ず多かつたであらう。 戦後二十年の今日でも、似通つた事実が全満の到る処に繰返され、日々夜々に視察者の目を驚かし、新来者の心を寒うせしめ、 五年十年たつてゐても、相当考へを持つ者をして、眉をひそめして居る。
 外国人に対する交際法を知らぬのが、日本国民の一大欠点とせられて、今日では小学校の教科書にも其の心得を説いてあるのだが、 外国人と接触してからの経験がまだ乏しいのと、一種の愛国熱のために、人類愛の念に乏しいとの為めに、識者先覚者の絶えざる注意指導と、 仮すに多くの歳月を以てせねば、一挙にして此の弊を矯めることは出来まいと察せられる。
 そこで日支親善論といふものが唱へられる。或は日支共存共栄論ともいふ。 上は台閣の諸公から、中央の大新聞、政治家、経済家、満洲に於ては関東庁や、満鉄の要路の人々も一斉に之を口にする。 支那側からいへば、他国の利権を犯して置きながら、親善論も無いものだといふかも知れぬが、併し親善論その物は結構である。 特に満洲に在住する同胞中には、外交上の辞令でなく、腹に一物を持つのでなく、本当の精神から、親善を希つて居る者が多いのに、 まだ数多い人の態度が容易に改まらぬのは遺憾の極である。
 関東庁も満鉄も、支那人子弟教育の為め、公学堂を設立している。そこには日本の優良な教師を送り、日本流の教育を施し、 義務教育でこそなけれ、略々我が小学校と同様に普及し、已に旅順には公学堂の為めの師範学堂、奉天、営口には支那人の為めの中学校や商業学校も出来た。 是等に奉職する日本人教師は、一意日支親善を説き、且つ身に行はうとしてゐるが、他の日本人が之を裏切る行為をして見せるために、 粒々の辛苦も水泡に帰するといふのである。彼等の一部で内地へ修学旅行に往った者がある。 内地の到る処で歓迎せられ、一般に人情の温和なのを見て、帰来嘆じて其の教師に問ふさうである。 日本に居る日本人と、満洲に居る日本人とは、別種か同種かと。
 勿論支那人にも欠点がある。何れ打つたり叩いたりすることは、内地に於て内地人同志、欧米に於て欧米人相互にもあつて、 決して珍らしいことではないが、それは上品な連中ではない。満洲での日支人間の不和の現象も上流に多く見ることではないが、 男子の風は婦女子に移り、婦女子の風は自ら子供に及んで、片言交りの幼児時代から、支那人を罵り、 支那人の大道商人から平気で物を掠めて逃げ去るような乱暴な態度は、いつの時代に改善されるであらうか。 日本人は満洲に居て、四六時中支那人との感情を衝突せしめつゝ、その感情衝突より由来する不快を忘れるまでに、和平の気を失つて居るのではないか。
 日支親善を事実にするには、土地としてもっとも満洲を適当とし、而して人として在満邦人をその急先鋒とするのであつて、 皆がさう信じて居つゝ、さて改善の実を見ない所からすると、日本人の愛国心が、多少でも人類愛に達し得る日は近くない。

満蒙開発

 在満邦人が、最も好んで口にし筆にする言葉がある。一は日支親善で、他はこの『満蒙開発』である。 満洲蒙古の富源は無尽蔵である。之を開発して、東洋の繁栄を策するものは誰であるか。 本国の支那はその力及ばず、北方の露西亜は、今や混乱を極めて居り、唯僅に米国の野心を警戒せねばならぬが、 之とて地の利をしめた吾によく匹敵すべくもない。然らば真に満蒙地方の経済的発展を企図し、此処に文化的政策を行ふの実力を有するものは、 我を措いて他に求められまいと云ふのである。
 此の所信は日本の国家存立上、鉄、石炭、羊毛、進んでは主要食料の不足をも此の地に得ようとする、政治上、経済上からの主張と、 稀には日本の文化的余力を以て、他の低度の民族を教化するとしたら、世界に残された地方は、唯一の満蒙のみではないか、 といふ人道的見地からする意見と、今一つは、満洲は植民地である、到る処に遺利もあらう。一攫千金は夢に止まつても、 満洲に於ては、何が無しに内地に見られざる、冒険的事業が成就されぬでも無ささうだ、といふ想像と、 それらが幾らかづゝ混合して醸成されたものゝ様に思へる。 殊に青年期にある在留者及び後来者には、最後に述べた一攫千金的の侵略主義的の思想を抱いて居る者が、割合に多いのではあるまいか。
 然るに植民地としての満洲はどうであるか、土地は広く、富源も豊かであるにしても、それは我々個人の力では、 如何ともする事の出来ぬ厳然たる独立国民の所有する所であるから、勢い大資本を擁し来たつて、近代的組織の下に経営されねばならぬ。 実際内地資本家の満洲に注意し、投資するに至らんことは、在満の要路者が屡々声明する所である。 斯かる状態であるが故に、在満の邦人は、如何に壮快なる決心を有しても、徒手では何事も出来ない。 そこで大資本の前に額づいて、僅かに衣食の資を得るより他に道はないのである。 だから、若し、漠然と満蒙開発の語を信じ、或は植民地であるが故に、自由に手腕が発揮されさうに信じて来る人があつたら、 非常な落胆を以て報いられるであらう。
 東京の或る学校を出た一青年があつた。内地の社会に活動の余地が少いのを嘆じた時、すぐ眼前に満洲といふ広野がころがつて居た。 そして其処に居る邦人は、何れも満蒙の開発、日支の親善を唱へて、今の日本に於て国家の為めに奮闘して居る者は、 只自分達だけの如き口吻を洩らして居る。その土地を見、その言を聞けば、如何にもさう信じてもよい。 之がこの青年の意気に大いに投合する所があつたので、青年は雄志を抱いて玄界灘を渡つた。
 やがて大連に上陸した彼は、胸に植民地経営の大策の溢るゝものもあり、路傍の人の如きは眼中に無かつたであらう。 斯くて彼は某大会社に就職した。そして日々出勤してみると、彼は驚かざるを得なかつた。その仕事は、矢張帳簿をつけ、算盤を弾くことであつた。 即ちそれは東京に於てするも、大阪に於てするも、全然同様のことであつた。時には状袋の宛名も書かされた。 月俸何十円也は我慢し得るとして、日支親善を信じ、満蒙開発を信じた彼には、この仕事は到底堪え切れなかつた。 辞令を受けて数日、彼はその仮に宿つて居た先輩の家から、突然姿をかくした。
 其の家でも、其の会社でも、彼の行方は問題になつたが、幾日かを経て彼の郷里から、彼の認めた葉書がついた。 曰く『会社に於ける日々の仕事は、我が素志と隔たること余りに遠い』と、彼は一個の行李を先輩の家に置きざりにして、遂に帰郷したのであつた。
 日支親善も満蒙開発も、日本人殊に在満邦人の標語として、誠に恰当だとは思ふが、それが空念仏に終らぬ様にとは、 要路者の常に意を用ふべき所でなければならぬ。

生活改善

 東京に生活改善の運動が始まれば、其の波動が全国に広がる様に満洲にも当然及んで来なければならぬ。 満洲を日本の一地方として考へてみると、東京での生活を経験した人の多いことに於て、東京と往復する人の多いことに於て、 また人々の教育程度に於て、生活に余裕ある者の多いことに於て、内地の何れの都会に比しても遜色はあるまい。 人口も二十万に近いと云へば、この点からも大都会の部に数へられる。 彼等が若し内地へ旅行する機会を得れば、所謂三都《東京・京都・大阪》の最新流行を見逃すことはない。 彼等の中には欧米へ出張、留学する者が絶えず、其の帰来談も聞きあきて居る。 これだけの条件が具はつた土地だけに、内地の流行に後れまいとする傾向は可なりに強く、事柄によつては、一歩を先んじようとする態度も見える。
 服装の改善といつても、男子は公の場合に既に洋服に一定して居るが、婦人服となると容易な問題ではない。 第一社会が、婦人の男子同様に世間に出て立ち働くことの必要を感じないのと、婦人自身が一般に保守主義者である上に、 男子側の『婦人観』が変化せぬ限り、実行期に至るには尚多くの時日を要する。 先づ女学校から始めようといふ議論もあるが、頑固な教育者中には、家庭と社会の実際から、特に若し内地へ縁付いたら何うする、といふ訳で、 尚早説を持する者も居る。
 併しながら、日本の婦人服が活動に不便なことは、何といつても争へぬのに、満洲の如く冬寒い地方では、保温の上からだけでも、 大欠陥があるとされてゐるが、四季を通じて折々強風に見舞はれる時は、黄塵を浴びながら、其の紅裙を翻すといふ有様、 之れを支那人から見ると非常に劣等な風俗となる。支那の婦人服は、細袴を用ひ、脚部の如きは、指さきさへも表さぬ習慣になつて居るから、 我が婦人服のだらしなく見えるに無理はない。風のある日、辻待の車夫(悉く支那人)が日本の奥サンの紅い蹴出しを眺め入つて、 拍手して居るのはよくあるシーンである。『之れぢや国辱だ、日支人の何れが劣等人か分からんぢやないか』と憤慨する士も無いことはない。 そこで生活改善は婦人の服装から、と手製の洋服を着る女事務員も出来、支那服を着けて、服装改善の傍ら、婦人同士の日支親善に資したいといふ、 有暇階級の女性も出現した。
 服装が子供になると、必らず新調せねばならず、同じ新調するなら、洋服といふ事になり、若い母親達には先づミシンの使用が流行し、 教師を家庭へ招いて練習を競ふといふ勢ひに、今や手製の子供服が街頭に溢れる様になつた。 東京の婦人雑誌が子供服の裁ち方を鼓吹して居るが、それが最も実現して居るのは、恐らく満洲の日本人社会を第一とする。
 住宅は防寒の必要上、外壁だけは殆んど総てが煉瓦造で、唯一の安東県だけに木造家屋を見るばかり。 外観は旅行客を驚かして居るが、内部は依然として、たたみ式である。便否の上からは、椅子と畳とは比較すべくもないが、 どうしても着物を着てあぐらをかゝないと気分がくつろがないので、習慣の力の偉大なのには、流石満洲の新人達も閉口の体である。
 食物の方は、米が主として朝鮮産で、副食物は内地の魚肉の代りに牛豚肉が多く、また鶏卵や野菜が容易に得られるといふ以外、別に内地と変らぬ。 勿論松茸や鮎や、内地の季節物とか、一地方の名物とかは缶詰を用ふるを余儀なくされて居るのは是非もないが、 要するに在満邦人の食物は内地のそれに比して、何等相違の点がなくて而かも其の嗜好は一般に向上して居るといつて宜からう。 ロシヤパンを流行させるとか、支那料理を加味するとかいふことは、多少行はれんではないが、それらは改善といふよりも、 寧ろ贅沢に傾かうとするとも云へる。内地の物資が斯く潤沢に手に入る土地で、食物に改良を施さうとするのは容易では無いのである。
 衣食住の外の、社会の儀礼や習慣なども、固より生活改善の範囲に属する。 真面目に考へて、満洲には未だ社会的因習が少いので、若し悪習慣を造るまいとすれば、造られないだけの可能性はあらう。

社宅生活

 満洲各地に働く者は、少数の商人を除けば、皆所属会社の社宅に住んで居る、恰も内地の官吏が官舎を支給されて居る如くに。 只内地の官舎は、都市住宅中の一少部分に過ぎないが、満洲に於ける社宅は、地方にもよるが、その地方住宅の大部分を占めて居るのである。 それだけ、社宅生活は満洲生活の一特徴と見られる。
 社宅の設備は、それを経営する会社の方針に依つて区々であるが、特別の高級社員にでもならぬ限り、大抵一棟六戸乃至十二戸建の長屋に入れられる。 そしてそれが多くは上下が別々の住宅になつて居るから、構造こそ堅固に出来ては居るが、自家の頭上、又は脚下には、他人が住まつて居るのであるから、 内地人の多くが、下宿か旅館でなければ経験せぬ事実が、こちらでは最も普通の事実となつて居る。 さうした社宅に、間数、畳数が十分ありさうな事はない。花を植ゑたり、土をいぢつたりする事も、階上に住む者は先づ断念せねばならぬ。 斯かる住宅に入ることは、満洲は住みよいとばかり聞いて来た最初の人々に、甚だしい失望を与へて、特に家屋を其の本拠とする主婦達に、 屡々嘆声を発せしめる例がある。それも近所となりに知合でもあればまだしも、東北地方と九州地方とが上下になつたり、 山口と北海道とが隣合つたりして、しかも其の主人の職業なども違ふのであるから、最初の窮屈さは、先祖伝来の同一地方に生を送る人の知らぬ所で、 新しがり屋の新旧夫婦別居論者でも、一寸兜を脱ぐ所である。
 自分の家でない悲しさに、会社の都合で、何時他へ移転せねばならぬかも知れぬ、若し甲地から乙地へ転勤でも命ぜられゝば尚更の事。 勤続年数や、家族数や、身分の高下によつて社宅を区別して居る会社にあつては、社宅居住者は、皆勤続年数の加はる毎に、家族数の増す毎に、 或は昇給する毎に、上級の社宅へ引越さうと考へて居るのだから、自分の現在の住居に対して、これも父祖から子孫に伝へる家に住む者と、 同一心理にあるものとは思へぬ。家に対して斯く考へねばならぬ境遇に在る事は、例の家族制度の精神に、幾分かの隙を生ぜしめやう。 併し同時に、それに住む人々をして移動の活発な、活動範囲の広い者たらしめるであらう。 けれども其の利害を判ずるは容易な事でなく、満洲の婦女子に心の荒んでいるものが多いと云はれたりするのも、 その住む家に愛着の念の欠乏してゐることから由来するかも知れず、常に自分の家に満足せず、上を上をと望んで居ることから、 絶えざる不安が?釀されまいとも限らぬ。
 社宅の生活には、前述した様に知合が少い。その為めに内地の田舎などに見る所の、他人の私事に対する干渉が割合に行はれない。 之が満洲生活者の、ことに婦人の心を解放する一大原因であつて、彼らが満洲を住み心地よしとする心持は、主としてこの辺に胚胎するのであらう。 わるくすると社会的制裁が乏しいとの弊はあらうが、其の反面、真の意味の自覚ある家庭生活も行はれ易いのである。 殊に老人の少いことは、その助言と助勢を得られない点に於て寂寞を感ずるが、苦楽共に夫婦だけの力で解決して進む所に、本当の人生を味ひ得る。 何れ父母は自己に先立つのを順序とするが、此処には父母を離れて居る者が多いのだから、少くとも男女共に、 自己の力量に信頼する時期を早めて居るものと見ることが出来る。満洲社会の健全な発達は、斯かる自覚ある男女に待たねばならぬ。
 社宅居住者が、社宅其の物に対しての感謝も多い。第一に借家料を支払わぬことは、昨今何処にも住宅難の声高く、悪家主の跋扈する時節に於ては、 先づ数へ上げねばならぬ一特権である。総じて社宅は小修繕が行届く。若し借家であり、自己の所有であつたら、到底負担し得ぬ費用も、 社宅であるが故に支弁される事がある。例へば、畳が一年ごとに表替へされることを知らなかつた新来の或る主婦が『畳を代へますから』と云つて来た職人に向つて、 『宅ではまだそんなに損じて居ませんから』と、慇懃に断つたといふいじらしい話もある。

社宅雑感

□社宅の甲、乙、丙、といふ区別を階級的で面白くないから、たとへば梅、桜、桃とか、松、竹、梅とかと呼んだら、といふ説がある。 ちょっと面白い様だが、それで階級別が除かれやうとは思へぬ。梅の社宅に居りましたと聞けば、同時にそれは甲か乙かと頭の中で翻訳の手数が掛る。 つまり名称と資格とを同時に言ひ表さぬから。便不便から云へば、不便である。今日の言葉で表せば能率的でない事にならう。
□若し梅桜桃李の名称だけを聞いて、それで甲乙丙丁を直ちに知り得る程になつても(数年も実施したら、頭のよい人には出来るかも知れない)梅桜桃李が、 矢張甲乙丙丁で、少しも階級間を無くすることにはならぬ。和らげることにさへ効果があるかも疑はしい。 却て、事実を蔽はんが為めに、徒らに名を美しくしようとするのは何事ぞ、と体裁主義を嫌ふ事にならぬとも限らぬ。
□併しながら甲乙丙丁でもよい、梅桜桃李でもよい。百万遍も繰返して居れば、それは階級を表すためのものでなくて、符号に過ぎない、 便宜上のことだといふ事が悟られる。ABCと云つたり、123と数へたりするのは、特別の場合の外階級的の区別ではない。 三番地に住む人は一番地の人よりエラクなく、五番地の家賃は七番地のより高いとは誰も思はぬ。 ABCや123は、言ひ馴れてゐるからである。けれども甲乙によりて家の大小があり、梅桜によつて室数に多少があるのが社宅ではないかと云ふであらうが、 それすら見馴れ聞き馴れたら、やはり頭の感じは符号を感ずるのと同様であらう。人間が賢くなれば、甲号に居るから尊敬することなく、 丙号に居るから尊敬しないことはなくなる。実際は一を尊敬し、他を尊敬しなくても、其の意味が違つて来やう。
□甲乙丙丁は単に符号に止まることを知らせるに必要な条件は、上級の人も下級の人も、お互いに賢くなる事にある。 そして浮世の外的条件以外、人の価値の内部に存する事を知るのが一、下級者が、自ら安ずるのではいけないが、自得の境地を有する事が二、 上級者が威張らぬことが三、などである。併し之は社宅階級論とは大分離れる。
□上級の社宅に住むことを重要な条件としてゐる人々には、社宅の払底は最大痛恨事であつた。 その代り、土地によつては甲者乙者両者の混合が行はれて、厳然と区別さるべき階級感が、この已むを得ざる接触によつて、 多少淡白になつたらうと想像せられぬでもない。階級感の濃厚になるのを厭ふべしとせば、社宅の払底は、社宅住居者に、 知らず知らずの間に幸福を齎したかも知れぬ。
□『社宅が無い為めに、永いこと辛抱して今度漸く来ました』と丙から乙に、乙から甲に、今資格の出来たばかりの人も云ふさうな。 『転勤したものですから、あいた社宅がありませんので、仕方なしに此処に居ます』と甲に住む様な人が乙に居て、乙に住む様な人が丙に居て云ふさうな。 事実さういふことは必ずあつた。それを利用して、資格の無い人まで、誠しやかに隣り近所へ挨拶したさうな。 社宅の払底は、かうした体裁を飾る機会を人々に与へた。
□下級の社宅は密集している為でもあるか、主婦に井戸端会議を屡々開かせる。 上級の社宅は居が気を移したとでも云はうか、そこいら調子が稍々違ふ様でもある。 上級の資格ある人が偶々下級住宅に居る時、其の奥様が近所の主婦たちと交際せぬといふのは、イヤに気取つてゐるのみとは云へぬ。 併し支那人の肴屋に、『そんな肴は腐つている。向ふの棟へ行つて売れ』と放言した奥様に、其の向ふの棟の、低級な社宅の奥様連中が連合して、 膝詰談判に出かけたといふ嘘の様な事実もあるとか。

満洲の家庭

 植民地の風儀は乱れ易い、とよく人は云つて居る。其の理由の主なるものとして、未婚者には監督者が居ないのが多く、 若夫婦の新家庭には、之を世話する舅姑や、親戚が少いからだとするのである。 尚植民地には当然の事として、金回りが多少自由なこと等も数へあげて居る人もあらう。
 併し之は植民地を悲観して、その悲観した上での理由である。若し他の一面から見れば、新しき思想を追求する青年男女を包容する土地は、 大都市か、植民地かである。之を最小限度に見ても、母国にあつて生活の困難に打ち克ち難い青年は、植民地に於て其の身辺の境遇を改善し得る。 更に将来の運命を開拓しようとする男女は、此処に暫く潜勢力を蓄積する事が出来る。 権門勢家の多い土地で、それらの手づるに依つて立身せんとするものと、不便僻遠な植民地に於て独立せんとするものと、 其の意気に於て何れが頼母しいか。
 保守主義者は、其の善良な者にあつても、新現象を危ぶむ。 在来の家庭生活を見慣れた目で、新時代の役者たる新人の育つ家庭を、放縦だとか、不検束だとか云ふのは、土地と時勢とに随順する所以ではない。 家に纏綿する事情に囚はれず、人本位の結婚の成立し易いのは植民地である。 夫婦の生活が、第三者に妨げられぬのも植民地である。 植民地の家庭の荒廃を歎ずる人々は、同時に一方に最も貴重な新生命の芽ぐみつゝある事を承認せねばなるまい。 幼児の養育に老人の必要な事を主張する、之は多くの人々の肯定する所であるが、家庭教育上の意見の相違で、新旧夫婦の反目する如き患のない事も、 植民地家庭の一長所である。

満洲の社会

 植民地といふ名は、何人にも其の社会生活の自由さを想像させるが、併し満洲の邦人社会は、此の想像を裏切る。 満洲に於ける日本の二大機関を考へて見ると、それは関東庁と、満鐵会社であつて、関東庁が官庁である以上、 官吏としての秩序が、内地と異なる所が有らう筈がなく、一方満鐵会社にても、純然たる私立会社でないのと、膨大なる大組織である結果、 自然に秩序を必要とすると見え、社員を遇するに、準官吏式の階級と区別とを存して居る。 而して満鐵は、満鉄の満洲か、満洲の満鉄かと呼ばれる程に、勢力と人員とを有して居るから、爾後の会社商店にも、 大体類似の色彩を帯びるのも自然の傾向である。満洲の邦人は、関東庁の官吏であるか、満鉄其の他の大会社の社員であるかの外は、 単なる市民として生活して居る者が非常に少数者に止まる。しかも其の少数者さへも先づ満鐵関係の事業によつて衣食して居るのであるから、 斯かる社会にあつて、単なる個人としての意志が尊重されたり、民意が伸張したりすることは、殆ど望み難き事とすべきである。 満洲は階級制度のみの社会である。公の生活だけあつて、私の生活は、その内容が甚だ貧弱なるを免れない。
 未開の富源を利用するのに資本を要するのは当然で、四億四千万円の大満鉄が之を代表してゐる。 それだけに満洲は所謂資本主義の社会だと観察し得る。人心が物質的に流れ易く、人を計るに其の人物、手腕を以てせずに、月給高を尊重し過ぎる事や、 人々の求むる所が学術趣味の方面よりも、収入の増加乃至は地位勢力である事やは、之を証するものであらう。 資本主義は人を機械視する。使用人の意志を顧みるが如きは、その本来の態度ではない。満洲には言論が少い。 知識、学問ある人士の多い割合に、其の言論の発表の乏しいのは、くだいて云へば、役立たぬことには労すまいといふ精神かとも見える。
 労働者階級の資本階級に反抗することも割合に少い。それは内地に比して、両者の対立が数として少ないにも依らうし、 こちらの社会が、内地の思想界の感受力が薄いからにも依らうが、労働階級が資本家に対抗し得るものと信ずる程、 いまだ労働者の地位が高まつて居ないので、結局資本の勢力が最も絶大なのだと考へられもする。
 官庁も大会社も、それぞれ人材を包容する。人材といふことは、言葉を換へれば、各々一方の専門家といふことになる。 満洲には何がな新事業を企てようとする者が多いだけ、それだけ専門家を要求する。 一般に専門家は、其の程度が高ければ高い程、自己の領土に割拠しようとする傾向を持つものであるのに、それが一個の市民または公衆として生活せずに、 単に官吏若しくは社員としてのみ、即ち公の方面でのみ生活して居るのであるから、それらの分子によつて成る社会には、社会としての結合力が頗る乏しい。 是等の人々に、市民としての生活を営ましめる機会が大いに発達すれば、社会はそれだけ程度を高める所以になるけれども、現在のところ、 満洲の世間はまだ狭いために、市民として生活するに十分な機会が、是等の人々に与えられて居らぬ。
 以上余は、階級的資本主義なることゝ、多数の専門家が居ることを以て、満洲の社会の特徴としようとする者である。 是等の事実は、単に満洲だけに見る所では無からうけれど、満洲には所謂市民が少いために、只是等の事実が特徴として著しく目を惹くのである。 この状態が社会として好ましからうが、好ましくなからうが、満洲の現状としては如何ともする事が出来ない。 余はこの事実を以て必ずしも悲観する者ではないが、斯の如き単純なる結合力なき社会は、到底人の安んぜぬ所である。 人は何処にか単なる公衆として、或は群集として、職業を離れ階級を没したる境遇を要求する。 満洲に宴会の多き、運動、競技の見物人の案外に多き、その事本来の性質以外に、自ら此の要求の満たすさうとする衝動に依るのだとは言へないだらうか。


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