滿洲より母国へ〔編者:橋本嘯天〕その3 2009・07・28 橋本健午

「父と大連・満鐵…」トップページへ
前のページへ
次のページへ


「附 録」

 満洲の社会事情を甚だ不完全に紹介して来た編者は、左記の諸篇を以て、編者自身の見聞と、筆との不備を補ふことの極めて必要なことを感じた。 何れも嘗て「満鐵読書会雑誌」上に掲げられたものである。
《注:そのうち、編者自身による「満蒙旅行談片」と、最後に収録された妻英子による「新所帯日記」を全文掲げることとする》

「満蒙旅行談片」《人から、聞いた話など…》
□鉄道沿線以外の、満蒙各地を旅行する者は、必ず『護照』《パスポート》を携へるべきは何人も知つて居るが、其の護照は各地方毎に貰ふが好い。 例へば奉天官憲の発行するものは、奉天省以外には余り効力がないから。それで蒙古の或地方へ行く者は、奉天省からも、黒龍江省からも、 蒙古の役所からも貰ひ、或は喇嘛《ラマ=チベットの高僧》の添書をも持つて居る方が便利だ。
□それから旅行の順序は、必ず中央部から地方へ行くのが官憲の力を借るに好い。之を逆に、地方から中央へ行くのは、方法としてはまづい。
□旅行先の土人の歓心を得る為め 日本の国力を紹介する為め、大抵土産物を携へて行くが、其土産物は軽い品で、針、糸、布、鏡、菓子、 嗜好品として酒、煙草は成功した。布を携へるには、色合の研究が必要である。蒙古人は紫、黄、赤の三色を好み、他の色を嫌ふ。 桃色や、緑色のものは失敗に帰した。
□白粉、時計なども失敗であつた。文化の低い人間には、其の必要を感ぜられないのも無理からぬ。 蒙古人に自信力を与へようとして成吉思汗《ジンギスカン。蒙古帝国の創始者》とか、忽必烈《フビライ・ハン。ジンギスカンの孫》とか云つて見たが、 毫も共鳴せぬ。日本の乃木大将の画像を示したが、抑々日本といふ名も知らぬ彼等には、固より何等の興味も与へることが出来なかつた。
□蒙古人は日本を知らぬ。我々は大に君等を可愛がつて遣る。日蒙は親善の必要があると云つたが之も分からぬ。 ツクヅク日本人の顔を見つめ乍ら、日本の連中は、随分蒙古人と似通つて居るといふさうだ。之も無理のない話。
□旅行した日本人をつかまへて、一体君等は何しに此処へ来たか、と聞く。何の為めと、彼等に説明されぬ事もある。 冬彼地へ行つた或る人は『冬季は君等の暇なやうに、我々も暇だ、だから此方へ遊びに来た。何か珍らしい事でもないか。あつたら知らして呉れ』と云つたとか。
□冬季の旅行者は、馬も人も多くの糧食を要すると覚悟せねばならぬ。馬糧の如き、平常の約二倍入る。 馬夫の食ふ小麦粉も、二倍の用意が無ければならぬ。
□馬夫は、屡々車馬諸共に逃亡して、迷惑を感ずる事がある。傭入れてから三、四日間は特に警戒を要する。 に、三日すれば段々故郷に遠ざかる。傭主の精神も呑みこめる。といふので逃亡が少い。馬車も大いに使役する積りなら、単に傭入れるよりも買切つたが好い。 買切つてさへ置けば、倒れても死んでも遠慮がない。少しは無理でも仕事させられる。
□馬は数等を買ふ場合には雄だけにせよ。雌と混合して居ては、長途の旅には困る。
□病気危篤の場合、蒙古人は只大勢寄つて、喇嘛を頼んで来て騒いで居るさうだ。そんな時投薬して遣つて効果があると、彼等は合掌して礼拝するさうだ。 未開人を率いるには、医術と宗教とが最も好いと云ふ。
□吉林省の北方、松花江の沿岸あたりにも、相当な部落には日本人が居るが、富錦付近で農業をやつている一人を除く外は、大抵金貸業か料理屋である。 従つて、数から云へば、男より女が多い。此の料理屋は、邦人の旅行者に対し、種々の便宜を与へて呉れる。 若し料理屋の主人に尋ねるならば、地方の状況に就て得るところがある。若し其の主人が、抱へ女に旨を含めて置くならば、 其の地方人士の気分を知る事が出来る。料理屋の出来るのは望ましくないが、非公式の、一種の調査機関に利用するのは面白からうと、 之も或る旅行者の談話であつた。(編者)


橋本英子「新所帯日記1918(大正7)・3・30〜6・30」(『満洲から母国へ』所収)

(文字遣いのみ原文のまま)

三月三十日 私達の新らしい生活は、新らしい植民地の町の一角に開かれた。 小さいと云つても是程小さい家が叉と有らうか、家中の畳数を皆んな合せても十枚を越えぬ。炊事場といへば、一寸手を振つてもぶつかりさうな狭さ。 其処に親も子もなく、唯、私達二人つきり。二つの口と、四つの目と、八本の手足が窮屈さうに動いて居る。
『極精選したものを数少く、成るべく簡単に』といふ主義で、昨日買ひ調へた品々を、或は七畳に、或は三畳に、勝手元に並べて見た。 寝室兼食堂、兼書斎、兼応接間といふ働き物の七畳の中央には、御飯茶碗を始め、お味噌汁のお椀お小皿、或時は硯箱、インキ壷、 夏目《漱石》先生の『色鳥』や、三宅《雪嶺=雄二郎》博士の『想痕』の乗る丸テーブルが陣取つている。
押入には二人の寝具と、四つの柳行李と、トランク一つといふ簡単さ。何時火事が有つても苦労なしで、紙一枚焼くまい。
三畳には備付けの戸棚に、茶碗、小皿、吸物椀、各二つ。大小丼総べて三つ。消毒箸《何度も消毒して使える箸?》一袋。 鰹節一本が上に、米一斗、麦二升が米屋の袋のまゝ、味噌百匁が竹の皮の包のまゝで下に仲良く同居してゐる。
茶碗を桝のかはりに使つて、ご飯をかけ、ナイフで削つた鰹を入れてお汁をたてる。
『始めて僕の飯といふものを食べるんですね、実にうまい。』
『御飯が変でしたね、やつぱり前の晩に洗つておかないと。』瓦斯で炊くのは慣れないと困難(むつか)しい。
 八時半頃御出勤、隣も向ふも知つた者のない私は、唯一人、そのテーブルに頬杖をついて、取り留めも無い事を想ひ続けた。寂しい。
 今まで独身で下宿生活をしてゐる主人の行李の中には、汚れ物が沢山突込んで有つた。先づ、皺苦茶のハンカチーフ一ダース程を取出して、 洗面器で洗濯した。竹竿を持たぬ私は、行李を縛る麻縄を引張つてこれに掛ける。
 夜は麦飯にとろゝ汁、卸し金がないので隣へ借りに行く。お隣との交際の始まり、快よく貸して下さつた。 若い私達の寝所帯と云ふものに同情のある眼をして。
『新生活の第一日終り、ですのね』などゝ云ひながら寝につく。

三月三十一日 晴々しいよいお天気。二人で買物に出る。錠を下ろして真鍮の鍵を持つて。日曜の浪速町は賑やかであつた。 お茶器と、御飯茶碗、お中皿を買つて帰る。今日は、Nさんにお夕飯を差し上げる約束になつてゐる。 乏しい勝手道具で、自信の無い手つきでお鮓をし様といふので、もう昼飯をすませると直ぐにかゝる。 一つか二つの道具では、わづか二品三品のものでも仲々工夫を廻らせねば成らぬ。
 三人前のお鮓と、お浸しと、お吸物とをこしらへるのに、半日懸つて腰や背中が痛く成つた。おいしいと褒められて嬉れしかつた。 お世辞かも知れないけれど。

四月一日 人一倍衣服や其の他の装飾品に無頓着な私達二人の行李の中には、私達の世帯にしては割合に厚い書物が、分量も多く詰められてある。 で、稍々贅沢だと思はれたけれど、本箱だけはと少し張込んだので、今日行李の中から出して、装丁の大小、内容の類別、表紙の色などに工夫して、 並べて見る。貧しい部屋の中に、ガラスを嵌められた本棚に、脊革の金がきらめいて、殺風景な此頃の満洲の野の様な七畳を稍々彩る。 幾何かの滑稽を感じる程不調和であるが。

四月三日 今日は旗日《神武天皇祭》なので、植民地の此処でも日の御旗がひらめく。 買はうと云つてゐて、つい本棚ばかりに気をとられて、国旗を買ふことを忘れてしまつた。
『すまないけれど、今度一度だけ堪忍して頂きませう』と、二人で話し合ふ。
 お昼飯頃S氏ご夫妻でお訪ね下さる。
 大狼狽てに狼狽てゝ、それでもお茶と、お菓子を出す。お菓子は、お盆なしの、西洋皿にビケット《ビスケット?》を、 S様はお茶器一組と、お肉をお土産に下さる。新世帯には、かうした世帯道具の頂き物が一等嬉しい。

四月五日 朝、市場といふものを見に行く。独りで外出するのは始めてなので、随分おろおろしながら、それでも彼方此方で尋ねてやつと解つた。 成程、市場といふのは便利な所。でも、大抵は支那人なので言葉が解らなくつて困つた。漸(やつ)との事で、大きな蕪を一つ買つて帰る。 支那人はすべて掛値を云ふ。二十銭と言つたら、八銭位に言つて値切らなければ馬鹿を見ると、此地に着いた日、宿屋の女中に教へられたが、 私は漸くに、八銭五厘のを八銭に負けさせて帰つて来たのであつた。三銭位に買はなければ損であつたのか知ら。 午後、お帰りには未だ間があると思つて、鍵をかけて荒物屋ヘ酢を買ひに出る。ビールの空瓶を袂にひそませて。 帰つて来ると、早、帰つていらして戸の前に立つて居らつしやる。
『四時打つてから出ちやいけません』とお目玉。鍵が一つしか無いのは不便な事だと思ふ。

四月六日 お酒を頂かぬ主人は、ふだんのお惣菜も楽であつた。何んな物でも喜こんで食べて下さつた。 これは、一つは長い間我儘の云へぬ寄宿舎生活と、下宿生活とを続けて居たからでもあらう。 で、予てから、嫌ひな物はないと聞いて居たのであつたが、今日は案外な失敗をした。今日のお夕飯は、烏賊の酢の物であつた。
『僕、生の物はあまり好きません』。
 面喰つて、『まあ、さう――』といつたきり。他に何も食べて頂く物もない、小さな勝手元には即席料理の材料も無い。
『これで可い』と昆布の佃煮ですまして下さる。対ひ合つて食べて居て、私一人が烏賊を食べるのは、仕方が無いとは云へ、心苦しい事であつた。

四月七日 日曜なので、九時頃から散歩に出る。晴れては居るが風が寒い。公園の木々はまだどれも青い物を見せて居らぬ。 市場へまわつて、白魚と、漬物とを買つて来る。懐中がさびれて居るので、欲しい物も買はないで帰る。 もうお昼近いので、名物の大饅頭を買ふ。五つを二つ半づゞ食べてお昼をすます。

四月八日 待兼ねて居たHさんが愈今日お着の筈、お迎に埠頭まで出る。 当分私達宅に居らつしやるといふので、狭い七畳で如何いふ風に暮らすかを考へてみる。夜は兎も角も有合せの材料でお鮨をこしらへる。主人曰く、
『お得意なのかい』と。
 Hさんは、片々の下駄を穿いて居らつしやるので『お下駄が片々ぢやありませんか』と言ふと『えゝ船の中で……』とすまして居らつしやる。 それを穿いてお湯にも行らした。
 遠来の客にお金を少々拝借する。

四月九日 拝借したお金を懐にして、久振で豊かな気持で市場へ買物に行く。あれもこれもと随分買つて来た。 お夕飯には平素よりも御馳走、食卓が賑やかだつた。
 Hさんは、片々の下駄を穿いて、市内見物に行らした。

四月十一日 『和洋家庭菓子製造手引』といふ本を頂いたので、その中の最も簡単な『金つば』をして見た。 玉子焼きで二つ程づゝ焼くのだから仲々手間であつた。自慢さうに出すには出したが『塩辛いねえ』にはがつかり。
 主人の日記に『彼女が菓子製造最初の試み、塩辛い事お話にならず』と。

四月十三日 S氏を訪問する。挨拶下手な私は、只、『はい』『いゝえ』、と許りで、お辞儀ばかりして居る。 洋食でお昼飯を頂く。田舎者の私は、不器用な頂き方をして恥かしかつた。

四月十五日 宅の台所で最も立派な物は洗濯盥である。摺鉢でも、鍋でも、店で最も小さい物を選んで買つたのあつたが、 洗濯盥だけは見事な位大きな物を買つたのあつた。それで、今日は、種々な物を洗濯した。午後万葉集を見る。むづかしい。

四月十七日 干鰯の焼いたのが食べたいなどゝ、妙な物の御注文、辛との事で探出して来てお夕飯に焼くと、塩辛いのを、 『旨い、旨い』と食べて居る最中、しかも今日は、他出する爲めに洋服のまゝで大あぐら、其処へO氏が見えて、大騒ぎ、狭いうちは一目に見通せて了ふ。 まだ鰯くさい煙がもやもやと室の中に漂つて居る。O氏はどんなに可笑しく思召したことであらう。

四月二十日 今日は始めて俸給を頂く日、何か御馳走をと思つて、お魚などを買ふ。 岐阜の名物柿羊羹の外側の竹を割つて魚串を削る。万葉集略解の御土産があつた。国元へ手紙を書く、主として近状報知。

四月二十一日 幾度か待呆けにさせられた、T氏御夫婦(おふたり)が、今日は愈々真実(ほんと)に見えた。 お客様の奥様を誘つて市場へ買物に行く、そして、二人で一生懸命に御馳走をする。どちらがお客やら主人やら、解らない。 好評を博した物、蝦のフライ、蝦のさしみ。
 午後はHさんと二夫婦と、都合五人で市内散歩をする。八時の汽車で御帰りに成つた。お土産に頂いた物、アルミ鍋一、湯呑二、金串、お茶盆等。

四月二十三日 春季清潔検査が二十五日と云ふので、主人出勤後私一人でお掃除をする。合計十畳半の畳を引摺て外に干す。 本棚の外は箪笥一つない簡単な私共の家は、こんな時にも便利であつた。ガラス拭も、寄宿舎に居る頃から私は名人だつた。でも、稍疲れた。

四月二十八日 先月の今日が始めてこの大連の土を踏んだ日なので在連の同県の方達に来て頂いて、粗飯を上げたいと、電話などで通知した。 摺粉木持つて一箇月、不慣れな私の手では、お口に合ふ様な物も出来なからうが、私達の志を受けて頂かうと、 それでも十日も前から家事のノートと首つ引きでやつと献立をつくつて見たのであつた。 道具が不足なので、お吸物椀、盃、大小丼、お小皿など、出入の荒物屋に頼んで工面して貰ふ。
 七畳の一つの丸テーブルに八人座つて頂いて、肘と肘、肩と肩が擦り合ふ様であつた。でも、皆様気楽に食べて下すつて嬉しかつた。

五月三日 Hさんが北京にいらつしやることになつた。ご当人にはおめでたい事だけれども、うちでは寂しくなる。 埠頭までお荷物を運ぶことを仰せつかつたが、かういふことになれない私は、まごまごして居る間におそくなつて、大変な心配をかけた。 出帆が三分程おくれたおかげで、やつとのことで間にあつた。真に危機一髪といふところであつた。 帰途壱岐組で、ワイシャツ、ネクタイ、私の草履を買ふ。足をのばして、S氏をお訪ねして、奥様と二人で花を摘みに行く。 菫を沢山摘んで帰つた。緑色の小楊子挿にさしておく。

五月四日 朝、小包がつく。国から国産の箸が来たのであつた。今まで割箸で食べてゐたのであつたが、 今日から国の香のなつかしい箸を持つことが出来る。黒柿の二揃入の箸箱を買つて来る。

五月六日 どうしても袴がなくては一寸外へ出るにも洋服を着なければならない面倒があるので、三越で小倉袴を買つて来た。 セルは何だか大人臭くつていやだとのこと、私達はいつまでも若くつて居たい。居よう。

五月八日 何でも今の宅より少し広い所があるから、其処へ移らないかとのことで、大した道具があるのでもなく、 こゝでもさ程不自由は感じないのだつたけれど、又、それだけ引越しといふことも別に臆劫でもないので、愈々今日移ることにした。 主人の出勤した後で、支那人を相手に、半日でかろかろと越してしまつた。日数でいへば一月あまりにしかならないのであるが、 私達の生活の幕の始めて開いた舞台だけに、ガランとした室を出る時はさすがに寂しい感じがした。午後主人は、すつかり片付いた新居へ帰つて来た。

五月九日 昨日の疲れが少し出た様である。葛を煮て障子の破れを繕ろつた。

五月十四日 元の宅の隣のおばさんが、糠味噌桶にする様にと、砂糖の空樽を下すつた。早速三升の糠味噌を作つておく。 愈々糠味噌女房になる。どうか臭くならない様に。

五月二十七日 大連神社のお祭りだと云ふので、夕方から二人で出かける。 I氏をお訪ねして、ご一緒にぶらついてショーウヰンドウなどをのぞきまはつた。袷に羽織でも寒かつた。 大連の奥様方はセルですましていらつしやるのが多かつた。

五月二十八日 お祭りで大変な人出だとの事、二時頃から二人で出かける。 お夕飯はお赤飯、少し小豆を煮すぎたのでまるのまゝで居るのは一つもない。が、故郷のお祭りを思ひ出してなつかしい気がした。

五月二十九日 夜主人が、『煩悶しなくなつていけない』といふ。『煩悶しなくなると書けなくなりませう』『あゝ』。 煩悶といふことは悲しい。書けないといふこともかなしい。私達は幸福にまかせて堕落してはならぬ。ぐんぐん進んで行かねばならぬ。

六月九日 『旅順へつれて行きませう』といふ約束が一月も前から結ばれてあつたけれど、 来る日曜も来る日曜も何かしら差支へが出来て行かれなかつたのを、愈々今日行くことになつた。 『嬉しくて御飯が余り食べられない』などゝ子供の様な事をおつしやる。旅順の初夏は、大連のそれよりも一段と美しかつた。 U様をお訪ねする。三人が市場で買物をして主客が一緒に狭い台所で御馳走をこしらへて、お昼飯を頂く。 旅順名物大饅頭のあつい所を三人で吹きながらいただいた。表忠塔にのぼつたり、その他の戦跡をたずねたりした。

六月十二日 国の父から『浴衣でも買ふ様に』と小為替が来る。嬉しくて、その簡単な手紙を何度もくりかへして読む。涙がボタボタと落ちた。
 早速それをもつて午後は三越へいつた。夕方見せたら『いゝだらうね、早く縫つて御覧』といつて下さる。 浪速町で、蝿叩きと衣紋棹を買つて来た。そろそろ団扇もほしくなつた。

六月十八日 私達の世帯に異彩を放つて居るものは銘仙の座布団であらう。渋い鶯茶の地に其中に大きく黒の風車を織出したもの。 でも冬も夏もといふわけには行かぬので、何かの雑誌で見たのを思ひ出して、有合せの白金巾でカバーを縫つた。 冬座布団は立派に夏座布団に化けた。表にレースで一寸した飾をつけたら、割合体裁のよいものが出来た。

六月十九日 浪速町へ買物に出る。小さな植木鉢を二つ、絵すだれ、団扇など汗を流して下げて帰つた。 テーブルの上に椅子をのせて、金槌の代りに焼鏝などで、四本の釘を打つのに小半時間もかゝつて、やつとすだれをかけた。 鉢には金盞花と、撫子を植ゑて窓ぎはにおき、テーブルの上にはホーカー液の空瓶に白い撫子を挿して、お夕飯は胡瓜もみ、 何ともいへぬ涼味をおぼえて清々しい。
《高等美顔料白味劑 「ホーカー液」 ホーカー化粧品本舗 堀越嘉太郎商店。 「ホーカー液」のラベルと封緘紙。大正時代の化粧水で当時としては広告やキャンペーンを大々的に行っていたらしい。 「高等美顔料白味劑」という商品説明がなんだがすごい。/大正時代の初め頃に盛んに売られていた、堀越嘉太郎商店の化粧水(美髪液)らしい。 当時は広告宣伝合戦が盛んで、観劇や行楽シーズンの鉄道乗車に「ホーカーデー」というのを設けて(今で言うタイアップみたいなもの?)、 1瓶20銭の「ホーカー液」を無料配布したとのこと/大正五年5月29日の日本経済新聞に(紳士の賞用ホーカー液)と広告が載っていました。 日本で最初の紳士用化粧品だそうです。》

六月二十二日 親友のS様より小包が着いた。別に何の予告もなかつただけに思ひがけなくて、嬉かつた。 中には、櫛、簪、てがら、硯などがあつた。結婚前から、日本髪には、一二度しかあげたことがなかつたが、一度髷に結つて見様かしら。 肩のいかつた、胸の出た、六十度の外足であるく体操の先生にはいつも可愛がられた私が、髷をのつけて歩いたら、 木に竹を接いだよりまだ変なものであらう。

六月三十日 茹で卵、お饅頭、ビスケットなどをもつて山登りをする。名の美しい若草山といふのから、峯から峯へとかけまはつた。 主人は青い草の上に仰向けにねて『僕、此松風の音が何より好きなんです』と、私は真赤な撫子の花や、白い穂の形をしたのや、 淡紫のなづなに似た花などを摘む。久しぶりで学校でならつた唱歌を思ひ出し思ひ出しして、声のつゞくだけ歌つた。 つんできた花をコツプに挿してテーブルを飾る。美しい日曜日であつた。 (英子氏)

<以上、2009・08・25 橋本健午>


ご意見・ご感想は・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp