物の本によると、小浜市から六キロほど山に入ったところにある、神宮寺は1200年以上の歴史を持つ天台宗の古刹で、 樹齢2000年を越す椎の木がうっそうと繁っている。
しかし、私はお坊さんや綺麗な人とは関係なかった。私はCを彼女の二人の妹とともに“所有”していた。
Cは小柄だったけれど、妹たちも小さかった。私たちは二人でこの妹たちを“所有”したこともあった。
私のほうから遊びに行ったこともあるし、彼女もおばあさんに連れられて遊びに来たこともあった。妹もよく来た。
私たちはよく本堂に遊びに行った。本堂はかなり高いところにあって、ひどく寂しく感じられた。
木が繁っているために、いつも暗く、しかし涼しいところだった。
本堂の回りで鬼ごっこをしたり隠れんぼをしたり、本堂の下に入ってこうもりに驚いたり、アリ地獄をつついたりして日を暮らした。
(以下略;未完「忘れないための自叙伝」より)
一方の円僧坊はひっそりとしたお寺で、後継ぎがいなかったからか、私に“養子”の話があったそうだが、私自身に打診があったわけではなかった。
“養子”の話はその後も三つ? あった。
まず、この小浜市神宮寺から静岡県に移り、小学校は二つ通ったのだが、年老いた父母は収入もないため、
中学からは子供のいない長兄夫婦のいる茨木(大阪府)に住むことになるのだが、このときもなんだか分からないまま、ことは進んでいたようだ。
結果的には、長兄夫婦に中学高校から、浪人1年を経て大学4年と、学費を出してもらっており、実質の養子であったが、
私が東京に出て、嫂の望む京都の私学に行かなかったため、“養子”の話はなくなっていた。
中学1年のとき、たまたま兄のところへ顔を出したのは“海軍の小父さん”と呼んでいた、兄の母親の弟で、 冗談からか酒の勢いからか、“養子”の話が出たような気がする。
もう一つは、私に直接の話であった。大学生のころ北海道旅行の帰り、青函連絡船で知り合ったK町に住むという上品なオバアサンからだった。 都内に息子さんがいて、チョコレートを製造しているという。実際に鵠沼まで訪ねたのだから、私は物好きだったようだが、 結局どこの養子にもならなかった。
64年(22歳)10・9〜「東京オリンピック期間中、M君と北海道旅行(帰途、連絡船の中で鵠沼の老婦人を知る)
以下、「個人的な北海道文化論−道南地方旅行記−」の最後の部分を抜粋しておこう。
青森からは、寝台急行に乗ることになっていた。予約してあったので、帰りも楽である。 汽車に乗るのも長いので、寝る前に食事をしようと思って(全く、のべつ食べていることになる。少しみっともないね)、 食堂車を探すと、席とは反対にずっと前のほうである。それでも気を利かして発車と同時にそこへ向ったが、注文してもなかなか持ってこない。
急ぐこともあるまいとゆっくり構えていたが、いい加減放ったらかされてイライラしている処ヘ、隣に坐った品のいい老婦人に話しかけられた。 列車のよくないこと、東海道線はまだきれいだということ、それから90人ばかりで、十和田湖や恐山に行ってきたことなどを話していた。
その後で私に、どこに住んでいるかを尋ね、自分は藤沢の鵠沼にひとり寂しく暮らしているので、いい下宿人がいないかと思っているといい、 別れ際に暇があったら遊びにきなさいと、彼女の住所を書き、私の電話番号と、お互いに交換して別れた。
そのとき、私はあまりに突然のことなので、どう判断していいか判らず、まるで夢でも見ているようだった。 カレーとコーヒーはなかなか来ず、食べ終わったのはだいぶ遅い時間で、先の老婦人の処へ寄ろうかと思ったが、 どこかはっきり判らず、通り過ごしてしまった。
<無事帰宅 10月19日>
青函連絡船内で知り合った女性のうち、知床の方とはその場限りであったが、鵠沼には2度ほど訪ねたものである。 大きな松の植わっている庭をもつ、かなり大きな屋敷であった。息子さんが、都内でチョコレート会社を経営しているという。 下宿するには通学に不便であったが、どんな話になったかは今では定かではない。
ともあれ、二十代後半の未完の創作「虚構としての青春」で、少し描写している。