「ミニ自分史」TOPへ。

「ミニ自分史」(122)父親の気持ち―われと彼と その2  2010・07・16 橋本健午

「ミニ自分史」(121)       「ミニ自分史」(123)


 わが父は、米寿の祝いを済ませたあと、半年足らずでぽっくり逝った。
 彼の54歳のときに生まれた末っ子の私は、父がどのような人生を送っていたのか、その晩年のことを含めわずかしか知らない。
 すでに書いたが、小学生のころ、素手でキャッチボールをしてくれたのは驚きだった。 老いた父が、そんなことができるとは想像もできなかったからだ。 一方、すぐ上の兄に比べ“可愛がられた”らしいことは知っていたが、中高時代の私は反撥することの方が多かった。
 ところで、2007年夏、ある大学教授による情報から、若き日の父、学校の先生のほか満洲・大連図書館時代の父のことが分かったのは幸いであった。 さらに戦前(1922年)、1冊だけだが本を書いていたことや、雑誌の編集に携わったり、読書に関する機関誌などの編集や寄稿もしていたことが分かった。
 ともあれ、私はそんなことは夢にも思わず、大学在学中のアルバイトを含め、これまでほとんど“出版”関連の仕事に携わってきた。 不思議であり、これが親子のつながりというものかもしれない。

 話は飛ぶが、先日、思いがけなく、梶山夫人から父の手紙を返していただいた。
 それは1966年大学を卒業した年の11月、私が作家梶山季之先生の下でお世話になるについて、父親としてのお礼とお願いを記したものである(梶山先生36歳/父78歳/私24歳)。

(本文)拝啓  はなはだ突然/で失礼と存じますが、じつは小生/この度ご厄介になりました 健午/の父親で御座います  ご覧の/とおりふつつか千万、すべてに未熟/な若者ですが、かねてより文学者志/願の念に燃えておりまして今回も /相談の為め帰宅いたしましたが/作家生活を志し幸い 梶山先生/のお世話を頂く事になったのでと/決心の程を告げました  当方としては/少なからぬ不安もありますが/先生のご厚意を恃みとし 又/彼の決心にも同情いたしました次第で/あります この上は どうぞ 彼の為に/仮借なきご試錬を賜り度/特に懇願いたします/末筆ながら令夫人様にもよろ/しくご風勢をおねがい申し上げ/ます    敬具/  十一月十六日 橋本梧郎 拝/梶山季之先生/       侍史

 思うに、父自身がなし得なかった“文学”に期待を寄せていたからではないか。 6人の子供のなかで、自分の後を継いでくれる?のは、末子の健午だけだと(長男は千葉高等園芸(現千葉大学)に進み、次男は海軍<戦死>に、 三男は陸軍幼年学校へ(広島で被爆)、四男は地方公務員)。

 私が父の期待に応えられたのかどうか心もとないが、梶山先生はその8年半後、1975年5月11日、異郷の香港で急逝する(梶山先生45歳/私33歳/父77歳)。
 再び、父の手紙、今度は私あて……(1975年5月11日付)。

 (前略)昨今ハガキを出そうとしている時、意外千万 思いもよらぬ凶報を耳にした(室のラジオ小生聞きもらした、E子不在、彦根から知らせて来た)
 まことに夢にも思わぬ大事件であるが、この際こそと沈着に構えて、誠意と手腕を十分に発揮して労を惜しまず働きなさい、 先生生前の考え方、方針と、奥様のご意志に従って、専念、忠実に行動しなさい、
 今後の事はいろいろ困難なこともあるが、必ず失望せぬ悲観せぬこと。一度や二度の不幸や困苦にあわなければ一人前には成長しない、 この事まちがいなし決して失望するんではないよ。悲観・失望するより工夫せよ、努力せよ。 (あるいはお迎えにいっているか、そんならS子さん ご苦労さま)
 *5月11日(日)午前7時のニュースで、梶山先生ホンコンで急死の報が流れる

 1975/5/13付 健午殿(封書、KOKUY0便箋3枚)
 健午、元気でいるか、緊張しすぎて疲れないように、時々静座したり、深呼吸したり、その他いろいろ工夫して、疲れないよう、
 健午自身の平常の仕事、従来担当の、責任のある仕事を重視する
 梶山一家の事、はヘタに口を出したり、手を出したりすることはよほど考えねばならぬ、まあ、奥さんに頼まれただけに止めること、 口を出したり意見をいうことは十分考えて とにかく健午に出来ることで、他人の氣につかないようなことは、一応も二応と奥さんに相談の上で、 また奥さんに頼まれただけを。
 一番の責任者は誰か、もちろん、奥さんだろうが、奥さんの身内の方、また先生と特別の関係のある人にまかして、 当方から差し出口をすることは慎め、いやするな。
 梶山一家の事(つまり私事)と健午が常に命じられ、受持っていた事(つまり公事)との区別を乱さないで。
 健午の部下にあたる女性事務員などとよく統率し、親しみをもって働かせること。
 梶山家に対する公私の事、関係の向き(原稿、金銭上の、約束上のこと)には常に健午を始め一同が成るべく意見を出し合って、一致結束して当るように。
 公私の事、つまり一家の事、関係先とのことをいちばん責任を持つ人、そういう人は奥さんか、奥さんの身内の人か、 それとも先生 平生の親友で奥様も納得する人か、そういちばん親{信}頼出来る人、いちばん誠意、手腕ある人を早く見付けること、 奥さん自らやるならいちばんよろしいがそのへんどうか。
 要するに誠意を以て行動せねばならんが、責任を負わされて失敗したりすることのないように。
 そうしてその間に、健午今後の方針について自分でよく考えるのは第一で、当然のことだが、そういう人が周囲に見付かるか、 見付けること、つまり今後の就職先の相談も出来るような人、そのことを考えよ、
 S子に心配させぬようにすること、S子に心配させぬ用心。自分の健康に関係し、乳児「Y」の健康にも影響が及ぶから、この点呉々もご注意せよ、
 こちら、三人で心配している、十分落ちついてやってくれ。
 健午殿      (讀み返さず)     五月十三日夕方 父
 {3枚目の裏に、筆書き}今度のこと、一生中の大経験の一つとなる 熱心に研究し勉強して この大事件を大切にせよ冷淡であったり傍観的であってはならん。
 *12日、私も遺体を迎えにホンコンへ飛ぶ。現地で夫人・Bさんのお供をし手続きに立ち会う、13日仮葬儀、14日遺体とともに帰国、 16日市谷の自宅で通夜、17日午後1時増上寺にて告別式

 50/6/24付 健午殿
 ずいぶん急がしいだろうが、もう一度ぐらいは便りがありそうなもの、昨日今日、こちらからはがきでもと思っているとき「梶山季之の世界」が来た。 E子がすぐ手に取って、昼食を間に一氣に讀んでしまった、今日終日梅雨ぐもりの上に視力がだんだん衰退しているので 細字いっぱいの讀物には急いで手が、イヤ目が向かないのは少々残念。
 *別冊新評『梶山季之の世界 追悼号』(6/20発行)は本来、作家別の特集として企画されていたが、その死により急遽、追悼号となった。 私は「ドキュメント 梶山季之の死」で、死の前後、ホンコンでの状況を報告した。閉め切りまで10日しかなかったが、40枚ほど書いた。
 父はその翌年、4月に没した。


ご意見、ご感想は・・・ kenha@wj8.so-net.ne.jp