《その突然の死は、だれをも驚かしたが、たまたま新評社が「梶山季之特集号」を企画している最中だった。
急きょ"追悼号"に切り替えられ、だれが"その死"を報告するかと、何人か先輩の名が挙がった。
しかし、現地に飛んだ私に書けということになり、葬儀をはじめ事後処理に忙殺されながら、
2週間ほどで書き上げたのが本稿である。
現地でのメモは、それを意識したものではなかったが、かなり詳細に報告することができたのは、
せめてもの"ご恩返し"となった。とはいえ、"書いたもの"を一番に見てもらいたい人が、すでにこの世にいなかった!
〈これは発表時の全文。時間が経っていることなど、読みやすくするため、若干の補足修正を加えております〉》 2003・8・15
わが師梶山季之の変わりはてた姿に、はじめて接したのは五月十二日、亡くなった翌日の夜八時である。
白い布を、頭からすっぽり被ったその姿は、今にも、さっと白布をはねのけ、あの人懐っこい、茶目っ気な笑いを浮かべて、
「ハハハ、かくれんぼをしてたんだよ」
とでも言いたげで、死んでいるとは、とても思えないのだった。
昭和五十年五月十二日<香港>
朝九時に羽田を発って香港カイタク空港に着いたのが、午後の一時すぎ、東京では晴れていた空も、雨に変っていた。
機内から一歩外に出ると、ムッとする暑さ。頭がボーッとなるが、とに角タクシーに飛び乗り、マンダリンホテルに直行する。
予約した部屋に入ると同時に、日本航空のTさんから電話で、美那江夫人のいる領事館へ来るように言われ、
私は梶山の死を報ずる東京の新聞を持って行った。
睡眠薬と心臓の薬を持って来て欲しいという奥さんが、どんな具合か心配だったが、意外に元気そうである。
遺児となった一人娘の美季ちゃん(当時、中学二年)は、言葉が通じないのと退屈だったらしく、
持って行った雑誌をむさぼるように読んでいる。
梶山の遺体は、十三日か十四日、ホルマリン処置(半年はもつという)をして、帰国することになっているが、
それには死亡診断書の他に、搬出許可証明がいる(遺体での帰国は本国の関係者からの指示と、奥さんの希望による)。
死亡診断書は、普通二週間かかるが、領事館の尽力で直ぐやってもらえたし、また搬出証明等に必要な書類も作成してくれた。
病院の霊安室に、遺体確認に行った奥さんの話によると、一体ずつ収容する、ドアのついた冷凍室の中で、 布袋に頭を手前にして入れられた遺体は、綿をつめた口が歪んでいたり、ヒゲは伸び放題、髪の毛もバラバラで、 見るに耐えなかったという。
午後の三時、冷房のきいている領事館は、厳重に施錠されていて、直ぐに入れてもらえない。
棺のことで、K領事と中国人のアシスタント、それに中国人の葬儀屋が、口角泡をとばす感じで話し合っているが、
風習の違いというか考え方の違いなのか、図を書いて説明しても、中々通じない。
日本は火葬なので、簡単な白木の棺だが、土葬にする習慣の中国では、白布をかけることもしない。 よく乾燥させた分厚い板(南方産の木材)を使い、漆を塗り、さらに金具を使ったりして装飾をほどこす、 重厚な感じのものばかりである。
病院から出た遺体は、きれいに化粧をほどこされ、香港殯儀舘(HONGKONG FUNERAL HOME)に移された。 ここは、香港随一の六階建ての豪華な斎場で、その三階三〇七号室で、私は梶山に対面したのである。
ちょっとした会議室のような部屋の、中央奥には祭壇が設けられ、その後ろが三畳ほどの、
ガラス張りの冷房室になっていて、そこに、あの大きな身体を横たえていた。
祭壇の前には、両側の壁にそって、二十脚ずつ、簡単なイスが並べられている他は何もなく、
わずかに受付用のテーブルがあるだけである。
入口のドアの上には、"□府治葬処"(府=家、治葬=葬儀をとり行なう、処=所)と書いてあり、
□の中に、"李"とか"王"とかの苗字を入れれば、"○○家の葬儀会場"ということになる。
三〇七号室のそれには、すでに"梶山季之"と入っていた。
香港の習慣では、自宅でも病院でも死ぬと直ぐ、ここへ移し、死者と生者を一緒にしないのだという。
各階に同じような部屋がいくつもある。一階正面の大ホールは、さながら映画館のようなもので、数百名は収容できるだろう。
どの部屋からも、にぎやかな声、鉦をたたく音や、泣き女たちのすすり泣きが聞こえてくる。
ドアは開けっ放しだ。にぎやかなのは、南方系の小乗仏教だからという。その音楽は、結婚式の時も同じらしい。
会葬者は、喪服といっても、普段着のまま黒い布を頭巾のように被っただけの女たち。
少年たちは、白い布を身体にまきつけた格好で、同じ布切れの鉢巻(中央に赤い小さな丸い点がある)をしている。
履物も、同じように布製だ。
祭壇の花の飾り方も独特で、造花の花輪(それも単純な丸形ではなく、ローマ字のMを丸くし、その下に丸い輪がある)
に似た土台に、白い美しい生花を無数に差し込んである。
建物の向い側の通りに、露店に近い花屋がある。そこにある花輪の一つひとつに、名前の入ったリボンがあり、
いくつか"梶山季之先生千古"(先生=さん)というの見つける。だが、どういうことなのか、その意味が判らなかった。
殯儀舘の五階が事務所になっている。六階に棺の展示場と工場がある。
塗りものの、立派な棺など見たことのない私は、はじめは何が置いてあるのか判らなかったが、説明を聞いたり、
中を見て歩いているうちに、およそ死というイメージからかけ離れた、豪華さといったものを感じるのだった。
蒋介石総統のと同じデザインのものがあったり、クリスチャン用の白いペンキの、十字架のついた棺も何点かあり、
その子供用の小さな棺を見たときは、さすがにギョッとなった。
遺族が決めるというより、生きているお客の要望に応えて造っているのではないかとさえ思う。
樹齢百年以上の、大木を真っ二つに断ち割った幹で、四方を囲み(従って木は二本分だ)、
さらに直径一メートル程の木の幹を輪切りにして、そこの浅い皿のように削ったフタで頭部を覆う。
大人二人ぐらい入れそうな、これが棺かと思われるものもある。
約二百万円という値段を聞いて、驚きもしたが、死後の魂についての考え方の相違に、
火葬と土葬の違いだけでないものを感じた。やはり日本は狭すぎるのだろうか。
五月十三日<香港>
昨夜は、二時ごろまで眠れず、なぜか空ろな気分だったが、七時すぎには目が覚める。
朝食もそこそこに、ホテルで最初に梶山を診た医者に説明を聞く。通訳つきなので(好意的な人だったとしても)、
また聞きというのはもどかしいものだ。最初の診断と、死因が結びつかないから、尚更である。
昼前に、日航のTさんの案内で、カノッサ病院、クイーン・メアリ・ホスピタルにお礼にまわる。 静かな高台にある、キリスト信徒の像が庭に立つカノッサ病院に、何の恨みもないけれど、梶山が最初に入った個室が、 四階の二号室、次に移った部屋が四〇二号室とは!
そこから少し離れた、ハイビスカスの赤い花が咲き乱れ、トンボやモンシロチョウが飛び交う、 クイーン・メアリ・ホスピタルは、大規模な国立病院である。病室も大きく、一部屋に数十人収容しており、 高い天井には、四枚羽根の扇風機がいくつもまわっている。
一時すぎに到着。馴染みになった患者(中国人)の何人かが、美季ちゃんの姿を見つけて、笑顔を送ってくる。 もう次の患者が寝ているが、梶山が息を引きとったという部屋の中央近く、柱の下のベッドのナンバーが、 これまた「4」であったと、美季ちゃんは言う。どこまでもツイていなかったのだ。
七時半から、殯儀舘で仮通夜を行うことになり、ホテルに戻って東京へ電話を入れた。
葬儀の日取り(五月十七日午後一時)が、大議論の末に決まったという。
遺体ならびに遺族は、まだこの香港にいるというのに、東京ではどんどん事が運ばれてしまったのは、時間もなく、
致し方のないことだろう。
七時すぎ、花を用意して、斎場へ向う。遺体は、昨夜決めた、比較的シンプルな棺の中に入れられ、
デパートでやっと見つけた浴衣を何とか着せられている。
K領事が、着る格好をして、中国人の係員に何度も説明していたが、日本に帰ってから、見ると、
やはり平常の(生きている時)通りで、左前になっていなかった。
とに角、中国だし、仮通夜だったんだからと、奥さんは自らに言いきかせる。
通夜の客は十人足らず、お世話になった領事館、日航の人、お見舞い頂いた商社の人たちである。
がらんとした部屋には、奥さんと美季ちゃんだけが残り、こんな積りでかけつけた訳ではないので、喪服どころか、
着のみ着のままの姿は、余計涙を誘う。
遺影もなく、急造の位牌は、簡素なものだが、さすが文字の国だけあって、誰が書いたか達筆で、
"故梶山季之霊位"と墨痕あざやかに書かれていた。
皆さんから送られた花輪に囲まれた梶山は、隣りの部屋から聞こえて来る、鉦の音にでも耳を傾けていたのだろうか。 三十分程で通夜は終り、私も細く長い線香を、中国式に三本つけて、合掌。
蒸し暑い香港の夜は、"梶山謀殺される"のニュースも流れて、これからにぎわい始めるのだった。
五月十四日<香港>
午前九時半、日航の人と梱包作業確認のため、香港殯儀舘へ行く。遺体(HUMAN REMAIN)は貨物扱いで、
一般の人には判らないようにして、貨物のカウンターから運び込まれるという。
昨日の午後に引き続き、天気はよいが、湿気は相変らずで、背広をぬいでも、シャツの中は汗ばんで、どうにもならない。 まだ東京は梅雨に入っていないが、香港はジメジメした日が、三、四ヵ月は続くというから、想像する前に、まいってしまう。
白い薄い制服に、黒のズボンをはいた斎場の職員(四、五十代の男)が、五、六人、坊主頭に目だけ光らして、 ブツブツつぶやいたり、仲間同士で話をしているが、もとより何を話しているのか判らない。
十時、冷房室から、棺に入った遺体が出て来る。間近に見るのは初めてだが、眼鏡をかけたその顔は、
やはり眠っているとしか思えない。日本流に胸の上で手を合わせておらず(身体にそって腕を下ろしている)、
無理して組ませたが、硬直して思うように行かなかった。
小柄な男が、何やら私に言う。写真を撮らないのかということらしい。
一応カメラを持っては来たが、やはりためらってしまう。
シャッターを切るとき、目をつぶったのだろう、いずれもピンボケである。
いよいよ、棺のフタを閉める。領事館が、いちばん神経を使っていたのは、これからである。 以前に、遺骨を本国へ送った積りが、どこへ行ってしまったのか、二年経った今も戻らず、宙をさ迷っているという例があり、 今回も遺体を間違いなく、本国に送り届けるのを、ずっと見届けてくれというのが、私への依頼だった。
だが、フタをした一瞬私は、梶山であったかどうか判らなくなった。 推理小説ではあるまいし、重い遺体を取り換えるなんて、あり得ないのだが、まるで眩暈に襲われたように、 その瞬間を見ていなかったような錯覚に陥ってしまい、これは東京へ帰るまで不安だった。
フタの左右六本のネジを閉め終ると、また写真を撮れというように、彼らは棺の側から離れる
(彼らは、写真に撮られるのを嫌うらしい)。
次は、外箱。ゆっくりやっても、ここまで三十分もかからない。棺をすっぽり納める大きな木箱で、
これにハガネのベルトをすれば作業は完了である。チップを渡して、後はただ搬出を待つばかり。
人気のなくなった三〇七号室は、長い線香も途絶えがち、三十センチぐらいのローソクも残り少なくなって来たので、
三ドル半(一香港ドル=約六〇円)出して、新しいのと取り換えてもらう。
一昨日や昨夜と違って、午前中の殯儀舘はさすがにひっそりとしていて、職員や出入りの花屋が飾り付けをしているだけだ。
午後八時でも明るい。
ここ香港では、朝はまだ眠りから覚めていないのだろうか。
ビジネスライクな殯儀舘のマネージャーに現金で支払いを済ませる。
何やら英語と中国語で言っているが、どうも「またの機会にどうぞ」なんていう風に聞こえて仕方がない。
手持ち無沙汰な私は、梶山のカバンから出て来た"千社札"を外箱に貼った。
神社の代わりに、自分の棺に貼る人なんかいないだろう。しかし、花輪の一つや二つでは、さびしがり屋の梶山には、
物足りないのではないか。
十二時半、いよいよ車で空港へ向う。梶山が過去何度も歩いたであろう、雑多な香港の街中を、静かに走りながら、
海底トンネルをくぐって、九竜サイドの空港へ。
貨物のカウンターで、日航心づくしの花束を飾ってもらい、二時には乗客より先に、機内に運び込まれた。
そのころから、晴れ渡っていた空が曇り始め、三時前には暗くなったかと思うと、大粒の雨が落ちて来て、 土砂降りの中を日航六二便は香港を後にして、四時間半後、曇り空の羽田に着いた。 無事に、と言いたいところだが、元気だった梶山が冷たくなっているのだ。
空港では、予期せぬ報道陣のフラッシュに奥さんは立ちすくむ。そっとしておいて欲しいと思うが、どうにもならない。
出迎えの人たちにあいさつして市谷の自宅へ向う。旅の疲れも言っておれない、東京での第一歩だった。
一方、梶山は午後九時ごろ、多数の弔問客の詰めかけている中を、十日ぶりに無言の帰宅となった。
五月十五日<東京>友引
一切の行事が行われず、比較的静かな一日であった。
三時半より、奥さんの身体を考慮しての共同記者会見が、柴田錬三郎先生同席で、棺の前で、およそ三十分行われる。
取り乱すまいとする奥さんだが、時折り涙ぐむ。香港では、ずっとこらえていたのだから、むりもないだろう。
夕方には、空模様がまた怪しくなって来た。
五月十六日<東京>
午後一時、密葬のため出棺。読経の後、棺の中へ、眼鏡、愛用の万年筆と原稿用紙、『李朝残影』一冊、
「噂」創刊号一冊、普段着ていた結城と大島(父の形見)の着物、生前こよなく愛した缶入りピース一缶分をばらまき、
サントリー・オールド一本分をふりかけ、最後の別れを告げる。
三時すぎ、幡ヶ谷斎場より、奥さんの胸に抱かれて帰宅。
このときになって、はじめて梶山はやっぱり死んだんだなと、急に悲しみがこみ上げてくる。
後で聞いた話だが、お骨の中の、背骨の最上部(頭を支えている部分)の骨が、
ちょうど人が座禅を組んでいるような形、そのままで残った。
これは非常に珍しいことで、後生のいい人だとされ、斎場の係員は、
自分たちでも滅多にお目にかかれないことだと話していたという。
同日七時より、通夜。
内輪だけでということだったが、どしゃ降りの雨にもかかわらず、数百名の方々にお出で頂き、
通夜は盛大にという故人の遺志をくんで下さり、深更二時すぎまで、にぎやかに続けられた。
五月十七日<東京>
午後一時から三時、司会進行の藤本義一先生によれば、梶山季之の告別式・葬儀というよりは、
すべての儀の"総儀"が、千名近い参列者に見まもられ、芝・増上寺会館でとり行われた。
わずか四百字のために、二日間を要したという、吉行淳之介先生からも弔辞を頂いた。
なお、今東光先生のおつけになった戒名(「文麗院梶葉浄心大居士」)について、
昨年四月一日の野良犬会の席上でつけられたと一部で報道されているが、死後につけられたものである。
その席で、梶山がみんなの戒名を、今先生につけてもらおうと発言し、それが現実となったので、
悪い冗談は言うもんじゃないというのが、今先生はじめ皆さんのご感想だろうと思う。
梶山が戒名のことを口にしたのは、前年暮ガンで亡くなった父の葬儀を、一月に郷里の(広島県)地御前村で盛大に行った時、 人が死ぬというのは、色々大変なことなんだなと話していた、そのせいではないかと奥さんは言う。
ハワイ生まれの母を持ち、ソウル(旧・京城)で生まれた梶山季之は、今また、異境の地香港でその四十五年の生涯を閉じた。 しかし、日本人である梶山は、仏滅の日に倒れ、日本に帰りたいと言いながら、また、仏滅の日に逝ってしまった。
なお、墓所は大宅昌夫人のご尽力で、大宅壮一先生が眠っておられる、鎌倉・瑞泉寺にお世話して頂いた。 急いで来てしまった梶山に、大宅先生は、さぞ苦笑されていることだろう。
死の一週間前より
今、"VOID"(無効)と、赤いスタンプの押された、梶山のパスポート等から、その足取りを推理すると、
五月五日<香港>子供の日
午後、羽田より香港に入る。エアポートバスの中で偶然、地方で本屋をやっている知人に会う。
ホテルに入って、直ちにマカオへ入るビザの申請を旅行代理店に頼み
(マカオはポルトガル領のため。五ドルの手数料を払えば、二、三時間でビザがとれる)、
水中翼船で、およそ一時間半のマカオへ到着。
マカオへ行ったのは、そこのカジノを牛耳っている、英・仏・蘭・中国等の血が混じっている、 顔見知りのボスに会って取材するためであった。前日のNHKビデオ撮り(教養番組「大衆文学をこう書く」。 5月4日収録、12日放映)の後、柴田(錬三郎)先生に、そのことを話している。 だが、このマカオのゴッドファーザーは、多忙と神出鬼没な行動で、中々会うことができないという。 梶山は、会えなかったからか、バクチで大分スッたようである(残っていた金額が極端に少なかった。 ルーレットをやったとすれば、いつものように"0"と、美季ちゃんの年齢の数字《13》に賭けていたことだろう。 だが、その"13"は、西洋では不吉な数字であることを、果たして意識していたであろうか)。
五月六日<香港>
マカオより、香港に戻る。早い時間ならば、「ブルーへブン」か、「シーパレス」で、飲茶にありついたことだろう。
飲茶というのは、中華料理店で、午前11時から2時ごろまでやっているもので、売り子がワゴンを押しながら、 小さなセイロに入った、できたてのソバ類、シュウマイ、ギョーザなどを売り歩き、客は、それを好きなだけ取って、 勘定はセイロの数(一つが二、三香港ドル)で計算するシステム。
その後(時間不明)、マンダリンホテルへチェックイン。仕事をしていないところを見ると、 すでに余り調子がよくなかったのかもしれない。
五月七日<香港>
月刊誌二本を書く約束で、題まで渡しているのだから、忘れた訳ではないだろう。
いつも〆切ギリギリにならないと書かないが、そろそろタイムリミットだと感じていた筈である。
東京はストと(来日中の)エリザベス女王の話題でもちきりだ。
正午ごろ、帰り仕度をしている時か、トイレに立った時か、突然口から血を吐き、バケツに一杯ぐらいの量を出したのだろう。 あたり一面に飛び散った血の痕がすさまじかったらしく、驚いたホテルマン(日本人もいる)は、ホテル内の医者に通報。 胃潰瘍と診断した医者の指示により、裏口から救急車でそこから十分ぐらい離れた、山の上にある、カノッサ病院へ収容され、 すぐ輸血を始める(四時ごろ)。
ホテルの近くにオフィスのある日航の人たちが、急を聞いてかけつけ、仕事の合い間に、 代わる代わる付き添ってくれることになった。その後も連日、在住の日本の方々が見舞いに来てくれた。
本人の意識は確かで、その人たちに、ご迷惑をおかけして済みません。大したことはありません。 心配するといけないので、日本にはすぐに知らせないで下さい……というようなことを、断片的に喋っている。
何しろ英語と中国語、というより広東語で、殆ど日本語が通じない(人口の九九パーセントが中国人で、残りが白人等である)。 おまけに、カノッサ病院は、カソリック系の療養所のような病院で、付き添いの看護婦はいたが、 二十四時間医師が詰めている訳でもなく、静かなだけが取り柄で、設備も少ない。 通訳を買って出てくれた、若い日本人夫婦は、素人目にも、こんな所で大丈夫だろうかと思ったという。
五月八日<東京>
月刊誌の〆切も迫っているのに、どうなっているのだろうと気をもんでいる、
東京の自宅に"梶山が倒れた"との第一報が入ったのは、正午、民間の人からである
(本人自身、大したことはないと思っても、領事館の知るところとなったが、本人の希望によったらしく、
まだ本国には連絡が入っていない)。
奥さんは驚きの色を隠さず、「喀血でなくて、吐血ですね」と何度も念を押して、 「大したことはなさそうです。一週間ぐらい入院して安静にしておれば、日本に帰れそうです」という言葉に、 すぐ香港に発つべきかどうか迷った。
というのは、この一月下旬、奥さん自身が急に心筋梗塞の発作に見舞われ、一ヵ月以上の入院生活を送ったばかりで、 また発作が起きると大変だといわれている自分の心臓のことも気になって、医者に相談すると、飛ぶのは危険だといわれたのだ。
喀血は、肺などからの出血で、梶山は三年程前に、十年ぶりに再発して入院。 伊豆へ転地療養をして治っていた(前からの別荘「遊虻庵」に隣接の、書斎「二十七日庵」はこのときの産物)。
奥さんによれば、喀血なら心配だが、吐血なら直ぐ死に到るとは思えず、むしろ、これでやっと酒も止め、 少しは自分の身体に気をつけて、長年構想をあたためて来た仕事もゆっくりとやってもらえる。 いくら頼んでも酒を止めず、医者のいうことも聞かなかったけれど、目のあたりに出血を見れば、納得するだろうと思った。 また、本人が、いちばん恐れていたガンではなくて、一安心したという(父も、弟もガンで亡くしている)。
とはいえ、日本に帰って入院、手術ということも考えて、K病院、T病院の先生方へあらかじめ、打診の電話を入れる。 そして、電話で現地と、ドクター同士の話をしてもらおうとしたが、国際電話もストのため断念、 翌日の正午に話し合ってもらうことにして、その旨を日航の人に依頼した。
出版社へは、原稿をお渡しできないというお詫びの電話を入れる。これも、大変ご迷惑をおかけした。
ストで電話もかけられず、現地からの電話もない(入電は比較的スムーズであったが)。
不安を、表に出す訳にも行かず、午後には二組の来客があったが、「先生はお元気ですか?」の問いに、
「ええ」という返事も何か空々しい。
同日<香港>
始めは、食べ物飲み物一切与えてはダメということだったが、
少量の水やアイスクリームならいいという許可が昼ごろ出ると、日航の人たちが、梶山の欲しいという、
シャーベットやカルピスを買いに行ってくれたり、ビザの延長申請に行ってくれた。
そんな状態でも梶山は、相変らず他人に気をつかって、かえって恐縮したというが、
あれだけ好きな酒やタバコとは縁切りだと残念そうに言っていたという。
同日<東京>
夕方から、秋ごろ発刊予定の、季刊『噂』について、見積もりを出していただいた専門家に、話をうかがう。
今度は、梶山色を大いに出したらいいですねと、かつて、梶山に大変お世話になったという、その人は力説した。
同日<香港>
一日中、輸血と点滴を、ずっと続けていた。血を止めることをせず、どんどん輸血をするので、みるみる肝臓が疲れて、
機能が低下し始め、取り返しのつかない状態になっていたようだ。
この夜あたり、肝機能低下に伴う、幻覚症状が多少出たらしい。
日本の医学の水準をもってすれば、絶対に助かっていたはずだと、後になって、信頼する医者に聞いた奥さんは、 そのときはじめて、涙を出して悔しがった。
五月九日<東京>
国電(現、JR)私鉄ストのあおりで、いつもより少し遅く事務所(季節社ビル)に着いた私が、
最初に聞いたのは、梶山が危篤状態で、奥さんと美季ちゃんが、四時の便で、香港へ飛ぶということだった。
十二時ごろ、外務省からも、すでにご存知だと思うが、危篤状態ですという、公式電報が入った。 病院も医者も立派で、安心でき、大丈夫ですという昨日の話が、一夜にして、危篤状態だとは? 一体どういうことなのか!
同日<香港>
肝機能が弱って来て、五分五分の状態になった時でさえ、本人は輸血を嫌って、針を抜こうとして、暴れた。
《多量の輸血は、その人の性格・体質をも変えてしまう、との取材メモが、死後書斎から発見された》
とに角、大急ぎで準備をし、奥さんたちは羽田へ向かった。
ドクター同士の話も通じ、東京の先生の指示により、午後には、カノッサ病院から、設備のよい、
クイーン・メアリ・ホスピタルへ移すという連絡が入る。
ここなら大丈夫という、医者の言葉に安心はしたが、なぜ、最初にこの病院へ入れなかったのか、疑問が残る。
二十四時間が勝負というのに、およそ四十八時間も遅れているではないか?
彼の地では、ヤブ医者のことを、モリ医者というらしいが("木を見て森を見ず"から来たのか)、
このモリ医者の、最初の診断が重大な結果をもたらす、誤診だったのではないか?
一方、奥さんたちが香港に向かっている最中に、「昨日奥さんが来るということだったのに、来なかった」という話が、
現地で流れているということを聞き、私は「そんなバカな!」とつい大声を出してしまった。
大して心配いらないからというから、昨日は発つのを見合わせたのだ。
それを、どこでどう間違って、"冷淡な"奥さんになってしまったのだろうか。
結婚以来二十数年、ずっと梶山の健康に気をつかって来たと、始終聞かされ、梶山もそれに感謝していたのを知っていた私は、
その無責任な言葉に、どれだけ腹立たしさを覚えたことか。
全くの留守宅になった事務所で、五時、六時……、九時、十時……と奥さんからの第一報を待つ間の、実に長かったこと。 何か異常を察したのか、外にいるチビが、時折り心細げになく。
同日<香港>
梶山は、奥さんたちが病院へ行く少し前(午後九時ごろ)に、クイーン・メアリの方へ移され、適切な処置のため、
意識ははっきりしており、十時ごろ着いた奥さんと美季ちゃんの顔を認め、美季ちゃんには「歯はその後どうだね」と、
最近手術したばかりの歯のことをいちばんに聞いた。
東京の先生の名前をあげ、その指示によって、この病院での治療が始まるとの奥さんの言葉に、やっと安心した顔をした。
始めは強がりを言っていたが、余程心細く、奥さんたちに会いたかったのだろう。
同日<東京>
十一時すぎになって、やっと電話が入る。奥さんの、いつもよりややカン高いが、落ち着きのある声で、
現地のお医者さんにお任せして、手術OKのサインをした、と簡単な状況の説明があり、今晩は安心だという。
それを聞いて、ホッとしたものの、奥さんの心臓の方も気になったが、適切な言葉が出て来ない。
私は明日にでも香港に立つ積りで、十二時すぎに家に帰り、身支度を整えた。
五月十日<東京>
今年は春闘が長引き、まだ国鉄が動かない。これで四日目である。
労働者のためといいながら、なぜ電車をとめて、国民に迷惑をかけなければいけないのかと、
常々口癖のように、数をたのむ、民主主義の悪弊について語っていた、梶山の顔が浮かぶ。早く元気になって欲しいと思う。
午前十一時、現地から電話が入る。手術をするにあたり、過去十年間のデータ(カルテ等)が要ると、 ドクターが言うので、それを持って来て欲しいという。早速病院の先生に問い合わせると、 そんな悠長なことを言っている場合ではない。とに角、すぐ手術を受けなさいとの言葉を、伝える。
聞き取りにくい電話の向こうから、通訳を通してのやりとりで、中々意思の伝達がうまく行かなくて、
イライラしている奥さんの様子が、手にとるように判る。
《この間、親類の家から、昨夜遅く、男児無事出生との電話が入る。梶山のことは、まだ知らせていない》
しかし、私にはどうすることもできない。
T病院の先生の言葉が、耳にこびりつき、胸に熱いものがこみ上げて来る……。
彼は言った、「奥さんたちが行くまで、よくもったね」と。これには、どのような意味が込められているのか、
私は口に出すに忍びなかった。
午後二時半の連絡では(こちらから病院に電話を通じさせることは不可能に近い)、
ガストロカメラを入れた検査の結果が出たという。胃の上部に穴があいているが、
うまく行けば、二、三日中に日本に帰れるかもしれない。ただし、肝臓の具合による、と。
ということは、肝臓の機能が回復すれば、手術が可能なのか、それとも、もう手術をしても無駄だという意味なのか、
問いただす前に、電話は切れた。
不安になった私は、ひそかに、パスポートを持っている身内の人に、いつでも発てるかどうかの打診をする。
いやな予感のなせるところである。仕事の方は、全く手につかない。
三時のテレビニュースで、スト解除、新幹線が動くというので、駅にはお客が殺到した。
が、動く筈の電車は"再開のメド立たず"で、大誤報と同じ結果となった。
《大阪からかけつける予定の、奥さんのお母さんも、ついに待たされ損となり、明日午後の飛行機で来ることになって、
入れ違いに、私が香港へ発つことも、不可能になった》
香港からの情報は、テレビニュースと同じで、始めは安心させておきながら、やがて、いきなり、 再起どころか最悪の事態を知らせて来るのだった。
五月十一日<東京>
昨夜は、ついに連絡がなかった。これは少し危ないなと思った私は、コードを一杯に引っ張った受話器を枕元において、
まんじりともしなかったが、それでも明け方少しは寝たのか、いきなり電話の音で起こされた。
時計を見ると、七時に数分前である。
現地の交換手が、何か英語で問いかけるが、音声が悪く、訳もわからず、何度か性急に、イエスと答えると、
やがて、奥さんの声に代った。
「一時間半……、前に死んだの!」
と。まさかと思って問い返したが、答えは同じだった。
事実を変えることができないならば、その直面した現実を、この素っ気ない言葉でなければ、
何びとも涙なしには伝えることができなかっただろうと思うと、グッと胸がつまった。
「皆さんがよくやってくださいました」と、そばにいる何人かの人々にも、
取り乱さず頭を下げている奥さんの姿が目に浮かんで来るが、
「わかりました。気をしっかり持って下さい」としか、私には言えない。
清々しい朝の空気を、一瞬にしてかき乱した、それは、悲しくも、あわただしい、長い長い一日の始まりであった。 直ぐに知らせるべく、身内の人たちに、どのような言葉でもってしたか、私はもう思い出せない。
同日<香港>
厳然たる事実の前に、やはり人間の力では、どうすることもできないのだった。
死因は、胃潰瘍ではなく、食道静脈瘤出血と、肝硬変であった。結局、手術は行われなかった。
ところで、弔辞の中で今東光先生が、梶山の本当にし残したことは、『噂』の復刊であるとおっしゃられた。
実は、五月一日の午後、奥さんと私を前にして、抱負を語り、あらかじめ出しておいた私の企画案を、
これはいい、あれはダメと、いつになく、何時間も熱心に話し合ったものである。
ただ、その時、私の心に引っかかったのは、新聞の死亡広告の話になって、「俺も最近気になりだしたよ」と言ったことで、
翌日顔を見るまで、私は妙に落ち着かなかったのを覚えている。
季刊で出すからには、じっくりと時間をかけて、腐らないもの、文学(文壇)だけに限らず、広く、
そしてあくまで庶民的なもの、つまり、普通では残らないものを残しておくという方針と、
前のように金と人を使わないでやれということで、再スタートの第一歩を踏み出したばかりであった。
一週間後の八日には、前述の通り、見積りを出してもらい検討して、梶山に報告する予定だった。
さらに、死の十一日前より
五月一日<木>メーデー
午後、「噂」のプラン会議。夜、あることで力を貸し、その御礼の意味での会合に招ばれ、神楽坂へ。
五月二日<金>
午後より、時たま出るしゃっくりがひどく、書く予定の週刊誌の原稿を、翌朝に延ばしてもらう。
寝ようと思っていたところへ、編集者から電話があり、会う約束をすっかり忘れていたのに気づき、二、三時間外出。
ヨーロッパから帰ったばかりの、黒岩重吾先生にお会いする。
五月三日<土>憲法記念日
早朝、原稿を書いて渡す(絶筆となる)。
夕方、雨。六本木へ、久しぶりに家族三人で食事。いつでも出かけるのを渋っていた美季ちゃんが、その日に限って、
どうしても行こうと言い、奥さんは梶山に口説かれて、雨の中を出かけた。これを、最後の晩餐というべきか。
五月四日<日>
午後、NHKテレビ「市民大学講座」出席のため(これが最後の仕事となった)、月刊誌のタイトル(二本)を書き置いて、
仕事道具の入っている黒いカバンを持って出る。奥さんの「伊豆? それとも……」の問いに
「どこをさ迷うか、さすらいの旅に……」とお道化て言い、六日か遅くとも七日には戻るということだった。
いつもの調子なので、奥さんは気にもとめなかったが、まさかこんなことになろうとは、夢にも思わなかっただろう。
梶山は、よくフラリと、どこへとも告げずに出かける。それが故郷の広島であったり、 京都であったり(昨年の春は、本人より先に筍が届いた)、パスポートとドルを、いつもカバンの底に入れているので、 ハワイでも、香港でも、思い立ったら出かけて行くのだ(アメリカのビザを持っている。香港は一週間、ヨーロッパの国々は、殆どビザ不要)。
また、どんなに遅くなっても、原稿を書き、誌面に穴を開けないという自信と、編集者の信用があった。 勿論、いつも取材用のノートをポケットに忍ばせ、何でも仕入れて来るのだった。
先月三十日には、季刊雑誌の販売について意見を聞き、同時に頼まれた講演の日時等の打ち合わせをしている。 それが、今回通夜の会場となった応接間における、最後の接客で、残されたメモ用紙に記されていたのは、 皮肉にも、次の数字であった。"5/17、午后1時"
(一九七五・五・三一記)
(「梶山季之の世界 追悼号」『別冊新評』1975年夏号所収)