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「ミニ自分史」(129)学生時代の思い(怒り・悩み・喜び)など 2010・10・17 橋本健午
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1962(昭和37)年4月8日<19歳・大学1年>
「昨日(7日)、上天気のもとに、入学式も無事済みました。M子ちゃんも約束通り来てくれて、“父兄保証人入口”から2階に入ってくれました。
1万人収容できるという記念会堂も新入生やその父兄達で超満員、それでも優遇されたのは新入生の方で、父兄は大分立っている人がいました。
式は午後1時からですが、まず舞台にグリークラブの学生が100人くらい登って校歌をうたい、次に新入生にそれを指導して、かっきり20分には次の行事。
総長以下教授連が、中央の通路を静かに歩いて壇上に向かって突き進む。
ボクはできるだけ中央にと思っていい座席を占めましたが、壇上にははるかにかに遠く、人の顔がはっきり見えません。《中略》
とに角、式はその後、全員起立して校歌をうたって、それでお終い。正味55分で済みました。
学部入学式というのがそれぞれありますが、ボクの場合、9日の午後1時からです。
昨日は何々部とか何々クラブの勧誘がひどいものでした。
ただそれぞれの印刷物をくばるだけですが、本部から記念会堂(文学部新校舎の前)まで2〜300メートルの間に、
持ちきれないくらい持たされる新入生がずいぶんいましたが−そういう人はボウシが新しいのですぐ分ります−年長者も随分いるようです。
またもらったものをバカていねいに整理しているのもいましたが、地面に落ちているのでも大小色とりどりでものすごいものです。
ボクはというと、暑くて上着をぬいで手に持って歩いていましたが、あの赤茶のセーターに、小さな白いWのバッヂをつけて堂々と(?)歩いているものですから、
新入生ということが気づかれません。これは実に効果的で、印刷物は一枚ももらわずに済みました。
実際貰ったって仕方がないのです。各クラプの簡単な紹介は前述の“学園生活”にも書いてありますし、また思うようには入会できませんから。
それでも1つか2つは入ろうと思っています。運動関係はあきらめました。
新入生かどうかの区別がつかなくて恥をかかされたのも事実です。
文学部の掲示を見ていたとき、新入生の母親が(文学部の)入学式が9日というのは正しいのかどうなのかって聞くのですが、
そんなことボクには経験がありませんから、何ともいいようがありません。
ただ掲示を信ずるだけです、もっとも、1年浪人しているのですから、ちょっと変な気持もします。《以下略》
1962(昭和37)年4月13日<19歳・大学1年>
「…その日(9日)、入学式の始まる前、パート・タイマーとして、1時間200yen働きました。
最初のアルバイト(?)アサヒ・イブニング・ニュースの購読勧誘をしている先輩を冷やかして、手伝ってやろうかとやり始めたのです。
新入生に向って(ボクも実は新入生なんですが−それがちっとも新入生らしくなくて、分らないんです)、むずかしい試験を見事に突破したんでしょ、
それぐらいの実力があるなら、すぐに読めますよなんておだてて買わせたものです。
その先輩、お前うまいなあといっていましたが、小心もののボクが、まるで別人のようにふるまうのですから、ちょっとコワイ気がします。
今日もちょっと手伝いましたが、一人も勧誘することができませんでした(もっとも雨が降ったセイもありますが)、
このアルバイト1日1,OOOyen以上になるそうで、来春こそは、もっと場なれて、やってみようと思います。 《以下略》」
アルバイト
大学1年…英字新聞勧誘200円/時、家庭教師英語2,500円/月、二幸派遣520円/日(11,645円・交通費400円)、少年野球の審判300円/半日、12月ワシントン靴店、歳暮配達550円/日(日本空輸 900円)
大学2年…3月帰省アルバイト(半月)、入学期…英字新聞勧誘3,600円(4・13日大12件/4・14日大6件/4・16慶大日吉10件/4・19横市大4件など)、冬…集英社(販売)700円/日
大学3年…1月銀座・警察協力600円、春…茨木)公民館勤務、夏…茨木)公民館〈運転免許取得〉、冬…集英社(販売)900円/日
大学4年…不明<何もやらなかった?!>
卒業までに、さまざまな思いが… (日記) 2010・10・17 橋本健午
1966・1・12 卒論 遂に完成。大学四年間の一つの成果としては、いさゝか物足りない感じがするが、これで一段落した。
1966・1・23 この一週間、毎夜飲んで、毎夜車で帰ってきた。実に異常なことである。その上、四日間毎日タバコを吸った。これも今までにないことである。
/学校の方は授業料値上げ反対等の学生ストをやっており、明日以降続けるかどうかによって、試験にも影響を及ぼす。
そういうことで、どうも物情騒然としており、気分的にも常態を失って、どうすることもできない。
寒いし、それで飲むことにもなり、パチンコも少し面白いのでやってみた。・・・・・
1966・2・3 暖かい天気で、気分がよかったが、学校の方は相変らずのクラス討論等で、全くもって下らない現実である。
私自身、さしてこのストにまきこまれたつもりはないが、その影響が全然ないとはいえない。
/全く気分的に落ちつきがなくなり、喫茶店に入ったり、映画を見たり、酒を飲んだりで、金遣いが荒くなり、手のつけようがなかった。
そして、タバコを一人前に吸うようになり、遂に我慢し切れなくなって、クラス討論において、先月三十一日より、発信をくり返し、
動に対する反動としての立場を明らかにした。
/私はこのまゝ、何事も表明せずに卒業してゆくつもりでいたが、彼らの闘争の無意味さと試験を自ら放棄して自殺的行動をとることによって、
学校側ならびに社会に対して早稲田大学の学生としての権威を失墜する恐れが大いにあると考えたこと。
またこのストによって余儀なく参加した者の自由を無視する集団的行動の行き過ぎを批判し、反省を促した次第である。
/彼らのやっていることは全く子供の他愛ないまゝごとで、しかしながら、そういうことをすることによってどれだけプラスがあるのか、
それすら分からずにやっている甘ったれた考え、学生だからそれでいいんだという不遜な態度、これが大学に四年間学んだ、
いい年をした大人のやることかどうか、彼らには全く自覚というものがないらしい。
/始めのうちは興奮してやっていたが、もう熱が冷めてみると、脱落者が出てくることによって、自らの目的を何ら達成することなく、
崩壊しつつある現状、今こそ彼らは名誉ある撤退をすべきときである。
1966・3・2 大分暖かくなった。このまゝ、寒さがぶり返すことなく、春が来ればよいと思う。
/ここ十日間ばかり、ずっとM君の弟の大学試験等で行動を共にしており、いさゝか気分的にも疲れた。
彼は未だ子供で甘ったれてはいるが、私の弟子にしてくれというのには少々まいった。
私自身、海のものとも山のものとも判らないのに、弟子をもってどうするのか? しかし、いずれにしても弟子というのは必要なものである。
それだけ人間的な幅も出てくるし、責任も伴う、更に魅力とならなければならない。たとえ、それが冗談半分としても、私の方としては考えざるを得ない。・・・・・
1966・3・15 早稲田大学露文学専修“卒業”:早稲田騒動。卒業式行われず(25年目90・10・21ホームカミングデーで挙行);母のためにガウン姿の記念写真を撮る(亀甲館)
1966・4・1 集英社出版部にアルバイト勤務(750円/日)。《7月中途採用試験を受けるも役員面接で落ち、9月に辞める。
この間、そんな私を待っていたのは販売部時代に知り合った女性2人。誕生日にアルバムをもらったり、ご馳走になったりのペアによる“攻勢”に遭い、
ひとり目に諦めてもらうのはともかく……。》
1966・4・2 いつの間にか十何年の学生々活に終止符が打たれた。長いようでもあり、短いようでもある。
その間、どういうことが起こり、どういうふうに考えてきたか。実に様々な事件が起こり、様々な感慨があった。
特にこの最後の三ヵ月間というものは、まるで戦乱の巷に身を置くような、空虚で腹立たしい時期であった。
しかも、それは未だに何ら解決を見ないばかりか、ますます混乱に陥り、悪化の道をたどっている。
…今さら、平穏無事に済みそうもないといって、卒業式を中止する理由があるだろうか。
大学は、入学者を入れることと共に、卒業生を送り出すことも大事な仕事である。卒業式を単なる形式だとみなすことはできない。
それは大事なケジメなのだ。(後略)