私にも、学校で"イジメ"られた経験はある。シカトとか、集団的かつ暴力的なものはなかったが、
自分たちとちがう言葉づかいをする"少数派"をからかうというのは、単なるモノ珍しさからであったのか。
昭和30年代のはじめ、ラジオによく登場する芸能人といえば、エンタツ・アチャコに広沢虎造、柳家金語楼(キンゴロウ)や、
今レトロブームに乗ってリバイバルした榎本健一(エノケン)らであった。かれらとまったく面識などないのだが、
当時の私にはキンゴロウやエノケンとの浅からぬ"事件"があった。
父が教師だったこともあるが、比較的"標準語"を話していた大連(中国東北部)生まれの私には、家庭の事情とはいえ、
帰国後の福井県、静岡県、大阪府という"移動"は、子ども心に楽しくもあり、またその地の言葉に染まるのも早かった。
小学3年の5月に静岡県に移り、中学入学寸前に大阪府下に行った。前者では標準語を冷やかされるうちに静岡弁に馴染み、
ついで強烈な大阪弁の世界では、珍しい静岡弁を笑われるだけでなく、「シズベン」(静弁)とからかわれ、
また「ハシケン」(橋健)とか「シズケン」(静健)、「ハシモトケンゴロウ」などといわれていた。
大阪弁にもなじんだが、あまり好きではなかった。私の養い親である長兄は標準語をしゃべり、
大阪弁の世界ではキツイ物言いに聞こえていたという"誤差"も知っていたが、なんとなく、しまりがないというか、
使いにくかったからだ。
そんな中学2年のある日、昼休みの時間になった。
運動場に出ようとしたところ、うしろから、たしかに"ハシモトケンゴロウ"という声を聞いたとき、
日ごろのウップンを晴らしたかったのか、私は振り向きざま、コノヤロウと殴りかかってしまった。
拳固はうまく当たらなかったが、見知らぬ相手は二人ともきょとんとしている。
私は私で、彼らがどうして"あだ名"を知っているのだろうと思ったものだが、疑問は数日で解けた。
そのころ、参院選挙があり、大阪で「橋本欣五郎」という、先の大戦でA級戦犯とされた元陸軍大佐が立候補していたのである(31年7月)。
彼らは単に"ハシモトキンゴロウ"という名前に面白さを感じて、話題にしただけだったのだろうが、
私には「ハシモトケンゴロウ」と聞こえてしまったのだ。欣五郎候補は落選し、自意識過剰だった私はさらに落胆したのだった。
「シズケン」などといわれるのは、あまり面白くはなかったが、クラスに溶け込むことがいちばんだと思い、
笑ってすませていた。今では、大阪で旧友に会うと、「ケンゴ」と呼び捨てであるから、それらは一時的なものだったようだ。
その後東京に出てきても、大阪弁を喋ることはほとんどなかった。長じて、(大阪出身というと)大阪弁が出ませんねとよく言われた。
ふざけて喋るなど、意識しなければ、ほとんど出ないというのは、やはり最初に覚えた言葉が"定着"しているからだろうか。
(以上、2004年12月8日までの執筆)