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「ミニ自分史」(13)「言葉づかい」

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 私にも、学校で"イジメ"られた経験はある。シカトとか、集団的かつ暴力的なものはなかったが、 自分たちとちがう言葉づかいをする"少数派"をからかうというのは、単なるモノ珍しさからであったのか。
 昭和30年代のはじめ、ラジオによく登場する芸能人といえば、エンタツ・アチャコに広沢虎造、柳家金語楼(キンゴロウ)や、 今レトロブームに乗ってリバイバルした榎本健一(エノケン)らであった。かれらとまったく面識などないのだが、 当時の私にはキンゴロウやエノケンとの浅からぬ"事件"があった。
 父が教師だったこともあるが、比較的"標準語"を話していた大連(中国東北部)生まれの私には、家庭の事情とはいえ、 帰国後の福井県、静岡県、大阪府という"移動"は、子ども心に楽しくもあり、またその地の言葉に染まるのも早かった。
 小学3年の5月に静岡県に移り、中学入学寸前に大阪府下に行った。前者では標準語を冷やかされるうちに静岡弁に馴染み、 ついで強烈な大阪弁の世界では、珍しい静岡弁を笑われるだけでなく、「シズベン」(静弁)とからかわれ、 また「ハシケン」(橋健)とか「シズケン」(静健)、「ハシモトケンゴロウ」などといわれていた。
 大阪弁にもなじんだが、あまり好きではなかった。私の養い親である長兄は標準語をしゃべり、 大阪弁の世界ではキツイ物言いに聞こえていたという"誤差"も知っていたが、なんとなく、しまりがないというか、 使いにくかったからだ。

 そんな中学2年のある日、昼休みの時間になった。
 運動場に出ようとしたところ、うしろから、たしかに"ハシモトケンゴロウ"という声を聞いたとき、 日ごろのウップンを晴らしたかったのか、私は振り向きざま、コノヤロウと殴りかかってしまった。 拳固はうまく当たらなかったが、見知らぬ相手は二人ともきょとんとしている。 私は私で、彼らがどうして"あだ名"を知っているのだろうと思ったものだが、疑問は数日で解けた。
 そのころ、参院選挙があり、大阪で「橋本欣五郎」という、先の大戦でA級戦犯とされた元陸軍大佐が立候補していたのである(31年7月)。 彼らは単に"ハシモトキンゴロウ"という名前に面白さを感じて、話題にしただけだったのだろうが、 私には「ハシモトケンゴロウ」と聞こえてしまったのだ。欣五郎候補は落選し、自意識過剰だった私はさらに落胆したのだった。

 「シズケン」などといわれるのは、あまり面白くはなかったが、クラスに溶け込むことがいちばんだと思い、 笑ってすませていた。今では、大阪で旧友に会うと、「ケンゴ」と呼び捨てであるから、それらは一時的なものだったようだ。
 その後東京に出てきても、大阪弁を喋ることはほとんどなかった。長じて、(大阪出身というと)大阪弁が出ませんねとよく言われた。 ふざけて喋るなど、意識しなければ、ほとんど出ないというのは、やはり最初に覚えた言葉が"定着"しているからだろうか。

(以上、2004年12月8日までの執筆)


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