いま福井県小浜市だが、当時は遠敷郡といった遠敷小学校1年生のとき、同級生が死んで、弔辞を読まされた。
18,9歳の浪人時代に書いた「忘れないための自叙伝」にこうある。
「夏になって、ある同級生の女の子が赤痢で死んでしまった。それで私たちは葬式にも参列しなければならなかったが、
誰かが弔辞を読むことになった。これは"名誉"あることだった。死の何たるかを知らず、私たちは単にそれを、
もはや彼女の存在しないということで合点していた。Yさんらとともに私も候補になった。/美しい小堂先生の後についていって、
職員室で順番に弔辞の原稿を読まされた。その結果、どういう風の吹き回しか、私がその"大役"を果たすことになった。
それからは少々の練習をやらされた。その挨拶文は、ずっと同じ調子で声高く読めるのだが、最後にきて、
"……代表 橋本健午"のところになると、決まって声が小さくなるのだった。/これは私の恥ずかしがり屋の証明だったが、
あの大人が勿体ぶってやるのが顔負けするぐらいの演技だった。いざ本番でも同じ調子だった。それでも無事終えることができた。
後で、鉛筆をみな2本ずつもらったが、私だけは5本ももらった。私はえらいのだった。/喜び勇んで帰ってくると、入り口で母に、
頭から塩をかけられた。こんなことは初めてだったので、意味が分からず驚いたが、それが砂糖でなかっただけに安心した。
私は塩には魅力を感じていなかった」。
つぎも女性である。
大学2年の学年末試験の最中(1964.02)、英語だったか、早くできたところで、ふと顔を上げると、彼女と目があった。
それは、「出ようか」という合図になり、彼女と早めに教室を出た。それが永遠の別れとなった。
のちに刊行された『詩集』にある「女王様/女王様/あなたは/二十歳のお誕生日には/子供になられますことを」は暗示的である。
彼女の生涯は、19年と11か月 16日間であった。
その1年後の「日記」(1965.01.13)に、私は次のように記している。
「きょう、暮に出ていたクラス誌第2号を渡される。…明らかに創刊号より劣る。私は自分のものが載っているというそれだけの理由で買ったようなものだ。
死んだH君の作品がかなり載っている。/あの彼女の実在のすばらしさに比べて、作品の方は何かほほえましささえ感じられる。
私は彼女の死を未だ確認していないが、どんなものだろう。誰の胸にも何らかの悲しみをもたらさずに去らなかった彼女は、
冷たい土の中でなにを考えているのだろうか。/彼女の死を電話で友から知らされたとき、葬式に行かないのかといわれた。
/充分間に合う時間だったが、行かないと言った。行っても私の会いたい人がもうそこにいないのだからと。
その時、友は私をなじった。/私の彼女に寄せる気持ちを他人ごとならず知っていた彼が、わざわざ電話して一刻も早く私に知らせようとしたのに。
/私はその死がとても信じられなかったし、もし本当だとしても、どうして私の会いたい人がいない処に出かけて行けよう、
余計悲しみが増すばかりではないか。/私は彼女が好きだった。しかし、それゆえに私はしたり顔でそんな席には出たくはなかった。
私のこの考えは間違っているだろうか。冷酷だろうか。私は悲しみのために、悲しさを求めてひとりの人の死をとむらうことなどとてもできない。
/まの当たりにその現実を見るよりも、私の心の中で、ひとり元気で快活な彼女を生かしておきたいのだ。
その方がどれほど彼女にとって慰めになることか。/もうすぐその日がやってくる、彼女は永遠に若いままだ、純潔なままだ」。
死因は急性肺炎ということだったが、24年後に真相が分かる。思っていた通りであった。
≪わがHP「プロフィール」の1966(昭和41)年:「※H.Y君を偲ぶ」参照≫
やはり大学時代の友人であるHの死は、1993年12月下旬のこと。54歳、私より2歳上だった。死因は胃ガンだという。
高校時代に病気のため、進学が遅れた年長のHには、もう一つ東京コンプレックスのようなものがあった。
それはよい意味での上昇志向となり、生来の頑張り屋で、いくつか仕事を変わっても、それぞれにうまくやっていたようだが、
いつしか不動産関係の資格をとって、奥さんともども地元に帰っていた。
死の3年前、大学卒業25年目のホームカミングデーで同級の男女数名が顔をあわせた。
記念会堂から近い文学部校舎の前で記念写真を撮り、懐かしい飲食店に入り、やがて大隈庭園を散策し、
高田馬場近くの焼肉屋に入った夕刻には、彼とNと私の男3人となっていた。
その間、Hは大学の先生をしているNに、自分の子か親戚の子かの(東京での)進学の相談を持ちかけていたが、
どこかで齟齬があったらしく、二人の間でその話になり、一種の口論、すなわち水掛け論になっていたようだが、
事情を知らない私に口を挟む余地はなかった。
しかし、「だれも君の葬式に行かないよ」というNの台詞で物別れに終った後、私は少しく困った立場に立たされた。
双方とも私を"味方"と思っているからだ。
それからしばらくして、夕方帰宅するのを狙ったかのように、週に一度はHから電話が入る。Nとのことをくだくだと喋るついでに、
ウイスキーの水割でも飲んでいるのか氷がグラスに当たる音も聞こえる(何たることだ!)。
私としては両君とも友だちであり、話の性格上どちらに加担するものでもない"中立"を保った。
「もう帰っていたのか」などと勝手なことを言われても、私は黙って彼の"言い分"を聞くだけだった。
一方、在京のNとも何かの拍子に顔を合わせる。ある会合のあと、2人だけになり、別の居酒屋に入ると、
Nの口からHの非難が始まる。つい私は酒の勢いもあって、「どっちもどっちじゃないか」と口走ったため、
さあたいへんという次第。
私はHの訃報を知ったとき、彼に関して
「和解せぬまま 逝った友あわれ」
と筆書きし、一方、Nに関しては
「『だれも葬式に行かないよ』 と言った君は 後悔していないか」
との感想を記した。友情ってなんなのだろうか、と思う。
(以上、2005年3月30日までの執筆)