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「ミニ自分史」(19)「父の遺稿『短歌 二百九首』のことなど」

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 父橋本八五郎(明治22年〜昭和51年)は、大阪茨木時代の晩年には梧朗〈ごろう〉と号して、たわむれに? 歌を詠んでいた、というのが私の記憶である。
 手元にあるのは父自らまとめたもので、昭和38年4月から48年4月までの11年間に詠んだうちの209首と思われる。 年齢では74歳から84歳のときである。父にとっては、あまりめでたい晩年とは言いがたいが、それもやむを得ないのではないか。
 以前(昭和60年11月)、母トワの自伝的文章『わが半生の道 第一部』を自費出版したころから、何か父のものもまとめておきたいと気になっていたのだが、 死後私の手元に預かっていたものは、これを含め若干の原稿と日記類だけであった。
 《ご覧のように、取捨選択され、読みやすくまとめられているため、あえて一冊の"本"にするまでもないと判断し、 このようにファイルに収めることとした…》
 父はその昔、福井県師範学校時代以来、アララギ派の流れを汲む柊〈ひいらぎ〉同人として歌に親しみ、 また師範学校時代の縁で反保(長谷川)英子と大正7年1月に結婚し、同年3月、満洲に新天地を求めて大連に移住した。
 しかし、妻英子は昭和10年、45歳のとき脳溢血で亡くなった。これを悼み、父は同年7月に遺稿集『橋本英子歌集』および『英子追悼集』を自費出版している。 遺稿集の巻頭に土屋文明の序文がある。父の端書きによれば、これらは後に残された4人の子供(男3人、女1人)のためにと、 刊行されたものだった。
 その後、父は妻を亡くした年の10月、昭和8年5月から渡満していた、新潟十日町出身の看護婦長野トワと見合い結婚をし、 昭和15年には四男が、同17年には五男として私が生れた。結婚にいたる事情は、母の『わが半生の道…』の後半に詳しい。
 当時の父は、南満洲鉄道株式会社(満鉄)の付属図書館(日本橋図書館?)に勤務していたようであったが、詳しくは知らない。
 このように、昭和51年春、米寿の祝いを受けた半年後に亡くなった父の前半生について、私はほとんど知らないのである。 これは、子として恥ずかしいことであるが、似たようなことは、他の人も同じようであった。
 引揚げてからの、分教場の教師生活などを垣間見て、また長ずるに及んで、その余生というか一種の浪人生活から察して、 生真面目だがペダンチックで、生きることの下手な父の姿に、若いときは哀れみを、いまはふと私も同じように子らの眼に映ってやしないかと、 老いではないが、父の年齢に近づいてきたことを実感させられるのである。(1993・6・6国領にて)
 ≪少し、この当時について説明がいる。"父の年齢に近づく"というのは勘違いで、正しくは私が生れた時の父の年齢(54歳)をさしているようだ。 私はその2年後、53歳のときに月給取りを辞めたが、すでにこれを書いたとき、"生きることの下手な"自分を見ていたのであった。…2005・11・12記す≫

 〔本日、改めて父の遺稿を読み直した。自然や老人会などの身辺雑記、老い、家族、友人、故郷、"戦争"など、あらゆる事象を詠んでいるが、 私にその評価はできない。勝手に二十首を選び、ここに掲げる(数字は父がつけた通し番号)。…2005・11・12記す〕

    昭和38年4月 (二首のうち) 1
 己が父に年は同じと若き医師のわれを診察してねんごろなりき
    昭和38年7月 (二首のうち) 7
 味加減定まりがたきをこりずまに梅酒造りを今年も続けぬ
    昭和39年5月 (二首のうち) 25
 老いさぶる身をいたはりてこそ思へ春の夜床に足裏冷ゆる
    昭和39年7月 (三首のうち) 27
 戦時中戦後も酒は断たずして夫人は君を足らはしめたり
    昭和39年11月 (四首のうち)34
 ヴィーナスを見むと行列長けれど前にも後にも髪白きはなし
    昭和40年1月  (三首のうち)39
 優勝はアベベと思ふにも刻々にして動悸するわれ
    昭和40年3月  (二首のうち)46
 ドア開けば入り来る一人の若者に瞳輝くエレベーターガール
    昭和40年11月 (三首のうち)58
 還暦の歌あり喜寿に生き伸びてわれの命をいとほしまむとす
    昭和42年10月 (一首)   96
 浸水に鎖切られし犬ありて鎖のままに流れつつ吠ゆ
    昭和43年5月  (二首のうち)105
 凶悪犯人金嬉老が母恋ひて作りし歌を繰り返し読む
    昭和44年4月  (一首)   120
 東京に立つ日近しと老妻は悩みがてらも喜べるらし
    昭和45年1月  (一首)   136
 羅漢寺に禅海振ひし鎚置くをみ仏としてわれは拝せむ
    昭和46年3月  (一首)   148
 大連に浜木綿一鉢ありたりと「黄沙」を詠みて今思ひ出づ
    昭和46年4月  (一首)   149
 敗戦の後の講義はとまどひて教室に入る脚重かりき
    昭和46年6月  (五首のうち)154
 戦死者の遺族もすでに代かはり家新しく庭広く住めり
    昭和46年6月  (五首のうち)155
 靖国詣での下り列車に遺族らが賑はいすさぶは唯見過ごさむ
    昭和47年2月  (三首のうち)171
 三十年前次男船出の桟橋にその面影を三男に説く
    昭和47年5月  (二首のうち)180
 若き日の罪ほろぼしに役立たずば長生きすとて何の甲斐ぞも
    昭和48年4月  (二首のうち)189
 抱けるは孫かと問はれし末の子の妻向ふるまで長らへにけり
    昭和48年8月  (三首のうち)209
 病む我に座席譲りくれし若者はわづか去りゆきて微笑をもらせり


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