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「ミニ自分史」(20)父の手紙―昭和19年9月、次男の戦死に関して―」

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≪次男 明郎の戦死に関し、弔意をいただいた方々へのお礼の手紙≫

 拝啓 戰局誠に危急の際、皆々様御勇健にて愈々御奉公の御事、國家の為心強き限りに御座候。 偖先般小生次男海軍中尉 明郎(二四)戰死の報に接し候節は、早速御鄭重なる御弔慰を辱うし、 故人は固より遺族一同全く過分の光榮と存じ、深く感激致し居り候。これ一は皆々様の御懇情に依るとは申せ、 一には擧國敵撃滅の逞しき意氣の、自然の表現と信じ、今更ながら皇軍必勝神州不滅の確信を新にし候事に御座候。

 明郎儀、大連嶺前國民學校より大連第一中學校に入り、同校五年の第二學期末、即ち昭和十三年十二月海軍兵學校に入學、 十六年十一月卒業致し候。入校に先だち、神戸の親戚に立寄るべく大連出帆の日、小生の通知電文中 コノヒコノコヲヘイカニササグ  と微衷の存するところを示し、かねて彼の首途に際しての教訓と致し置き候。 この句に對する彼自身の所感は聞きし記憶は無之候へども、父の芝居氣とひやかしたる長男の語氣は、今念頭に浮び居り候。 但しこの句は電文中の前後の関係もありて親戚間に よく記憶せられ、その後時々の話柄となりしものに御座候。

 兵學校の卒業式は、宮殿下を迎へ奉りて、簡素なれども嚴肅、静和なれども莊重、臨席者一同の深き感激を催すところに御座候。  式後直ちに會食あり。立食場の設備は食卓のC適と、絢爛たる裝飾と、特に卒業生を中心として、教官と父兄との歓談は、 卒業式場裡の光景とは全然別種を呈し候。この華麗と和樂に満ちたる食間、彼は小生に耳打ちして、お父さんよいかねと申し候。 その意中を汲みたる小生は、父はよし汝こそ如何と其の決意を促がし、在學中は尚持重を希望する念なかりしにあらざるも、 すでに卒業せし身としては、何を顧慮する事もなく渾身の勇を振ふべき旨を附言致したる事に御座候。 日米関係切迫の際とて、練習艦隊の編成なく、全員は其の夜より大小各艦に配置せられ、かくて少尉候補生として服務中、 約三週間餘にして、宣戰の大詔を拝したる事に候。

  危機迫る海上勤務に就かむとしきほふを見つヽわれは惑はず
  艦にしてみこと畏み聞きつらむ心にしみて汝は思ふらむ
 「この日この子を陛下にさヽぐ」と誓ひけるまことその日の今来つるはや

 翌十七年六月一日海軍少尉任官、同時に霞浦航空隊飛行學生を命ぜられ候。この頃「葉隠」の出版せらるヽもの數種あり、 その中より選びて二册を求め、一册を彼に送り一册は手許に置きて、各章毎に小生の讀後感を書きやり、 本文と對照して精讀せしめし事も数回續け申し候。霞浦より宇佐航空隊學生を命ぜられたる直後、即ち昨年三月中旬同隊を訪問致し候。 折から土曜の夜旅館に同宿。日曜日は同伴せる彼の弟妹と相携へて散歩致し候際、「軍艦では心は動かなんだが、陸へ上ると娑婆氣が出ていかん」と洩らし候。 その口吻よりして、彼も彼なりに死生の問題を考へたるらしく察せられ、私かに意を安んずると同時に胸突かるヽ思ひも禁ずる能はざりし事有之候。

 體格も一層の強健を加へたること、弟妹にも氣付くばかりにて、小生は旅館にて裸にならしめ、拳を以つてその固く隆起せる胸のあたりを、 押して見、また叩きても見たる事に候。茲に莞爾として眉目ミれる一個の青年を見る。我が子か、あらず、 帝國海軍士官なり との感深く、海軍當局者錬成の努力が、實に一通りならざることを了得致し候。
「里心すでになくなりてきたへたる魂の力われに迫り來し」とは、當日の印象を、戰死公報後、回想せししものに御座候。

 宇佐航空隊の卒業は半年後の九月にして、卒業と同時に、南方への出陣を命ぜられ候。 そのときの消息には得意の情溢れ居りて、

 いよいよ宇佐空を出ることになりました。一月位したら荷物が届くと思ひます。海軍をやめさせられたのではありません。 戰地へ行くので皆送り返しました。他に流用せざる樣保存しておいて下さい。
 戰地に行けるのは極めて少数です。此の選に入つたのは寔に幸福です。

とあり、又

 日頃の行ひが餘り惡いものだから戰争に出して貰へた。貴樣の樣な奴は早く死んで終へと言ふ譯である。 戰争に出ることになつたのは本當に少しなんだよ。以て如何に心掛が惡かつたかわかるだらう。 而もその少数の中でも橋本は最も適當であると言ふに至りては益々である。
 荷物がついたらよく中を調べなさい。洗濯してないものもある。一旦日光にあてヽからよく整頓してしまつておくこと。 廢品回生の腕を揮つて、やたらに改裝してはいけません。萬一機密圖書があつたら、すぐ確實に焼却のこと、多分ないと思ふが念の為。
 扠昨夜は中津で送別會がありました。學生一人一人と、今生の名殘りに思つて盃を挙げて行くうちに、 あと十五人位殘してのびてしまひました。學生も澤山居るのでなァと思ひました。

 かくて後、彼は弟の廣島幼年學校に在學せるをも、神戸の叔母をも顧みず、姫路の同情者、京都大學在學中の親友にも通知することなくして、 一路東京へと急ぎたること、後日の消息により承知致し候。

 在京數日間の彼の心境、態度は、小生関心の存する所、之も彼の通信による訪問先へ御尋ね致したるに、皆親心を察せられて、 夫々實況の御返事頂き、前記家庭へ寄せたる文面を流るヽ氣分そのまヽなりしことを確かめ得たるは、今に及んで感謝し、 又快心至極に存じ居る次第に御座候。

 彼の戰死は本年二月六日、内南洋方面との公報に御座候。當日の戰況は同月二十六日各新聞所載の大本營發表に明らかなること後に氣付き、 四千五百名の英靈の末席を汚し居るべきかと考へられ、出征後餘りに早き陣歿ながら、玉碎部隊なりし事と思へばいさヽか申譯も立たんかと自ら慰め居り候。

 彼が海兵入學試験の旅に出でんとするにあたり、戯れに、廣瀬中佐の獨身生活に習ふべし。軍人たらんものには、 その位の覺悟なかるべからず。父は軍人にあらざるも、青年時代に曽て決意せしことありと言ひ聞かせ候處、暫し沈黙の後、 そんなら僕等生まれなかつたらよかつたかねとやり返され、一笑を禁ぜざりしことに候ひしが、續いて彼は、 僕は後顧の憂ひないやうにありたいよ、と申したるには、一驚致し候。小生はこの言を可とし、生命保險加入を約束致し候。 かくて小生としては、自分より申込みたる唯一の保險として、彼れ名義のもの者を有したる次第に御座候。

 出陣前後、彼の最も希望せしは、兄妹の結婚にして、兄はこの為時々苦笑致したる事に候。後顧の憂ひ云々の言と思ひ合せ、 彼の「家」に寄せたる志と察せられ候。

 皆々様の御同情にて、多額の香華料を頂戴し、只管感佩致し居り候。勝手ながら故人名義を以て左記各所に寄附致し候條御諒解願ひ度、 改めて感謝の意を表する次第に御座候。

   郷里銃後奉公會
   嶺前國民學校保護者會
   大連第一中學校報國隊
   海軍飛行機献納資金

 右参上御禮申し上ぐべきの處、略儀ながら書面を以て御挨拶申上げ度、しかも御多忙中冗長無用の閑文字を列ね候段、 幾重にも御詫び申上げ候。     敬 具。

    昭和十九年九月  日

大連市初音町七一
橋 本 八 五 郎

        

 当時の親が"真情"を吐露するのは、これ以上でも以下でもなかったのかと思うと、やはり戦争に巻き込まれた国民は 「堪へ難きを堪へ」ざるを得なかったようである。
 この"玉砕"については、『戰線文庫』第66号(昭和19年4月1日発行)の「巻頭言」および編集後記「銃後通信」で詳細に触れている。
 また、海軍兵学校(第70期)の同期生Mさんは「橋本君は航空隊員なのに、陸戦隊の巻き添えを食った」と残念がっておられた。

 ちなみに、当時の朝日新聞(東京 昭和19年2月26日付)に、次のような記事(見出し)が出ている。

 「クェゼリン・ルオット両島守備部隊/四千五百名全員戦死」〈ヨコ書き〉
 敵ニ個師団に損害〈タテ書き、以下同じ〉
 勇戦、最後突撃
 両島指揮官は/小田秋山両将(ヨコ2行) 軍属二千も散華
 大本営発表(昭和十九年二月二十五日十六時)
 一億、捨身で総決起 海将談
 侯爵(ヨコ2文字)音羽正彦少佐戦死(朝香宮第二王子)
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「決戦非常措置要綱」/情報局発表


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