遺書のようなものもなく、晩年、父は何を考えていたのか、私には判らない。
私が父と話らしい話をしたのは、大学四年のとき、父が上京したおり、私の就職のことや何かで、大学の近辺だったか、
新宿だったかの喫茶店で、何時間か"大人"としての話をしたのが、最初にして最後である。
卒業してから、たまに帰郷しても、殆ど話すことがないし、手紙は時々書いたが(貰ったほうが多かった)、
父は、私が父の後を継ぐ(文学関係志望)というのが、一つの楽しみのようであったが、いまだそれを果たさず、
ついに父をして、自慢たらしむ、息子にはならなかった。
六人兄弟の末っ子である私は、すぐ上の名古屋の兄(彼と私が、いまの母、つまり後妻の子である)に比べれば、
随分可愛がられたほうである。
小学生のころ、いつも本を読んでいるか、食べ物やなにやらで母を困らせている父が、
あるとき私のキャッチボールの相手を買って出たのには驚いた。
私のグローブは近所の人にもらった布製のものだが、父は素手で受ける。投げるのもごく普通で、
日ごろの父からは想像もできない姿だった。当時父はすでに六十をだいぶ越えていたはずである。
満洲へ渡ったことや、そこでの生活が父に何をもたらしたのか。また戦争に勝っておれば、違った人生を送っていただろうが、
いかんせん敗戦国、引揚げてくれば住む処もない。
やはり大学四年のころ、かつての父の教え子であった人に聞いたのだが、敗戦直後の東京は焼け野原、
いま立派な背広を着ている人たちも、みんなリヤカーを引いたりして苦労していたものですよ。
お父さんも東京へ出てきて、一踏ん張りすればよかったものをと。
それを父に話すと、子供たちのことを考えると、それが出来なかったという答えだった。
引っ込み思案が災いしたのだなと思ったが、私も多少なりとも受け継いでいる性格、これはどうしようもない。
東京で頑張れば、人生は違っていたのではないかといってみても仕方のないこと。それができなかったのは、
やはり"負けた"のだ。
父がいつも自慢していた友人は、大学の教授や偉い人たちで、それは誇りだったのかもしれないが、いかんせん他人は他人。
またみんなお年寄りだから、くしの歯の抜けるように、次々と他界され、父も寂しかっただろうと思う。
それも人間の運命だ。晩年は茨木で、近所の人たちと老人クラブ等で、話し相手がいたのが、せめてもの慰めであろうか。
息子たちがそれぞれ独立して、父から見れば立派になったのかもしれないが、これがあまり寄りつかないというのも
(私にしてみれば、少し遠いという理由で)、悲しいことだったにちがいない。
なぜ父と母が別居しなければいけないのか(双方から聞いていないので)、よく判らない、
夫婦の問題は他人には判りえないことではあるが、昨年のお祝いのときなど"和解"というか、末長くというか、
兄たちの誰も口にしなかったことが、不可解である。
いまのままで、父もよかったのか、母もよかったのか、それは知らない。
いずれにしても、父は病気の長女(一人娘)を残したことが心残りだったかもしれないが、とにかく逝ってしまった。
しかし、新築の家に入ることがよほど嬉しいらしく、いつもこれで何度かわったと自慢していたが、
今度も新しい家から旅立ちできて、よかったのではないだろうか。
何やら整然としていて、何やらわけの判らない橋本家に、父の死は一つの波紋、あるいは、後はよろしくという何かを残したことだけは確かである。
まもなく三十五日が来る。
戒名は、「塵外寂照居士」。位牌も三十年以上前に、自ら作ったものという。
(S51.5.7執筆/推敲S61.3.8)