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「ミニ自分史」(27)旧稿「父のことなど」

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〈旧稿〉父のことなど

 五月七日(金)早朝
 久しぶりに快晴、早く起きて気持ちがよい。
(中略)
 先月十八日(日)の午後六時、大阪の長兄の家にいた父が亡くなった。この二月で米寿を迎えたが、 昨年の十月にそのお祝いをすませていた。
 耳が遠くなり、腰も曲がっていたが元気で、どうしているかという、いつもと変わらぬ筆致のハガキをもらった矢先、 風呂の中で、心臓マヒということだった。返事を出さなかったのが心残りであったが、また娘の顔を一目見せたかったが、 かなわぬこととなった。
 私にとって父とは何だったのか、あるいは兄姉たちにとって、母にとって、何だったのか。 あるいは父から見て、妻は、子供たちはどう写っていたのか、ついに判らず仕舞いだった。

 遺書のようなものもなく、晩年、父は何を考えていたのか、私には判らない。
 私が父と話らしい話をしたのは、大学四年のとき、父が上京したおり、私の就職のことや何かで、大学の近辺だったか、 新宿だったかの喫茶店で、何時間か"大人"としての話をしたのが、最初にして最後である。
 卒業してから、たまに帰郷しても、殆ど話すことがないし、手紙は時々書いたが(貰ったほうが多かった)、 父は、私が父の後を継ぐ(文学関係志望)というのが、一つの楽しみのようであったが、いまだそれを果たさず、 ついに父をして、自慢たらしむ、息子にはならなかった。

 六人兄弟の末っ子である私は、すぐ上の名古屋の兄(彼と私が、いまの母、つまり後妻の子である)に比べれば、 随分可愛がられたほうである。
 小学生のころ、いつも本を読んでいるか、食べ物やなにやらで母を困らせている父が、 あるとき私のキャッチボールの相手を買って出たのには驚いた。
 私のグローブは近所の人にもらった布製のものだが、父は素手で受ける。投げるのもごく普通で、 日ごろの父からは想像もできない姿だった。当時父はすでに六十をだいぶ越えていたはずである。

 満洲へ渡ったことや、そこでの生活が父に何をもたらしたのか。また戦争に勝っておれば、違った人生を送っていただろうが、 いかんせん敗戦国、引揚げてくれば住む処もない。
 やはり大学四年のころ、かつての父の教え子であった人に聞いたのだが、敗戦直後の東京は焼け野原、 いま立派な背広を着ている人たちも、みんなリヤカーを引いたりして苦労していたものですよ。 お父さんも東京へ出てきて、一踏ん張りすればよかったものをと。
 それを父に話すと、子供たちのことを考えると、それが出来なかったという答えだった。 引っ込み思案が災いしたのだなと思ったが、私も多少なりとも受け継いでいる性格、これはどうしようもない。
 東京で頑張れば、人生は違っていたのではないかといってみても仕方のないこと。それができなかったのは、 やはり"負けた"のだ。

 父がいつも自慢していた友人は、大学の教授や偉い人たちで、それは誇りだったのかもしれないが、いかんせん他人は他人。 またみんなお年寄りだから、くしの歯の抜けるように、次々と他界され、父も寂しかっただろうと思う。 それも人間の運命だ。晩年は茨木で、近所の人たちと老人クラブ等で、話し相手がいたのが、せめてもの慰めであろうか。
 息子たちがそれぞれ独立して、父から見れば立派になったのかもしれないが、これがあまり寄りつかないというのも (私にしてみれば、少し遠いという理由で)、悲しいことだったにちがいない。

 なぜ父と母が別居しなければいけないのか(双方から聞いていないので)、よく判らない、 夫婦の問題は他人には判りえないことではあるが、昨年のお祝いのときなど"和解"というか、末長くというか、 兄たちの誰も口にしなかったことが、不可解である。
 いまのままで、父もよかったのか、母もよかったのか、それは知らない。
 いずれにしても、父は病気の長女(一人娘)を残したことが心残りだったかもしれないが、とにかく逝ってしまった。

 しかし、新築の家に入ることがよほど嬉しいらしく、いつもこれで何度かわったと自慢していたが、 今度も新しい家から旅立ちできて、よかったのではないだろうか。
 何やら整然としていて、何やらわけの判らない橋本家に、父の死は一つの波紋、あるいは、後はよろしくという何かを残したことだけは確かである。 まもなく三十五日が来る。
 戒名は、「塵外寂照居士」。位牌も三十年以上前に、自ら作ったものという。

(S51.5.7執筆/推敲S61.3.8)


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