敗戦の翌年、父が五十八歳だったときの身分証(コピー)がある。「嶺前公安分局 日僑身分 證明書」というもので、
発給年月日は「民国三五年四月二十日」で、表に「1946.4.20」とスタンプ印が押されている。
「注意項目」は、「一、本證明書於警察検査時、須提示警察加以検閲」など7項目である。
生年月日…光緒拾五年弐月参日(明治22年7月3日)、入連〈大連に入った日〉年月日…中華民国七年参月弐十九日、
すでに「無業」で前職業…満鉄高等学院嘱託/任務職別…講師、とある。
また、別の資料"当選証書"で、父の父幸之助は「平民」で、明治16年ごろ、(福井県)神宮寺村の村会議員であることが明らかになった。父はその長男である。
福井県師範学校を出て、結婚後、大連にわたり、国語の教師でもしていたのであろうか。
ここに、「満鉄若葉会 会報」1976(昭和51年3月)No.74がある。若葉会とは満鉄が作った満鉄見習夜学校=満鉄育成学校の同窓会ともいうべきものらしい。
満鉄高等学院嘱託(講師)だった、わが父との関係は詳らかではないが、同会会長の追悼特集となっている、この号に父の文章が二か所に出ている。
亡くなった会長への恩師、会員等からの弔辞欄の筆頭に「橋本梧郎」名で、「夷石君御永眠の旨、長崎の斉藤君の便りで承知、誠に愕然たるものを禁じえませんでした。
寂寞哀悼に耐えません。」(梧郎は筆名)とある。
ついで〔花籠〕欄に「橋本梧郎先生」からとして「前略―視力が衰えた上に、活字を見ると、痛いのですから閉口です。
それでも新年号は少々ガマンして拝見しましょう。」とのI氏あての手紙(一部)が転載されており、
「お眼の悪い先生に、会報の細かい活字は誠に申訳ないことゝ存じます。御無理をなさらないよう呉々もお願い申し上げます」と(注)にある。
父がこの号を受け取ったのは、この年4月2日と、赤ペンによる表紙の日時で推測できるが、それから十数日後に急死した。
前年11月に、米寿の祝いを済ませていたのが、せめてもの慰めであったか。
しかし、そのあと父より「米寿祝の翌日、せめて午前中ぐらいはゆっくり対談したかった、容易に機会がないのだから」との便りが来て、
私は忸怩たる思いを抱いたものである。