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「ミニ自分史」(43)「洗脳されていた?!」

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 その年(1995)、1月17日未明の阪神・淡路大震災で明けて騒然とするなか、10月に辞表を出すことになる私は、 昼食に入った店のテレビで震災の被害状況を見ながら、わが運命の行く末をダブらせてもいたようだ。
 辞める理由は型どおり「一身上の都合で…」と記したが、勤めを続ければ、頭か体のどちらかがおかしくなる、と思っていたからだ。
 そして、1年半後、当時の上司の退職を"祝う会"に出ると、業界のお偉方から「(上司と)喧嘩をしたの」と問われて、 「キャリアも年齢もかなり違いますから(喧嘩などやりません)」と答えると、意外なことに、「復帰する気はないか」と聞かれた。 私は、後輩たちが来て欲しいというならば、と答える。その後、音沙汰はなかったが。
 話は戻って、95年の9月末、ある国際大会に大挙して押しかけた業界人と違い、居残ったある社長(常務理事)に「辞めたいと思います」とあいさつに行った。 欲のない恬淡とした人で、「辞めるとき、俺がいなけりゃという人間は多いが、なに代わりはすぐに出てくるよ」と、快く承諾される。 最初にして最後の関門をあっさり通過することができた。
 13年3か月勤め、年末に辞めるが、受け持っていた大小の委員会関係など、皆さんに迷惑をかけないように、引継ぎ事項はほとんど文書化した。 それを知っていたわけでもないのに、上司は「橋本君は"遺書"を書くよ」といっていたそうだ。もはや、腹を立てる時期は過ぎていた。
 私がいなくなるのを「痛手だ!」と嘆いた人もいたが、私は彼の部下でも便利屋でもなかった。「びっくりした」と、飛んできた外部の人もいた。 「あの人の思うツボではないか」と慰留する人もいた。
 年末にかけて余った休暇を消化しながら、淡々と仕事をこなす。その間、委員会ごとに忘年会が行われるが、 私の担当していた場合のほとんどは送別会ともなり、なぜか申し訳なく思った。
 昼食をご馳走になるなど個人的なもの、グループでとか、ある社のある部署数人でという会もあった。 先の社長が委員長の忘年会は二次会の後、社長は自分の乗って帰るべき車を貸してくれた。
 それは10月20日から12月28日まで、記念品を下さる社長を含め、大小32件もあった。ある委員会関係では、 OBも呼んで人数が膨らみ、急きょ会場を変更する事態に。本来なら、私がすることを他人がやってくれるので照れくさかった。
 そして、最後の会は翌年、節分の夜で、お礼に新旧委員の方たち36名とその店の担当の女性に、お返しとして、 それぞれ"名入れ色紙"を贈呈した。
 ところで、会場を変更した会合は、担当者A君の代わりに私のすぐ下のS君が受付にいた。 どの会でも賛辞や惜しむ声を聞くのは送別会の定番だが、この日は二人の新旧委員が、「(上司が)橋本さんのことをアカ(共産党)だと吹聴しているが、 それはまったくのウソだ」という趣旨のことを喋った。私は幸か不幸か、そのことをその日まで知らなかった。
 二三日たって、私を昼食に誘ったS君は開口一番、「洗脳されていた」と告白したが、私はもう何もいわなかった。
 なお、その上司は私の"送別会"となった忘年会には一度も顔を出していない。


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